投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月29日(金)19時49分23秒
本文に入ります。
巻一は治承四年(1180)から建保六年(1218)までの出来事を記していて、後鳥羽院の出生から始まります。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p32以下)
-------
御門始まり給ひてより八十二代にあたりて、後鳥羽院と申すおはしましき。御いみなは尊成、これは高倉院第四の御子、御母七条院と申しき。修理大夫信隆のぬしのむすめなり。高倉院位の御時、后の宮の御方に、兵衛督の君とて仕うまつられしほどに、忍びて御覧じ放なたずやありけん、治承四年七月十五日に生まれさせ給ふ。
その年の春のころ、建礼門院、后の宮と聞えし御腹の第一の御子、三つになり給ふに位を譲りて、御門はおり給ひにしかば、平家の一族のみいよいよ時の花をかざしそへて、花やかなりし世なれば、掲焉にももてなされ給はず。またの年養和元年正月十四日、院さへ隠れさせ給ひしかば、いよいよ位などの御望みあるべくもおはしまさざりしを、かの新帝、平家の人々にひかされて、遙かなる西の海にさすらへ給ひにし後、後白河法皇、御孫の宮たち渡し聞えて見奉り給ふ時、三の宮を次第のままにと思されけるに、法皇をいといたう嫌ひ奉りて泣き給ひければ、「あな、むつかし」とて、率て放ち給ひて、「四の宮ここにいませ」との給ふに、やがて御膝の上に抱かれ奉りて、いとむつましげなる御気色なれば、「これこそ誠の孫におはしけれ。故院の児生ひにも、まみなど覚え給へり。いとらうたし」とて、寿永二年八月廿日、御年四にて位につかせ給ひけり。
内侍所・神璽・宝剣は、譲位の時、必ず渡る事なれど、先帝、筑紫に率ておはしにければ、こたみはじめて三つの神器なくて、珍しきためしに成ぬべし。後にぞ内侍所・しるしの御箱ばかり帰のぼりにけれど、宝剣は遂に、先帝の海に入り給ふ時、御身にそへて沈み給ひけるこそ、いと口惜しけれ。
-------
後鳥羽院(1180-1239)は高倉院の第四皇子で、平家が安徳天皇(1178-85)を連れて西海に逃れた後、寿永二年(1183)、後白河法皇(1127-92)の指名によって三種の神器のないまま四歳で践祚します。
「三の宮を次第のままにと思されけるに、法皇をいといたう嫌ひ奉りて泣き給ひければ」とありますが、ここで「三の宮」とされているのは実際には第二皇子の守貞親王(1179-1223、後高倉院)で、安徳天皇と同じく平家に伴なわれて都の外にいたので、この部分は文学的脚色ですね。
-------
かくてこの御門、元暦元年七月二十八日御即位、そのほどの事、常のままなるべし。平家の人々、いまだ筑紫にただよひて、先帝と聞ゆるも御兄なれば、かしこに伝へ聞く人々の心地、上下さこそはありけめと思ひやられて、いとかたじけなし。
【中略】
御門いとおよすけて賢くおはしませば、法皇もいみじううつくしと思さる。文治二年十二月一日、御書始せさせ給ふ。御年七つなり。同じ六年女御参り給ふ。月輪の関白殿の御むすめなり。立后ありき。後には宜秋門院と聞えし御事なり。この御腹に、春花門院と聞え給ひし姫君ばかりおはしましき。建久元年正月三日十一にて御元服し給ふ。
------
文治六年(1190)、月輪関白・九条兼実(1149-1207)の娘、任子(1173-1239、後の宜秋門院)が女御として入内し、ここで初めて摂関家関係者が登場します。
ただ、特別な説明はなく、事実を淡々と伝えているだけですね。
任子は男子を産むことができず、兼実の政敵である村上源氏・源通親に付け入る隙を与えてしまった経緯など興味深い政界事情はあるのですが、『増鏡』は沈黙しています。
九条兼実
