学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「序章 北山の准后 貞子の回想」(その2)

2017-12-11 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月11日(月)22時45分6秒

続きです。(p17以下)

-------
 後に述べるように、隆房夫妻は、建礼門院を大原から四条家の菩提寺の善勝寺に引き取ってお世話していたし、また平知盛の未亡人の治部卿局を自邸─四条大宮第─に住まわせていた。貞子は、少女の時分から年に何回となく祖父や両親につれられて白河の善勝寺に参詣したに相違ない。そしていくたびかその寺で静かに余生を送っておられる建礼門院を拝し、昔語りを承ったことであろう。この悲劇の女主人公であった女院の印象と懐旧談の数々は、生涯彼女の脳裡に鮮やかに残っていたはずである。
 治部卿局も、壇ノ浦で夫・知盛の壮烈な最後や安徳天皇の入水を傍近くで目撃したばかりでなく、建久七年には息子の知忠の首実験を強いられた悲劇の女性であった。同じ邸内に住んでいた治部卿局は、折にふれて平家の栄光と惨劇の次第を貞子に語り聞かせたに違いないのである。
 小督局〔こごうのつぼね〕とのロマンスで有名な貞子の祖父の隆房は、高階泰経(一一三〇-一二〇一)と並んで後白河法皇の寵臣中の双璧であった。そうした背景もあって、隆房は、壇ノ浦の後においても公然と平家の支持者としての態度を表明して憚らなかった。父の隆衡は、平清盛の孫であったから、これまた平家に対して親近感を抱いていた。以上によってもその一端が窺える通り、貞子は平家の縁者、同情者、関係者に囲まれた環境で成人したのである。
-------

いったん切ります。
「四条家の菩提寺の善勝寺」は法勝寺に隣接していたそうで、いかにも院の近臣として富裕で鳴らした四条家らしい場所にあります。
「勝」は付きますが、善勝寺はいわゆる六勝寺ではありません。
しかし、善勝寺の創建は応徳四年(1087)で、承暦元年(1077)創建の法勝寺に遅れるだけであり、尊勝寺(1102)・最勝寺(1118)・円勝寺(1128)・成勝寺(1139)・延勝寺(1149)より早いんですね。
善勝寺から見れば、六勝寺に善勝寺が隣接していたのではなく、自分が法勝寺と仲良く寄り添っていたところに、「五勝寺」が後からずうずうしく割り込んできたことになります。
この点は以前調べていて、少し驚きました。

善勝寺から見た「五勝寺」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/23a0483cfc5c4eef3fac1df2fe95a936

さて、続きです。

------
 やがて貞子は、西園寺家の藤原実氏(一一九四-一二六九)の正妻となり、娘を二人ほど産んだ。西園寺家は、「承久の乱」後、著しく脚光を浴びて政界に雄飛し、実氏は太政大臣まで昇進したし、また娘の姞子(後の大宮院)は、後嵯峨天皇の中宮に建てられ、後深草・亀山両天皇を産んだ。さらにはもう一人の娘の公子(後の東二条院)は、後深草天皇の中宮となった。
 これに加えて健康に恵まれていたため、貞子の福慶は、たぐい稀なものであった。しかしその間にも彼女は、残された平家の人びとのさまざまな運命に心を寄せ、八、九十年に亘って彼らの禍福、浮沈を見守り続けたのである。
 実のところ、平清盛の曾孫に生まれ、きわめて平家的な環境の中で育ち、かつ鎌倉時代を生き抜いた藤原貞子ほど『平家後抄』の著者として好適な人物は、他に求め得ないであろう。しかし貞子は、父や弟の隆親とは違って文才に恵まれなかったらしく、親しく見聞した平家一門の人びとの動きについては、なにひとつ記録を遺さなかった。『とはずがたり』の作者・二条は、貞子の義理の孫、つまり養女の近子が産んだ娘であった。なぜ貞子は、この二条に口述・筆記をさせなかったのであろうか。
 これは今さら悔んでも為〔せ〕ん方ないことである。しかしそれだけに北山の准后─従一位・藤原朝臣貞子─に代って壇ノ浦以後の平家の動静について綴ってみようという意欲も旺〔さか〕んに盛り上がるのである。
-------

「なぜ貞子は、この二条に口述・筆記をさせなかったのであろうか」には、ちょっとドキッとさせられますね。
ま、後深草院二条は母方より父方の村上源氏の出自、太政大臣久我通光の孫であることを重視しており、また正嘉二年(1258)生まれであって北山准后と62歳違いますから、特に平家への思い入れはなかったような感じもします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「序章 北山の准后 貞子の回想」(その1)

2017-12-11 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月11日(月)21時51分19秒

7日の投稿で「これから行う検討に際しては、他で入手できる情報はそのソースを明示するに止め、あくまで私のそれなりに独自性のある見解を簡明に述べて行きたいと思います」と書いたばかりで恐縮ですが、私の議論の中で非常に重要な位置を占めることになる四条家については、読者にある程度予備知識を持っていただく必要があります。
四条家については相当に歴史好きな人でもあまり御存知ないと思いますので、初版が1978年とかなり前に出た本ですが、今なお四条家を知るにはベストと思われる角田文衛氏の『平家後抄』から、その冒頭を少し長めに引用させてもらいます。
『平家後抄』は、

