投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月23日(火)09時48分53秒
前回投稿で少し否定的な書き方をしてしまいましたが、昆野伸幸氏の『近代日本の国体論』は優れた著作だと思います。
特に「平泉史学と人類学」「平泉澄の中世史研究」には、なるほどな、と思うことがたくさんありました。
15日の投稿、「宴のまえ」で書いた安岡正篤のエピソードはずいぶん前に『林達夫著作集』で読みましたが、平凡社ライブラリー『林達夫セレクション2』にも入っていますね。
少し引用してみます。(p454以下)
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「日本の国士」もわが仲間
わたくしが一高一年のとき暮らした東寮一番に、独法の同じクラスに名をつらねている安岡正篤という男があった。同名異人ではない、あの安岡なのだ。わたくしのようなバタ臭いキザな洋学者流が、そのとき既に大人の風格のあった東洋精神の権化みたいなかかる青年と日夜顔をつき合わす因縁になるというところに、一高の寮生活の面白さがあったのだが、正直にいってその頃のわたくしのみならず、友人の誰もが、彼がのちにあのような「日本の国士」になるだろうとはゆめにも思っていなかった。
(中略)ところでその安岡には、彼の「国士」という重い地位が欲せずしてその昔の同窓との間にかもした面白い悲喜劇の幾コマかがある。これもクラスメートの辻山治平がまだ愛知県の事務官をしていた時分、ある日知事によばれてきょう東京からその高風を慕っている偉い大先生が見えるから名古屋を方々御案内しろという命令があった。いよいよ当の先生の御光来というのでキクキュージョとして彼が知事室へ這入ってゆくと、「何だ、安岡か」というわけであったが、そこは知事にバツを合わせなければならぬ下僚の悲しさ、うやうやしく敬礼して改まった言葉でアイサツしたが、さて自動車にのって二人だけになってから、「こいつめ、ひどい恥をかかせやがったな」と油をしぼったというはなし。予言者故郷に容れられずのたとえにもれず、天下の安岡の真価をいちばん知らないのが、(しかしある意味でいちばん知っているのが、)われわれその同窓であったかもしれないのである。
それと逆な話になるほほえましき一コマ。東寮一番のときの同室者で、医学を修め、のちアフガニスタンとかヨーロッパを飄々乎として漂泊して歩いた風変わりな友、今川平次が、ある夕、パリの日本料理店に這入ってゆくと壁に急告のビラがはってある。みると、今夕、大使館で来仏中の安岡正篤先生の講演の集まりがあるから、ふるってみな参会せられよ、と書いてある。今川はとるものもとりあえずすぐにそこをとび出し、つかまえたタクシーにフルスピードを命じて大使館へとんで行くと、既に講演ははじまっていた。会場後方のドアを拝して中へ這入ると、かしこまった聴衆を前に紋付羽織に威儀を正した安岡が威風堂々あたりを払って真正面の講壇で熱弁をふるっている真最中であったが、思いがけぬ今川の出現を認めると、思わず手を差しのべて「ヨオ」と言ってしまったものである。それは国士安岡のポーズでは断然なくして、まだティーンエイジャーだったそのかみの一高生安岡のテンシンランマンたるしぐさそのものであった。「魂のふるさと」一高自治寮とは、さしもの安岡にさえ国士たる心構えを一瞬忘れさすほどそんなにもなつかしい、そしてまたおそるべき場所なのである。─そして安岡もいまではもうよく知っていることだろう─おびただしい各層の人々からあんなにも畏敬され崇拝されてきたが、いつに変わらず心やすらかに愛され親しまれたのはそのむかし一高時代を一緒に送った、安岡を国士扱いできないわれわれからだけだったかもしれないと。
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林達夫が「一高一年のとき」とは1916年(大正5)ですが、この二つのエピソードは何時頃の出来事なのか。
辻山治平の方は官歴をきちんと追えば明確に特定できるでしょうが、ウィキペディアの略歴から推定すると、1930年前後ですかね。
安岡正篤(1898-1983)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%B2%A1%E6%AD%A3%E7%AF%A4
辻山治平(1897-1974)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E5%B1%B1%E6%B2%BB%E5%B9%B3
今川平次のエピソードはいつのことなのか、ちょっと見当もつきませんが、リンク先サイトによると、今川がアフガニスタンに入ったのは1934年だそうですね。
公使館設置に伴い、医官として着任。
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(15)豊原幸夫、飯田(正英)、今川平次、浅葉夫妻
斉藤積平氏と一緒に1934年の公使館設置にともないアフガンに館員として着任。豊原書記官、飯田書記生、今川医官、浅葉はコックとして。
