内藤頼博氏(元名古屋高裁長官、元学習院長、元子爵、1908-2000)の「田中先生の思い出」(『田中耕太郎 人と業績』p352以下)は、安保法制で騒々しかった今年の夏の憲法学者たちの様子を思い出しながら読むと、なかなか味わい深いものがありますね。
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昭和一四年の秋のことである。私たちは司法研究所に入所した。その研修中に田中耕太郎先生が研究所に来られたときのことが、私には忘れられない。
その頃の司法研究所は、いまの司法研修所とはちがう。当時、支那事変が進展して戦時の態勢に入るとともに、いわゆる国家総動員を目標に、時勢は軍国主義の色彩を次第に濃くしていた。司法研修所の研修も、この時勢に応じて、判事・検事の再教育を主眼とするものであった。
当時入所したのは、任官後七、八年を経た判事と検事で、約五〇名であった。
研修中には、塩野司法大臣の講演もあった。塩野法相は、その講演の中で"今日、検察も進歩したし、行刑も改善されたが、裁判だけは旧態依然たるものがある。"といって、当時の裁判のあり方を批判された。そういう情勢の下で、司法の正しいあり方を求めていた私たち判事仲間は、その"旧態依然たる"ことに内心誇りを感じていたものである。
その少し前から、その塩野法相を中心に、日本法理研究会というものが作られていた。その会の実体を私は詳らかにしないが、判事や検事や大学教授などを集めて、民事・刑事その他各分野にわかれて研究会を作り、"東亜の盟主"にふさわしい日本独自の法理を研究しようという、相当大がかりなものであった。多数の判事や検事がこれに参加し、大学の教授方も多数参加されて、当時は、これが法曹界・法学界の大勢を占める形となった。東大で私たちが教えを受けた著名な先生方も、すでに何人か参加しておられた。
田中先生が司法研究所に来られたのは、そういう頃のことである。先生が教官室に入ってこられたとき、私はたまたまそこに居合わせた。すると検事の教官二人が早速先生をつかまえて、日本法理研究会に入って頂きたいとお願いした。ほんとうに何でもなく、気やすく引きうけて頂けるものと信じ込んでのお願いであった。
すると、田中先生は微笑を浮かべておだやかにいわれた。"そんなものに学者が入ったら、後世の笑いを買いますよ。"二人の教官は唖然とした。全く二の句がつげない。痛快だった。そして感激した。本当の学者の土性骨というものを、そこにみた。そして、学問というものの真のきびしさに初めて触れた心地がした。
"後世の笑いを買いますよ。"といわれた田中先生のお声が、三十数年を経た今日でも、妙に私の耳から離れない。田中先生が終生貫かれたのは、その学者としての態度であった。
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樋口陽一氏が山口二郎氏とともに「共同代表」をつとめる「立憲デモクラシーの会」に参加した憲法学者なら、安倍首相は"東亜の盟主"にふさわしい日本独自の憲法を制定しようとしており、その安倍が率いる国家権力に対抗する自分たちは、昭和14年の田中と同じく「後世の笑いを買」わないように今闘っているのだ、と言うかもしれません。
他方、改憲の動きと安保法制は別問題であると考え、「立憲デモクラシーの会」が行っていた大衆扇動に違和感を覚える少数(?)の憲法学者は、「立憲デモクラシーの会」のような団体に「学者が入ったら、後世の笑いを買いますよ」と思うかもしれませんね。
内藤頼博
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E9%A0%BC%E5%8D%9A