学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「そんなものに学者が入ったら、後世の笑いを買いますよ」(by 田中耕太郎)

2015-10-16 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月16日(金)11時17分17秒

内藤頼博氏(元名古屋高裁長官、元学習院長、元子爵、1908-2000)の「田中先生の思い出」(『田中耕太郎 人と業績』p352以下)は、安保法制で騒々しかった今年の夏の憲法学者たちの様子を思い出しながら読むと、なかなか味わい深いものがありますね。

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 昭和一四年の秋のことである。私たちは司法研究所に入所した。その研修中に田中耕太郎先生が研究所に来られたときのことが、私には忘れられない。
 その頃の司法研究所は、いまの司法研修所とはちがう。当時、支那事変が進展して戦時の態勢に入るとともに、いわゆる国家総動員を目標に、時勢は軍国主義の色彩を次第に濃くしていた。司法研修所の研修も、この時勢に応じて、判事・検事の再教育を主眼とするものであった。
 当時入所したのは、任官後七、八年を経た判事と検事で、約五〇名であった。
 研修中には、塩野司法大臣の講演もあった。塩野法相は、その講演の中で"今日、検察も進歩したし、行刑も改善されたが、裁判だけは旧態依然たるものがある。"といって、当時の裁判のあり方を批判された。そういう情勢の下で、司法の正しいあり方を求めていた私たち判事仲間は、その"旧態依然たる"ことに内心誇りを感じていたものである。
 その少し前から、その塩野法相を中心に、日本法理研究会というものが作られていた。その会の実体を私は詳らかにしないが、判事や検事や大学教授などを集めて、民事・刑事その他各分野にわかれて研究会を作り、"東亜の盟主"にふさわしい日本独自の法理を研究しようという、相当大がかりなものであった。多数の判事や検事がこれに参加し、大学の教授方も多数参加されて、当時は、これが法曹界・法学界の大勢を占める形となった。東大で私たちが教えを受けた著名な先生方も、すでに何人か参加しておられた。
 田中先生が司法研究所に来られたのは、そういう頃のことである。先生が教官室に入ってこられたとき、私はたまたまそこに居合わせた。すると検事の教官二人が早速先生をつかまえて、日本法理研究会に入って頂きたいとお願いした。ほんとうに何でもなく、気やすく引きうけて頂けるものと信じ込んでのお願いであった。
 すると、田中先生は微笑を浮かべておだやかにいわれた。"そんなものに学者が入ったら、後世の笑いを買いますよ。"二人の教官は唖然とした。全く二の句がつげない。痛快だった。そして感激した。本当の学者の土性骨というものを、そこにみた。そして、学問というものの真のきびしさに初めて触れた心地がした。
 "後世の笑いを買いますよ。"といわれた田中先生のお声が、三十数年を経た今日でも、妙に私の耳から離れない。田中先生が終生貫かれたのは、その学者としての態度であった。
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樋口陽一氏が山口二郎氏とともに「共同代表」をつとめる「立憲デモクラシーの会」に参加した憲法学者なら、安倍首相は"東亜の盟主"にふさわしい日本独自の憲法を制定しようとしており、その安倍が率いる国家権力に対抗する自分たちは、昭和14年の田中と同じく「後世の笑いを買」わないように今闘っているのだ、と言うかもしれません。
他方、改憲の動きと安保法制は別問題であると考え、「立憲デモクラシーの会」が行っていた大衆扇動に違和感を覚える少数(?)の憲法学者は、「立憲デモクラシーの会」のような団体に「学者が入ったら、後世の笑いを買いますよ」と思うかもしれませんね。

内藤頼博
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E9%A0%BC%E5%8D%9A
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岩元禎と田中耕太郎

2015-10-16 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月16日(金)09時59分40秒

雄川一郎氏(東大名誉教授、行政法、1920-85)の「田中先生の思い出─その始めと終りの頃─」(『田中耕太郎 人と業績』p285以下)には「偉大なる暗闇」のモデルとも言われる岩元禎が出てきますね。

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【前略】大学の一年のときに、有名な一高の岩元禎先生が亡くなられた。田中先生は岩元先生に傾倒しておられたようであるが、そのとき、東大新聞に岩元先生を偲ぶ長文の文章を書かれたことがある。一高で私どもが岩元先生にドイツ語をおそわった最後のクラスであった。その頃は岩元先生も衰えられて、先輩から話にきかされている往年の先生の凄さはわずかに片鱗をとどめる位であったが、われわれは、あの田中先生や三谷隆正先生が無条件に頭を下げるのだから岩元先生は余程偉かったのだろうなどと話し合ったものである。

『偉大なる暗闇 岩元禎と弟子たち』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1cef11eac16b0c7e7faf16b7d215aa98

雄川氏はラートブルフ法哲学の輪読会にも触れていますが、その後の小型映画のエピソードの方がむしろ興味深いですね。

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 大学を出て、特別研究生として勉強を始めた頃、先生は尾高朝雄先生と共同で、われわれを集めてラートブルフ法哲学の講読を始められた。このことについてはすでにいろいろな人によって語られているが、おそらく、先生としては、戦時体制下であればこそ、研究生活のスタートについた者の指導を特に重要と考えられたのではないかと思われる。そしてまた石井照久先生などを通じて若い者に遠慮せずに話に来いというお話もあったのもそういうことであったのであろう。そこで、矢沢惇君や服部栄三君などと一緒にしばしば目白のお宅にうかがい、終電車近くまで学問の内外にわたっていろいろとお話をうかがったものである。また、これもその頃お宅で先生自らの作になる「ラテン・アメリカ紀行」(と記憶している)なる小型映画を見せて頂いたことがあるが、それが私がはじめて見たカラー・フィルムであった。今でこそ海外旅行でカラー・シネを撮ってくることは誰でもやることだけれども、当時は大変珍しいことであった。ニューヨークの夜景などにはおどろいたものである。後年私がコロンビア大学に留学したとき、タイムズ・スクエアのあたりを歩きながら、この映画のことを思い出したのである。
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雄川一郎氏と矢沢惇氏(東大教授、商法、1920-80)は一高で山口啓二氏(1920-2013)と同級だったそうで、「聞き書き─山口啓二の人と学問」にもちらっと登場しますね。

「ははーんと思いましたね」(by 山口啓二氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9781677dd1dff39fb1f2c6853174b3b6

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