学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「そんなものに学者が入ったら…」(その3)

2015-10-21 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月21日(水)09時56分15秒

続きです。

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 近時法学会に於て、中央の学会誕生の機運ありと聞く。まことに慶ぶべきことである。而してそれが、真に日本の中央法学会であるならば、恐らくは本会の同志がその中枢の大部分を占めることであらう。何となれば、現在最も真剣に、最も活発に日本の法学を研究しつゝあるのは本会であるし、又本会の同士達であるからである。
 私は学者でもない。又現在では司法の実務をも引退したものである。たゞこれ等の人々が集つて、ひたすら日本の法学、日本の法制を打樹てんとする懸命の努力に対して、傍にあつて世話をしてゐるに過ぎない。所謂ワキ役である。
 シテ役としては、例へば東京帝大の小野清一郎博士の如き、殆ど連日本会の各部会に出席して、共同研究の指導的役割をつとめて居る。又末弘巌太郎博士の如きも、法学部長の劇職にあり乍、本会の民事部会の主任者として多忙の時間を割いて参加せられ、国民精神文化研究所の大串兎代夫氏の如きも亦忙しいからだで本会の基本法理部会の責任者をつとめて居る。その他鵜沢聡明博士はじめ東大の高柳賢三、杉村章三郎、難波田春夫、中央大学の天野徳也、川原次吉郎、岩田新、早稲田大学の中村弥三次、内田繁隆、酒枝義旗、中村宗雄、遊佐慶夫、明治大学大谷美隆、慶応大学峯村光郎、英修道、国民精神文化研究所黒川真前、増田福太郎、大倉精神文化研究所長新見吉治、西田長男、商大常磐敏太、農大沢田五郎、日本外政協会松下正寿、太平洋協会平野義太郎等の諸氏も熱心な参加者である。又司法畑に於ても久礼田益喜、安平政吉、中島弘道、梶田年、犬丸巌、柳川昌勝等の諸君は、むしろ学者としての立場で共同研究に加はつて居り、一方、林徹、平出禾、関之、野間繁の諸君は幹事役として各部会の推進的役割を果してゐる。
 この人達を中心にして、在京の学者、実務家数十人が入れ替り一週三四回の研究会に出席して意見を闘はし、相共に日本の法学と、日本の法制を樹立せんと努力してゐるのが本会の内容である。この地方の学界にあつても、例へば京都帝大の牧健二博士、満州建国大学の滝川政次郎博士の如き、何れも上京の都度顔を出して、連絡と激励とを忘れない人達であるが、その他にも地方に在つて、文書によつて熱心に研究に参加する人数も相当に上つてゐる。
 我々は更に今年は、在野法曹の間に同志を見出して、この方面よりする司法制度の見直し、時局即応態勢強化につき大いに資するところあらんと期してゐる。
 素材既にあり、機構亦成る。日本法学樹立のこと何か成らざらんやである。
 日本法学の樹立は大東亜法秩序建設の根幹である。かくして我々は我々の立場に於て、皇国の大事に馳せ参ずるのである。
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小野清一郎(1891-1986)は刑法・旧派の大家ですね。
末弘巌太郎(1888-1951)は民法の大家であるとともに法社会学・労働法の開拓者としての功績があり、ちょっと前には蓑田胸喜あたりから攻撃を受けていた人なので、その思想的変化には興味深い点があります。
鵜沢聡明(1872-1955)は学者というより弁護士・政治家としての印象が強い人ですが、この当時は明治大学総長だったようですね。
戦後は極東国際軍事裁判で弁護団長を勤めています。
高柳賢三(1887-1967)は英米法の大家で、戦後は憲法調査会の会長としての活動が著名ですね。
杉村章三郎(1900-91)はここに出てくるのがちょっと意外ですが、蓑田胸喜らから厳しい攻撃を受けた一木喜徳郎枢密院議長の息子で、専門は行政法ですね。
難波田春夫(1906-91)は経済学者なので、何で日本法理研究会に入っていたのか不思議です。
中央・早稲田・明治・慶応大学の人は、正直、私は名前も聞いたことがありませんでした。
国民精神文化研究所の増田福太郎は筧克彦の弟子で、最近、ちょっと調べたのですが、細かすぎる話になるので紹介は控えます。
松下正寿(1901-86)は国際政治学者で、後に立教大学総長となった人ですね。
平野義太郎(1897-1980)は『日本資本主義発達史講座』の執筆者で、「講座派三太郎」の一人として著名ですが、思想的には何度も変節し、毀誉褒貶の激しい人ですね。
京都帝大・牧健二(1892-1989)の専門は日本法制史、満州建国大学の滝川政次郎(1897-1992)も日本法制史の研究者で、国学院大学名誉教授ですね。

