投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月 6日(火)09時17分46秒
「「ケルゼン・マイナス・批判的知性」(何が残るか?)」に対しては石川健治氏がブータラ文句を言っていますので、これも参考までに紹介しておきます。
『窮極の旅』注107(p51以下)です。
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(107) ところが、清宮が純粋法学をあくまで「踏襲して」そう呼んだに過ぎない「根本規範」の用法に対しては、戦後になって、「ケルゼンの誤解」「根本規範としては不純」といった類のマイナス評価が与えられるようになった。ひどいものになると、「「ケルゼン・マイナス・批判的知性」(何が残るか?)」とまで酷評される。参照、長尾龍一「ケルゼン伝補遺」同訳『ハンス・ケルゼン自伝』(慈学社、二〇〇七)一五六頁。なるほど、清宮や尾高ら直接ケルゼンの謦咳に接した世代に対する、次世代研究者のフラストレーションは、よくわかる。しかし、清宮らが、そもそもケルゼンでもメルクルでもなかったのだとしたら、どうであろうか。特に、樋口陽一教授をはじめ、清宮門下生の方々に伺ってみたい問題である。この問いは、言及される対象から距離をおくことができる、より若い世代こそが引き受けるべき問題だとも考えられる。
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ま、少なくとも長尾龍一氏は「清宮や尾高ら直接ケルゼンの謦咳に接した世代に対する、次世代研究者のフラストレーション」の発露として清宮・尾高を批判しているのではなく、あくまでイデオロギー批判を行える知性があるかどうか、の問題としていますね。
その能力は年齢とは関係がないので、「より若い世代こそが引き受けるべき問題」ではないでしょうね。
長尾龍一氏は、この掲示板では父親の長尾群太氏との関係で何度かお名前に触れただけだったのですが、いろいろな点で興味深い人ですね。
父親についても『純粋雑学』(信山社、1998)というユーモラスなタイトルのエッセイ集で言及されているのを見つけたので、後で紹介したいと思います。
長尾群太
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7dfc912ff3d98758c5fd5a32ceb67c5a
遼東還付の詔勅
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f8080b3b96f3aa32e5cc577d959eec90
>筆綾丸さん
>ブロディ
「ケルゼン伝補遺」(p101)によれば、
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(前略)オーストリアとロシアの国境の町で、通商上重要な地位を占めた他、ロシアのポグロム(ユダヤ人迫害)を遁れてきた人々の「遁れの町」でもあった。ナチ時代に大部分のユダヤ人は虐殺され、現在二万六千人といわれる人口中ユダヤ人は殆ど皆無である。
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とのことです。
ケルゼンの一族にもアウシュヴィッツやテレジエンシュタット収容所で亡くなった人が大勢いるそうですね。(p103)
>金沢百枝氏の『ロマネスク美術革命』
私は金沢百枝氏のフォロワーですが、装飾写本の面白さを知ったのも金沢氏のツイートがきっかけです。
もともと植物学を専攻して理学博士号を取得した後、美術史に転じたそうで、大変な才能の持ち主ですね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
小太郎さん
https://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN978-4-00-390001-7
ハンス・ケルゼン『民主主義の本質と価値』(長尾龍一・植田俊太郎訳)の「訳者解説」に、
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ケルゼンの現実認識において、意外なほど重要な手段となっているのは精神分析である。ケルゼンは個人的にもフロイトと親しく、戦時中彼のゼミに参加していた。理論上も、反民主主義体制の心理分析などにフロイトの着想を用いている。(181頁~)
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とありますが、ウィーンのカフェで、ケルゼン(1881ー1973)と留学中の茂吉(1882-1953)が、フロイト(1856-1939)の精神分析の話に聴き入っている、そんな光景を想像してみると、楽しくなりますね。
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ケルゼンとはルクセンブルクに国境を接するドイツの村の名である。この村にはかつてローマ国境警備軍が駐留し、それにユダヤ人商人が随伴した。ケルゼンもその子孫ではないかという。「黒死病(ペスト)の流行はユダヤ人の呪術のせいだ」などと迫害され、彼らは東方に逃れた。彼の史料上辿ることのできる祖先はブロディの住民である。この町は、オーストリア帝国の東北端ガリツィアの、一時は市民の過半数がユダヤ人だったという小都市で、現在はウクライナに属する。父アドルフは十四歳の時ここからウィーンに出て、照明器具職人の修業をした。やがてプラハで独立し、同地のアウグステ・ロェヴィと結婚する。長男ハンスは一八八一年、そこで生まれるが、一家は八四年にウィーンに移る。一時事業は繁栄したが、やがて苦境に陥り、一九〇七年、心臓病による父の死の後、弟エルンストの奮闘にもかかわらず、破産する。
若くして研究者を志したケルゼンは、その履歴への障碍を考慮して、一九〇五年ユダヤ教からカトリックに改宗した。改宗は人種的差別には効果がないが、まだ学界には宗教的差別も残存していた。彼は研究者としては、認識と実践の競合領域である法学において、純粋に理論的な体系を構築することを志した。経済的困難の中で、いろいろなアルバイトをしながら、ユダヤ人の弟子を抱え込むことに消極的な師ベルナチックの下で苦闘する。一九一一年、教授資格取得論文『国法学の主要問題』を公刊。ウィーン大学私講師として講壇に立ちつつ、現在のウィーン経済大学の前身の研究機関の講師となる。そこには有力者のアドルフ・ドルッカーがいて、その主宰するサロンの一員となり、彼の妻の妹マルガレーテと結婚。フリー・メーソンに誘い込まれ、(恐らくカトリック信仰と両立しないため)改めてルター派の洗礼を受ける。しかしどうもドルッカーとの関係がだんだん有難迷惑と感じられたらしく、疎隔していく。息子のペーター(有名な経営学者ピーター・ドラッカー)がケルゼンの思想に批判的だったこともある。(188頁~)
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ケルゼンの内面は宗教的に非常に複雑だったようで、こういう人にとって、「根本規範の仮説性」は至極当然のことだったでしょうね。
https://de.wikipedia.org/wiki/Gasbeleuchtung
引用文中の「照明器具」とは、ガス灯のことなんでしょうね。
追記
https://www.shinchosha.co.jp/book/603775/
金沢百枝氏の『ロマネスク美術革命』に、装飾写本への若干の言及がありますね。