投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月11日(月)22時45分6秒
続きです。(p17以下)
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後に述べるように、隆房夫妻は、建礼門院を大原から四条家の菩提寺の善勝寺に引き取ってお世話していたし、また平知盛の未亡人の治部卿局を自邸─四条大宮第─に住まわせていた。貞子は、少女の時分から年に何回となく祖父や両親につれられて白河の善勝寺に参詣したに相違ない。そしていくたびかその寺で静かに余生を送っておられる建礼門院を拝し、昔語りを承ったことであろう。この悲劇の女主人公であった女院の印象と懐旧談の数々は、生涯彼女の脳裡に鮮やかに残っていたはずである。
治部卿局も、壇ノ浦で夫・知盛の壮烈な最後や安徳天皇の入水を傍近くで目撃したばかりでなく、建久七年には息子の知忠の首実験を強いられた悲劇の女性であった。同じ邸内に住んでいた治部卿局は、折にふれて平家の栄光と惨劇の次第を貞子に語り聞かせたに違いないのである。
小督局〔こごうのつぼね〕とのロマンスで有名な貞子の祖父の隆房は、高階泰経(一一三〇-一二〇一)と並んで後白河法皇の寵臣中の双璧であった。そうした背景もあって、隆房は、壇ノ浦の後においても公然と平家の支持者としての態度を表明して憚らなかった。父の隆衡は、平清盛の孫であったから、これまた平家に対して親近感を抱いていた。以上によってもその一端が窺える通り、貞子は平家の縁者、同情者、関係者に囲まれた環境で成人したのである。
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いったん切ります。
「四条家の菩提寺の善勝寺」は法勝寺に隣接していたそうで、いかにも院の近臣として富裕で鳴らした四条家らしい場所にあります。
「勝」は付きますが、善勝寺はいわゆる六勝寺ではありません。
しかし、善勝寺の創建は応徳四年(1087)で、承暦元年(1077)創建の法勝寺に遅れるだけであり、尊勝寺(1102)・最勝寺(1118)・円勝寺(1128)・成勝寺(1139)・延勝寺(1149)より早いんですね。
善勝寺から見れば、六勝寺に善勝寺が隣接していたのではなく、自分が法勝寺と仲良く寄り添っていたところに、「五勝寺」が後からずうずうしく割り込んできたことになります。
この点は以前調べていて、少し驚きました。
善勝寺から見た「五勝寺」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/23a0483cfc5c4eef3fac1df2fe95a936
さて、続きです。
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やがて貞子は、西園寺家の藤原実氏(一一九四-一二六九)の正妻となり、娘を二人ほど産んだ。西園寺家は、「承久の乱」後、著しく脚光を浴びて政界に雄飛し、実氏は太政大臣まで昇進したし、また娘の姞子(後の大宮院)は、後嵯峨天皇の中宮に建てられ、後深草・亀山両天皇を産んだ。さらにはもう一人の娘の公子(後の東二条院)は、後深草天皇の中宮となった。
これに加えて健康に恵まれていたため、貞子の福慶は、たぐい稀なものであった。しかしその間にも彼女は、残された平家の人びとのさまざまな運命に心を寄せ、八、九十年に亘って彼らの禍福、浮沈を見守り続けたのである。
実のところ、平清盛の曾孫に生まれ、きわめて平家的な環境の中で育ち、かつ鎌倉時代を生き抜いた藤原貞子ほど『平家後抄』の著者として好適な人物は、他に求め得ないであろう。しかし貞子は、父や弟の隆親とは違って文才に恵まれなかったらしく、親しく見聞した平家一門の人びとの動きについては、なにひとつ記録を遺さなかった。『とはずがたり』の作者・二条は、貞子の義理の孫、つまり養女の近子が産んだ娘であった。なぜ貞子は、この二条に口述・筆記をさせなかったのであろうか。
これは今さら悔んでも為〔せ〕ん方ないことである。しかしそれだけに北山の准后─従一位・藤原朝臣貞子─に代って壇ノ浦以後の平家の動静について綴ってみようという意欲も旺〔さか〕んに盛り上がるのである。
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「なぜ貞子は、この二条に口述・筆記をさせなかったのであろうか」には、ちょっとドキッとさせられますね。
ま、後深草院二条は母方より父方の村上源氏の出自、太政大臣久我通光の孫であることを重視しており、また正嘉二年(1258)生まれであって北山准后と62歳違いますから、特に平家への思い入れはなかったような感じもします。
