学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

尾高朝雄と田中耕太郎

2015-10-17 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月17日(土)12時36分39秒

またまた『田中耕太郎 人と業績』からの長い引用で恐縮ですが、阿南成一氏(大阪市立大学名誉教授、法哲学)の「田中先生と現代自然法論」も興味深いですね。(p298以下)

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 昭和二十二年四月、ちょうど私が卒業して研究室に入ったときに、尾高朝雄先生の名著『法の窮極に在るもの』が上梓された。先生のお使いでその献呈本を持って田園調布の田中先生宅に伺った。先生はしばらく頁を繰っておられた。そうでなくても余りものを言われない先生がいつ何を言われるかと、私は固くなったまま待っていた。その間じっさいには十分位かもしれないが、私にはそれが三十分以上にも思われた。そして、開口一番、「君はもちろんこれを読んだだろうが、これは<自然法>に近いところもありそうだが、どう思うかね」と質ねられた。私はしどろもどろながらも、「<自然法>ということばを使うことを意識的に避けておられるように思います」というようなお答えをした。かねて、尾高先生の書かれたものや、ゼミその他での御口説からも、そう解してまちがいないと思われたからである。
 周知のように、そのごまもなく法学協会雑誌(六五巻一号)に田中先生が書評を書かれた。御記憶の向きも多いと思うが、「我々は著者につれられて広大な、百花らんまんたる花園を横切ろうとする。目的の地点がどこにあるか、それは我々に秘せられている。我々は……ヘルメスの塑像の由来についての著者の講義を聴く。次の広場には蜂房が置いてあり、……蜜蜂の生活についての薀蓄に耳を傾ける。第三、第四の広場でもそれぞれ面白い話題が発見せられる。我々はむさぼるような興味で話に聞き入るのであるが、我にかえって見ると多少の疲労を覚え、又日も傾き初め、目的の地点はどこか、又何時そこに着くかが気にかかり出した。ところが心配無用で、我々は飛んでもない所に連れられて行ったのではなく、これは花園の入口だったのであった。かようにして我々はペダゴーギッシュに甚だ有益な法律哲学的の散策を終えたのである。」という田中先生の書評の<むすび>は、『法の窮極に在るもの』の特徴を言い当てて妙であり、その強烈な印象を私は今もなお忘れえない。
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この後、尾高・田中間の<自然権>論争が簡単に紹介されます。
それにしても『法の窮極に在るもの』をこれほど芸術的な表現で的確に批評できる人は、同時代には田中以外にいなかったでしょうね。

>筆綾丸さん
>「一老人の幼時の追憶」
伊原元治・大沢章・植野勲氏との共訳で、大正3年に興風書院という出版社から『生ひ立ちの記』という題で出版され、大正15年に『一老人の幼時の追憶』と改題されて岩波書店から出て、更に昭和13・14年に岩波文庫で上中下の三巻本が出たようですね。
大正15年のものは755p、図版19枚だそうですから、なかなかの大著ですね。
時々行く図書館で閲覧できそうなので、後でどんな内容か確かめてみます。

>小泉信三
田中耕太郎夫人の父は松本烝治、母は小泉信吉の娘、すなわち小泉信三の妹なので、田中にとって小泉信三は義理の伯父になりますね。
もっとも小泉信三は1888年生まれなので、田中より2歳上なだけですが。

松本烝治(「歴史が眠る多摩霊園」サイト内)
小泉信三(同上)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

鷗外の序文を代筆した男 2015/10/16(金) 13:40:12
小太郎さん
『現代随想全集 27 田中耕太郎・恒藤恭・向坂逸郎 集』(昭和三十年 創元社)の内、田中耕太郎の解説をしている井上茂という人の文に、次のような箇所がありますが、佳話ですね。
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學生時代に博士から次のような話を聞いたことがある。大學時代、ウィルヘルム・フォン・キューゲルゲンの「一老人の幼時の追憶」を獨法の友人と飜譯し、これを出版することになつた。新渡戸博士の紹介で、森鷗外の序文をもらうことになつた。鴎外のもとに出掛けた博士は、彼をとりまく人々がずらりとならんでいる處で、來意を告げたところ、鷗外は快よく承諾してくれたが、その文章はそちらで書くようにとのことであつた。そこで、鷗外の序文は、田中博士が書くことになつた。「最近、小泉信三氏から、あの序文が今出ている鷗外全集に收められている、と云われて笑い合つた」と、博士はにこにこしながら語つたものである。昭和十四、五年のことであつた」(145頁~)
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田中耕太郎の随想集には、「ヴェネチアの印象」「ベートーヴェン的人間像」「繪畫放談」というのがあって、絵画や音楽に関する氏の造詣の深さには驚くばかりです。

向坂逸郎の『谷崎潤一郎と貨幣論』は、谷崎の小説『小さな王國』を題材に貨幣を論じたもので、とても興味深く、冒頭はこんな風です。
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ここに言う谷崎潤一郎氏というのは、小説家の谷崎潤一郎氏のことであつて、外に同名の經濟學者がいるわけではない。また、この谷崎氏が、經濟學の本や、貨幣についての論文を書かれたわけでもないのだから、この題は奇をてらつたようにとられても仕方がない。しかし、ある程度本氣なのである。詩人が、恐らく専門學者にとつて厄介な問題を、専門學者よりよく問題にしている例は、これまでにないわけではない。例えばゲーテやバルザックのある種の作品のように。また、トルストイの『戦争と平和』における歴史論のように。(271頁)
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恒藤恭の『友人芥川の追憶』には胸を打たれます。
コメント
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