小野清一郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%B8%85%E4%B8%80%E9%83%8E
末弘厳太郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E5%BC%98%E5%8E%B3%E5%A4%AA%E9%83%8E

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「そんなものに学者が入ったら…」(その2)

2015-10-21 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月21日(水)08時26分21秒

田中耕太郎が「そんなものに学者が入ったら、後世の笑いを買いますよ」と「微笑を浮かべておだやかに」言ったという「日本法理研究会」、私も名前くらいしか知らなかったのですが、白羽祐三氏(中央大学名誉教授、民法学、1925-2005)に『「日本法理研究会」の分析』(中央大学出版部、1998)というそのものズバリのタイトルの本がありますね。
ざっと読んでみましたが、残念ながら白羽氏自身の分析はそれほど鋭いものではなく、というか頓珍漢な部分も多く、引用部分のみ資料集として役に立つ本でした。
備忘のため、若干の引用をしておきます。
まず、昭和15年7月に日本法理研究会を設立した塩野季彦の意図は何かというと、

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第四章 日本法理研究会の結成と目的
 第一節 日本法理研究会の設立

一 「法道一如」の信念
 前述の如く塩野は「自分一箇」の考えで研究会を創設しようとしたが、その考え方の大筋は彼自身の言を引用すれば次の如きものである。
 「現行法は翻訳法であって国民の生活や感情に即しないものがあり、道義は法律の裏づけで、此裏づけがあってこそ法律は適正に行われると考えられるのに、法律は道義を離れて別世界を形成しつつあるを憂慮し、法と道義との一体化を企図して見たらどうか、国民感情に添うように改良したらどうか」
ということであった。【後略】
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のだそうです。(p141)
私にとって一番興味があるのは参加した学者の名前で、小野清一郎・末弘巌太郎・高柳賢三の三人が参加したことはそれなりに有名ですが、他のメンバーについて、単純な名簿としてではなく、その実質的な役割への若干の評価を加えた上で列挙した資料としては、『法律新報』700号(昭和19年1月)の冒頭に掲載された塩野の「皇国の大事に参ず」という論説が役に立ちますね。
最初の方もそれなりに面白いので、少し長めになりますが、紹介しておきます。(p189以下)

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皇国の大事に参ず
    日本法理研究会長 塩野季彦

 今年こそは米英を打破る年である。否打破らなければならぬ年である。
 戦局は愈々大詰に来た。苛烈とか、深刻とか、形容詞で現はすべき段階ではない。国が亡びるか、亡びないかといふ年である。
 神州不滅はたしかに我々日本人の信念である。天佑と神助はまさに皇国の国柄の齎すところである。しかしそれは飽くまでも、我々自身が自らの全存在を皇国の運命に一体化せしめ、身を以て神州の危急に殉ずることを前提としての立言であつて、かゝる積極的の心構へと実践なくして、いたづらに神州の不滅を説き、神風に頼ることは、却つてこの戦争を傍観する者の態度であつて、この期に及んでは国家の為に危険であると申さねばならぬ。
 かゝる他力本願的な観念を反省すると共に、一方、一局部面の小波瀾に一喜一憂することなく、世界史を動かす大きな底のうねりに真正面から取り組んで行く態度こそ、現下の日本人に求められるところであらう。
 これを法律界に視る。
 今日学者たると、実務家たると、在朝と在野を問はず、法曹の職域にある者にして、真に亡国の国運を一身の双肩に担ふと自負し得るもの幾人かある。今日にして尚敵米英が思想の糟粕を嘗めて省みざるの徒ありとせば、まさに恥死すべきである。
 我々は日本法理研究会に於て、真に日本の法律人を求めた。こゝに集る人々だけは少なくとも法曹界に於て日本人たるに恥ぢざる人々であることを確信する。一度本会の研究会に臨み、その空気に触れた人ならば、真の日本の法学はこゝに生まれつゝあり、真の日本の法律人はこゝに育ちつゝあることを感じるであらう。
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いったんここで切ります。

塩野季彦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E9%87%8E%E5%AD%A3%E5%BD%A6
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