投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月21日(日)18時52分35秒
私が三井甲之の思想を真面目に検討しても仕方ないんじゃないかな、と思った理由のひとつは、三井甲之が戦後、「デモクラシイ」を肯定する立場になったことを知ったからです。
昆野伸幸氏の『近代日本の国体論』(ぺりかん社、2008)から少し引用してみます。(p275以下)
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第三章 三井甲之の戦後
はじめに
原理日本社の中心人物三井甲之(明治一六~昭和二八<一八八三~一九五三>)は、敗戦後、農地改革によって土地のほとんどを失い、公職・言論追放処分に付され、さらに脳梗塞で左半身不随となり、そのうえ戦地から引き揚げてきた次男時人を病気で失った。「タタカヒテヤブレシクニノウンメイヲミニゾオボユルタダチニソノママニ」と詠んだ通りに、失意の底にあった三井は、昭和天皇御製に救いを求めた。その姿は、国民宗教儀礼として明治天皇御製拝誦を説いた戦前のあり方を彷彿とさせる。
しかし、戦後の三井は他方において、「天皇親政」を説いた戦前とは異なり、「デモクラシイ」を容認し、キリスト教・仏教・儒教などの有する普遍的価値を称揚した人物であった。原理日本社を立ち上げ、蓑田胸喜とともに、自由主義的知識人を次々と弾劾した狂信的日本主義者という今日一般的な三井像からすると、意外極まりない一面であろう。
御製という日本独自の価値にすがりつく姿勢と、民主主義を認め、普遍的価値を求める志向─この一見相反する二つの要素は、戦後における三井の思想においてどのような関係があったのか。
従来、先行研究において唯一戦後の三井を検討した米田利昭氏は、彼の「デモクラシイ」や「世界主義」に関する議論を「民主主義的偽装=看板ぬりかえ」とし、戦前と戦後における三井の天皇観、ナショナリズムの一貫性を強調した。実際、三井に親しく接した彼の弟子ともいえる人たちも、口を揃えて三井の思想が戦前・戦後を通じて連続していることを証言している。(後略)
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昆野伸幸氏は偽装転向ではないという立場から種々論じられていますが、昆野説が正しいのであれば三井甲之の思想はずいぶん華奢なものと言わざるを得ず、その全体像や一貫性を追求する努力は空しい感じがしますね。
『近代日本の国体論』
http://www.perikansha.co.jp/Search.cgi?mode=SHOW&code=1000001469
私が三井甲之の思想を真面目に検討しても仕方ないんじゃないかな、と思った理由のひとつは、三井甲之が戦後、「デモクラシイ」を肯定する立場になったことを知ったからです。
昆野伸幸氏の『近代日本の国体論』(ぺりかん社、2008)から少し引用してみます。(p275以下)
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第三章 三井甲之の戦後
はじめに
原理日本社の中心人物三井甲之(明治一六~昭和二八<一八八三~一九五三>)は、敗戦後、農地改革によって土地のほとんどを失い、公職・言論追放処分に付され、さらに脳梗塞で左半身不随となり、そのうえ戦地から引き揚げてきた次男時人を病気で失った。「タタカヒテヤブレシクニノウンメイヲミニゾオボユルタダチニソノママニ」と詠んだ通りに、失意の底にあった三井は、昭和天皇御製に救いを求めた。その姿は、国民宗教儀礼として明治天皇御製拝誦を説いた戦前のあり方を彷彿とさせる。
しかし、戦後の三井は他方において、「天皇親政」を説いた戦前とは異なり、「デモクラシイ」を容認し、キリスト教・仏教・儒教などの有する普遍的価値を称揚した人物であった。原理日本社を立ち上げ、蓑田胸喜とともに、自由主義的知識人を次々と弾劾した狂信的日本主義者という今日一般的な三井像からすると、意外極まりない一面であろう。
御製という日本独自の価値にすがりつく姿勢と、民主主義を認め、普遍的価値を求める志向─この一見相反する二つの要素は、戦後における三井の思想においてどのような関係があったのか。
従来、先行研究において唯一戦後の三井を検討した米田利昭氏は、彼の「デモクラシイ」や「世界主義」に関する議論を「民主主義的偽装=看板ぬりかえ」とし、戦前と戦後における三井の天皇観、ナショナリズムの一貫性を強調した。実際、三井に親しく接した彼の弟子ともいえる人たちも、口を揃えて三井の思想が戦前・戦後を通じて連続していることを証言している。(後略)
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昆野伸幸氏は偽装転向ではないという立場から種々論じられていますが、昆野説が正しいのであれば三井甲之の思想はずいぶん華奢なものと言わざるを得ず、その全体像や一貫性を追求する努力は空しい感じがしますね。
『近代日本の国体論』
http://www.perikansha.co.jp/Search.cgi?mode=SHOW&code=1000001469