--------
平家は壇ノ浦で滅んだのか?『平家物語』その後
女系を通じ現代にまで繋がる平家血流の研究

平維盛の子、平家の最後の嫡流六代の斬刑により、「平家は永く絶えにけり」と『平家物語』は結ぶ。しかし、壇ノ浦の惨敗の後、都に帰還した平家の女性(にょしょう)たちの血は、皇族、貴族の中に脈々と生き続け、実に現代にまで続いていることを忘れてはならない。北山の准后藤原貞子に仮託して、壇ノ浦以後の平家の動静を克明にたどる名著。

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784061594340

であって、角田文衛氏の数ある著作の中でも特に傑作との評価が高い本ですね。
引用は講談社学術文庫版『平家後抄 落日後の平家(上)』から行います。(p15以下)

-------
   序章 北山の准后

 貞子の回想

 北山の准后〔ずごう〕の名で朝野の尊崇を一身にあつめていた藤原貞子がその永い生涯を閉じたのは、後二条天皇の乾元元年(一三〇二)十月一日のことであった。日本の歴史を通じて、この貞子ほど栄耀と長寿に恵まれた女性は稀であって、『増鏡』(第十「老のなみ」)にも、

  いとやんごとかりける御さいはひなり。むかし御堂〔みだう〕殿の北方、鷹司〔たかつかさ〕殿と聞えしにも劣り給はず。

とみえ、貞子の幸福は、藤原道長の正妻で、九十歳の高齢まで生きた源倫子〔ともこ〕に劣らぬ旨が述べられている。
 実際、貞子の九十歳の算賀が盛大に催されたのは、弘安八年(一二八五)二月三十日のことであったが、その祝賀は、後宇多天皇、後深草上皇、亀山上皇、大宮院(藤原姞子〔よしこ〕)、東二条院(藤原公子)、新陽明門院(藤原位子)、東宮(後の伏見天皇)の臨御のもとに北山の西園寺第〔てい〕(今の金閣寺のあたり)で華々しく催され、まことにそれは未曽有の盛儀であった。その次第は、『増鏡』(第十「老のなみ」)や藤原〔滋野井〕実冬(一二四四-一三〇四)の『北山准后九十賀記』などに詳しく書きとどめられており、ほとんど余すところがない。
 弘安八年に九十歳を慶祝された貞子は、その後も健在であって、乾元元年まで生き続けたのであるから、彼女の享年はなんと百七歳であった。柳原家の藤原紀光(一七四七-一八〇〇)などもこれに触れて、

  按ずるに、本朝、大臣武内宿禰のほか、高位の人の百余歳は未だ嘗て有らず。希代の寿考なり。

と愕きを示している。
 享年が百七歳であったのであるから、貞子は後鳥羽天皇の建久七年(一一九六)に生れたわけである。つまり彼女は、鎌倉時代のほとんど全部を生き抜いた、世にも稀な貴女であった。
 建久七年といえば、壇ノ浦の合戦から十年ばかり後であって、幼い頃の貞子の周りには、壇ノ浦から生還した女性たちや、平家の縁故者、同情者がまだ群をなしていた。貞子の父は、四条家の権大納言・藤原隆衡(一一七二-一二五四)であった。この隆衡の母、つまり貞子の祖母は、太政大臣・平清盛の娘で、建礼門院のすぐ下の同母妹であった。祖母は、貞子がまだ四歳の時に歿したから、彼女の記憶には祖母の俤はほとんどあとをとどめていなかったであろうが、平家の強力な同情者、支持者として終始一貫した祖父の権大納言・隆房(一一四八-一二〇九)は、なお健在であった。
------

いったんここで切ります。
後深草院二条の母方の祖父、四条隆親(1203-79)は北山准后・貞子の7歳下の弟ですね。
北山准后九十賀は『とはずがたり』にも膨大な分量で描かれていて、『増鏡』の記述は『とはずがたり』からの「引用」です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「尊氏は、生真面目な弟とは違って適当な人間である」(by 亀田俊和氏)

2017-12-11 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月11日(月)12時02分11秒

>筆綾丸さん
ご指摘の箇所、私も面白いなと思いました。
『高師直 室町新秩序の創造者』の後、『南朝の真実 忠臣という幻想』(吉川弘文館、2014)と『征夷大将軍・護良親王』(戎光祥出版、2017)も読んでみましたが、各書の間に若干の記述の異同もありますね。
ま、それだけ微妙な問題を扱っているということだと思います。
『南朝の真実』では、南朝に和睦を申込んだ直義が南朝との間で非常に熱心に講和交渉に取り組み、その話し合いの内容が「吉野御事案」という記録に残っていて、「非常に高度で格調の高い議論で、古くから高く評価されている」(p109)と紹介された少し後で、