続きです。(p17以下)
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後に述べるように、隆房夫妻は、建礼門院を大原から四条家の菩提寺の善勝寺に引き取ってお世話していたし、また平知盛の未亡人の治部卿局を自邸─四条大宮第─に住まわせていた。貞子は、少女の時分から年に何回となく祖父や両親につれられて白河の善勝寺に参詣したに相違ない。そしていくたびかその寺で静かに余生を送っておられる建礼門院を拝し、昔語りを承ったことであろう。この悲劇の女主人公であった女院の印象と懐旧談の数々は、生涯彼女の脳裡に鮮やかに残っていたはずである。
治部卿局も、壇ノ浦で夫・知盛の壮烈な最後や安徳天皇の入水を傍近くで目撃したばかりでなく、建久七年には息子の知忠の首実験を強いられた悲劇の女性であった。同じ邸内に住んでいた治部卿局は、折にふれて平家の栄光と惨劇の次第を貞子に語り聞かせたに違いないのである。
小督局〔こごうのつぼね〕とのロマンスで有名な貞子の祖父の隆房は、高階泰経(一一三〇-一二〇一)と並んで後白河法皇の寵臣中の双璧であった。そうした背景もあって、隆房は、壇ノ浦の後においても公然と平家の支持者としての態度を表明して憚らなかった。父の隆衡は、平清盛の孫であったから、これまた平家に対して親近感を抱いていた。以上によってもその一端が窺える通り、貞子は平家の縁者、同情者、関係者に囲まれた環境で成人したのである。
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いったん切ります。
「四条家の菩提寺の善勝寺」は法勝寺に隣接していたそうで、いかにも院の近臣として富裕で鳴らした四条家らしい場所にあります。
「勝」は付きますが、善勝寺はいわゆる六勝寺ではありません。
しかし、善勝寺の創建は応徳四年(1087)で、承暦元年(1077)創建の法勝寺に遅れるだけであり、尊勝寺(1102)・最勝寺(1118)・円勝寺(1128)・成勝寺(1139)・延勝寺(1149)より早いんですね。
善勝寺から見れば、六勝寺に善勝寺が隣接していたのではなく、自分が法勝寺と仲良く寄り添っていたところに、「五勝寺」が後からずうずうしく割り込んできたことになります。
この点は以前調べていて、少し驚きました。
善勝寺から見た「五勝寺」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/23a0483cfc5c4eef3fac1df2fe95a936
さて、続きです。
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やがて貞子は、西園寺家の藤原実氏(一一九四-一二六九)の正妻となり、娘を二人ほど産んだ。西園寺家は、「承久の乱」後、著しく脚光を浴びて政界に雄飛し、実氏は太政大臣まで昇進したし、また娘の姞子(後の大宮院)は、後嵯峨天皇の中宮に建てられ、後深草・亀山両天皇を産んだ。さらにはもう一人の娘の公子(後の東二条院)は、後深草天皇の中宮となった。
これに加えて健康に恵まれていたため、貞子の福慶は、たぐい稀なものであった。しかしその間にも彼女は、残された平家の人びとのさまざまな運命に心を寄せ、八、九十年に亘って彼らの禍福、浮沈を見守り続けたのである。
実のところ、平清盛の曾孫に生まれ、きわめて平家的な環境の中で育ち、かつ鎌倉時代を生き抜いた藤原貞子ほど『平家後抄』の著者として好適な人物は、他に求め得ないであろう。しかし貞子は、父や弟の隆親とは違って文才に恵まれなかったらしく、親しく見聞した平家一門の人びとの動きについては、なにひとつ記録を遺さなかった。『とはずがたり』の作者・二条は、貞子の義理の孫、つまり養女の近子が産んだ娘であった。なぜ貞子は、この二条に口述・筆記をさせなかったのであろうか。
これは今さら悔んでも為〔せ〕ん方ないことである。しかしそれだけに北山の准后─従一位・藤原朝臣貞子─に代って壇ノ浦以後の平家の動静について綴ってみようという意欲も旺〔さか〕んに盛り上がるのである。
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「なぜ貞子は、この二条に口述・筆記をさせなかったのであろうか」には、ちょっとドキッとさせられますね。
ま、後深草院二条は母方より父方の村上源氏の出自、太政大臣久我通光の孫であることを重視しており、また正嘉二年(1258)生まれであって北山准后と62歳違いますから、特に平家への思い入れはなかったような感じもします。