http://homepage3.nifty.com/afghan/topics/japanese2.html
前回投稿で少し否定的な書き方をしてしまいましたが、昆野伸幸氏の『近代日本の国体論』は優れた著作だと思います。
特に「平泉史学と人類学」「平泉澄の中世史研究」には、なるほどな、と思うことがたくさんありました。
15日の投稿、「宴のまえ」で書いた安岡正篤のエピソードはずいぶん前に『林達夫著作集』で読みましたが、平凡社ライブラリー『林達夫セレクション2』にも入っていますね。
少し引用してみます。(p454以下)
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「日本の国士」もわが仲間
わたくしが一高一年のとき暮らした東寮一番に、独法の同じクラスに名をつらねている安岡正篤という男があった。同名異人ではない、あの安岡なのだ。わたくしのようなバタ臭いキザな洋学者流が、そのとき既に大人の風格のあった東洋精神の権化みたいなかかる青年と日夜顔をつき合わす因縁になるというところに、一高の寮生活の面白さがあったのだが、正直にいってその頃のわたくしのみならず、友人の誰もが、彼がのちにあのような「日本の国士」になるだろうとはゆめにも思っていなかった。
(中略)ところでその安岡には、彼の「国士」という重い地位が欲せずしてその昔の同窓との間にかもした面白い悲喜劇の幾コマかがある。これもクラスメートの辻山治平がまだ愛知県の事務官をしていた時分、ある日知事によばれてきょう東京からその高風を慕っている偉い大先生が見えるから名古屋を方々御案内しろという命令があった。いよいよ当の先生の御光来というのでキクキュージョとして彼が知事室へ這入ってゆくと、「何だ、安岡か」というわけであったが、そこは知事にバツを合わせなければならぬ下僚の悲しさ、うやうやしく敬礼して改まった言葉でアイサツしたが、さて自動車にのって二人だけになってから、「こいつめ、ひどい恥をかかせやがったな」と油をしぼったというはなし。予言者故郷に容れられずのたとえにもれず、天下の安岡の真価をいちばん知らないのが、(しかしある意味でいちばん知っているのが、)われわれその同窓であったかもしれないのである。
それと逆な話になるほほえましき一コマ。東寮一番のときの同室者で、医学を修め、のちアフガニスタンとかヨーロッパを飄々乎として漂泊して歩いた風変わりな友、今川平次が、ある夕、パリの日本料理店に這入ってゆくと壁に急告のビラがはってある。みると、今夕、大使館で来仏中の安岡正篤先生の講演の集まりがあるから、ふるってみな参会せられよ、と書いてある。今川はとるものもとりあえずすぐにそこをとび出し、つかまえたタクシーにフルスピードを命じて大使館へとんで行くと、既に講演ははじまっていた。会場後方のドアを拝して中へ這入ると、かしこまった聴衆を前に紋付羽織に威儀を正した安岡が威風堂々あたりを払って真正面の講壇で熱弁をふるっている真最中であったが、思いがけぬ今川の出現を認めると、思わず手を差しのべて「ヨオ」と言ってしまったものである。それは国士安岡のポーズでは断然なくして、まだティーンエイジャーだったそのかみの一高生安岡のテンシンランマンたるしぐさそのものであった。「魂のふるさと」一高自治寮とは、さしもの安岡にさえ国士たる心構えを一瞬忘れさすほどそんなにもなつかしい、そしてまたおそるべき場所なのである。─そして安岡もいまではもうよく知っていることだろう─おびただしい各層の人々からあんなにも畏敬され崇拝されてきたが、いつに変わらず心やすらかに愛され親しまれたのはそのむかし一高時代を一緒に送った、安岡を国士扱いできないわれわれからだけだったかもしれないと。
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林達夫が「一高一年のとき」とは1916年(大正5)ですが、この二つのエピソードは何時頃の出来事なのか。
辻山治平の方は官歴をきちんと追えば明確に特定できるでしょうが、ウィキペディアの略歴から推定すると、1930年前後ですかね。
安岡正篤(1898-1983)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%B2%A1%E6%AD%A3%E7%AF%A4
辻山治平(1897-1974)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E5%B1%B1%E6%B2%BB%E5%B9%B3
今川平次のエピソードはいつのことなのか、ちょっと見当もつきませんが、リンク先サイトによると、今川がアフガニスタンに入ったのは1934年だそうですね。
公使館設置に伴い、医官として着任。
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(15)豊原幸夫、飯田(正英)、今川平次、浅葉夫妻
斉藤積平氏と一緒に1934年の公使館設置にともないアフガンに館員として着任。豊原書記官、飯田書記生、今川医官、浅葉はコックとして。
http://homepage3.nifty.com/afghan/topics/japanese2.html