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%85%BC%E5%AE%9F
本文に入ります。
巻一は治承四年(1180)から建保六年(1218)までの出来事を記していて、後鳥羽院の出生から始まります。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p32以下)
-------
御門始まり給ひてより八十二代にあたりて、後鳥羽院と申すおはしましき。御いみなは尊成、これは高倉院第四の御子、御母七条院と申しき。修理大夫信隆のぬしのむすめなり。高倉院位の御時、后の宮の御方に、兵衛督の君とて仕うまつられしほどに、忍びて御覧じ放なたずやありけん、治承四年七月十五日に生まれさせ給ふ。
その年の春のころ、建礼門院、后の宮と聞えし御腹の第一の御子、三つになり給ふに位を譲りて、御門はおり給ひにしかば、平家の一族のみいよいよ時の花をかざしそへて、花やかなりし世なれば、掲焉にももてなされ給はず。またの年養和元年正月十四日、院さへ隠れさせ給ひしかば、いよいよ位などの御望みあるべくもおはしまさざりしを、かの新帝、平家の人々にひかされて、遙かなる西の海にさすらへ給ひにし後、後白河法皇、御孫の宮たち渡し聞えて見奉り給ふ時、三の宮を次第のままにと思されけるに、法皇をいといたう嫌ひ奉りて泣き給ひければ、「あな、むつかし」とて、率て放ち給ひて、「四の宮ここにいませ」との給ふに、やがて御膝の上に抱かれ奉りて、いとむつましげなる御気色なれば、「これこそ誠の孫におはしけれ。故院の児生ひにも、まみなど覚え給へり。いとらうたし」とて、寿永二年八月廿日、御年四にて位につかせ給ひけり。
内侍所・神璽・宝剣は、譲位の時、必ず渡る事なれど、先帝、筑紫に率ておはしにければ、こたみはじめて三つの神器なくて、珍しきためしに成ぬべし。後にぞ内侍所・しるしの御箱ばかり帰のぼりにけれど、宝剣は遂に、先帝の海に入り給ふ時、御身にそへて沈み給ひけるこそ、いと口惜しけれ。
-------
後鳥羽院(1180-1239)は高倉院の第四皇子で、平家が安徳天皇(1178-85)を連れて西海に逃れた後、寿永二年(1183)、後白河法皇(1127-92)の指名によって三種の神器のないまま四歳で践祚します。
「三の宮を次第のままにと思されけるに、法皇をいといたう嫌ひ奉りて泣き給ひければ」とありますが、ここで「三の宮」とされているのは実際には第二皇子の守貞親王(1179-1223、後高倉院)で、安徳天皇と同じく平家に伴なわれて都の外にいたので、この部分は文学的脚色ですね。
-------
かくてこの御門、元暦元年七月二十八日御即位、そのほどの事、常のままなるべし。平家の人々、いまだ筑紫にただよひて、先帝と聞ゆるも御兄なれば、かしこに伝へ聞く人々の心地、上下さこそはありけめと思ひやられて、いとかたじけなし。
【中略】
御門いとおよすけて賢くおはしませば、法皇もいみじううつくしと思さる。文治二年十二月一日、御書始せさせ給ふ。御年七つなり。同じ六年女御参り給ふ。月輪の関白殿の御むすめなり。立后ありき。後には宜秋門院と聞えし御事なり。この御腹に、春花門院と聞え給ひし姫君ばかりおはしましき。建久元年正月三日十一にて御元服し給ふ。
------
文治六年(1190)、月輪関白・九条兼実(1149-1207)の娘、任子(1173-1239、後の宜秋門院)が女御として入内し、ここで初めて摂関家関係者が登場します。
ただ、特別な説明はなく、事実を淡々と伝えているだけですね。
任子は男子を産むことができず、兼実の政敵である村上源氏・源通親に付け入る隙を与えてしまった経緯など興味深い政界事情はあるのですが、『増鏡』は沈黙しています。
九条兼実
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%85%BC%E5%AE%9F