投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月10日(土)11時24分15秒
『ジュリスト』964号(1990)の清宮追悼特集は芦部信喜(学習院大教授、当時)・高見勝利(北大教授、当時)・樋口陽一(東大教授、当時)の三氏による座談会の記録「研究会 清宮憲法学の足跡」(p80以下)と樋口氏の「国法秩序の論理構造の究明─清宮四郎先生の戦前の業績─」(p94以下)、そして高見氏の「日本国憲法の基本構造の究明─清宮四郎先生の戦後の業績─」(p97以下)の三部から構成されていますが、冒頭の座談会記録は参加者が樋口・高見論文を予め読んだ上で語り合ったものです。
樋口氏が司会となり、最初に芦部氏の意見を求めますが、その中で根本規範に関する部分を引用します。(p82)
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○事実の規範力を認むべしという原理
もう一つ問題点として感じたことは、事実の規範力を認むべしという原理、これこそ根本規範である、という先生の命題についてです。先生はこの根本規範論によって、イェリネックの「事実の規範力」も、ケルゼンの「根本規範」も、「更生の途を見出すことができ、違法の後法が実定法として存在することを基礎づけることができる」と言われております。しかし、これは結局、勝てば官軍の理論にならないかどうか。先生は、「違法の後法」という一九三四年の論文の「事実の規範力を認むべし」という原理に触れた箇所で、「法は実効的に貫行され得るが故に通用するのではなく、実効的に貫行され得る時に通用するのである」というラードブルフの言葉を『法哲学』から引用しておられますが、ラードブルフは『法哲学』において、「われらに静安を与うる者が主である」というゲーテの『ファウスト』の言葉を引き、「これこそあらゆる実定法の効力が根拠を置く根本規範である」と述べ、その上で、「法は有効に実現しえられるが故に効力を有するのではなく、それが有効に実現しえられるときにはじめて法的安定性を与えられるが故に効力を有する」と述べているのです。つまり実定法の効力は、安定性に根拠があるという立場です。この安定性、これは正義と言い換えてもよいと思うのですが、清宮先生の根本規範論には、この正義の要件が欠けているのではないのか。そのため、事実の規範力説に著しく近いという印象を受けるのです。そう解してよいかどうか、これが二つ目の問題点です。
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『ジュリスト』964号(1990)の清宮追悼特集は芦部信喜(学習院大教授、当時)・高見勝利(北大教授、当時)・樋口陽一(東大教授、当時)の三氏による座談会の記録「研究会 清宮憲法学の足跡」(p80以下)と樋口氏の「国法秩序の論理構造の究明─清宮四郎先生の戦前の業績─」(p94以下)、そして高見氏の「日本国憲法の基本構造の究明─清宮四郎先生の戦後の業績─」(p97以下)の三部から構成されていますが、冒頭の座談会記録は参加者が樋口・高見論文を予め読んだ上で語り合ったものです。
樋口氏が司会となり、最初に芦部氏の意見を求めますが、その中で根本規範に関する部分を引用します。(p82)
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○事実の規範力を認むべしという原理
もう一つ問題点として感じたことは、事実の規範力を認むべしという原理、これこそ根本規範である、という先生の命題についてです。先生はこの根本規範論によって、イェリネックの「事実の規範力」も、ケルゼンの「根本規範」も、「更生の途を見出すことができ、違法の後法が実定法として存在することを基礎づけることができる」と言われております。しかし、これは結局、勝てば官軍の理論にならないかどうか。先生は、「違法の後法」という一九三四年の論文の「事実の規範力を認むべし」という原理に触れた箇所で、「法は実効的に貫行され得るが故に通用するのではなく、実効的に貫行され得る時に通用するのである」というラードブルフの言葉を『法哲学』から引用しておられますが、ラードブルフは『法哲学』において、「われらに静安を与うる者が主である」というゲーテの『ファウスト』の言葉を引き、「これこそあらゆる実定法の効力が根拠を置く根本規範である」と述べ、その上で、「法は有効に実現しえられるが故に効力を有するのではなく、それが有効に実現しえられるときにはじめて法的安定性を与えられるが故に効力を有する」と述べているのです。つまり実定法の効力は、安定性に根拠があるという立場です。この安定性、これは正義と言い換えてもよいと思うのですが、清宮先生の根本規範論には、この正義の要件が欠けているのではないのか。そのため、事実の規範力説に著しく近いという印象を受けるのです。そう解してよいかどうか、これが二つ目の問題点です。
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