-------
正平の一統
 ともかく、直義は東国に逃れた。観応の擾乱の第二幕の始まりである。今度は尊氏が南朝と講和する番である。
 尊氏は、生真面目な弟とは違って適当な人間である。あるべき日本の国制はいかなる体制なのかとか、そういう面倒くさい上に合意の見込めない問題は最初から議論する気などなかった。すべてを元弘時代に戻しますと曖昧な表現で早急に講和を成功させて、直義討伐のために東国に出陣した。
-------

と書かれていますが(p114以下)、尊氏の本質をあっさりと捉えており、実に見事な表現ですね。
こういう表現は直義同様にひたすら生真面目なだけの佐藤進一氏には絶対にできなかったはずで、研究者の知性のタイプの違いにより、尊氏・直義間の関係の分析が各段に深まっていますね。
また、『征夷大将軍・護良親王』では、亀田氏は、

------
正中の変の真相
 後宇多の崩御からわずか三ヵ月後の元亨四年(一三二四)九月、後醍醐の一回目の討幕計画が発覚した。このとき、後醍醐は幕府の処分を何とか免れたが、廷臣日野資朝が佐渡島(新潟県佐渡市)に流罪となった。この年の一二月に「正中」と改元されたので、この政変は「正中の変」と呼ばれている。正中の変は歴史上著名な事件で、後醍醐が即位当初から討幕を志向していたとする説の有力な根拠とされてきた。
 しかし近年、正中の変は、実は後醍醐天皇の討幕運動ではなかったとする注目すべき見解が発表された。河内祥輔によれば、美濃国の土岐氏庶流が「謀反人」とされて京都で討たれ、黒幕の容疑が後醍醐にかけられたのは確かであるが、これは本当に冤罪で、そのため幕府も無実の後醍醐を処罰しなかったという。この事件はむしろ、持明院統や大覚寺統の邦良親王派が後醍醐を退位に追い込むために仕掛けた謀略であった可能性さえ存在するらしい。
 筆者も、河内説は大筋において妥当であると考える。後述するように、当初後醍醐は、西園寺氏を介して幕府との関係を強化することによって、皇位継承を確実にする戦略を採っていた形跡が存在する。正中の変は、幕府滅亡の原因を結果論的に遡及させた『太平記』による恣意的な解釈であり、これもまた、『太平記』史観の一つなのである。
------

と書かれており(p18以下)、ちょっとびっくりしました。
私も数年前に河内氏の『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館、2007)所収の「後醍醐天皇の討幕運動について」を読んで、けっこう良いのではないかと思ったのですが、失礼ながら河内氏がコンスタントに良い論文を書いている訳でもないので、これは乗ってはいけない泥舟なのかなという懸念がありました。
亀田氏が妥当とされるのであれば一安心ですが、もう一度じっくり考えてみたいと思います。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

高氏嫡流の名字 2017/12/10(日) 18:45:39
小太郎さん
『とはずがたり』は、なぜかくも後世の知的な男どもを惑わすのか、ほんとに不思議ですね。

亀田氏の『高師直』は、まだ途中ですが、以下の記述は面白いですね。むかし、この掲示板に多くの研究者が寄ってたかって蘊蓄を傾けていましたが、このことを問題にした人はいなかったですね。
-----------------
 高氏嫡流は、なぜ最後まで名字を持たなかったのであろうか。単純に考えれば、多くの場合武士の名字は地名であるので、高氏が土地との結びつきが希薄であったことを暗示している可能性はあると思う。
 すでに詳述したように、鎌倉時代の高氏は足利氏の執事を代々務めていた。基本的に都市鎌倉に住んで、主君足利氏のそばに常に仕えながら仕事をしていたのである。先祖代々の土地を一生懸命に守る一般的な武士とは、若干性質が異なっていたのではないだろうか。
 ここで想起されるのが、平頼綱である。平頼綱とは、北条得宗家の家人・被官集団である御内人のトップで、内管領という要職を務めた人物である。幕府内部で強大な権勢を誇り、一時は皇位継承に介入するほどだった。彼の介入によって皇統は大覚寺統と持明院統に分裂し、後の南北朝内乱の大きな伏線となった。
 足利氏の被官も、北条得宗家と同様に御内人と呼ばれていた。高氏が頼綱と同様御内人集団の長で、内管領に相当する執事を代々務めていたこともすでに述べたとおりである。得宗家において高氏とよく似た立場にあった平頼綱も、鎌倉後期の段階でも名字を名乗っていないのはまことに興味深い。もっとも、頼綱の子資宗は名字「飯沼」、従兄弟の家系はその所領伊豆国田方郡長崎郷にちなんで名字「長崎」を名乗るのであるが。
 管見の限りでこの問題に言及した研究は見あたらない。しかし高氏という武士の性格を考えるとき、少なくとも嫡流が名字を持たなかった事実はきわめてユニークであり、また重要であると考えるのである。(28頁~)
-----------------
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする