投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月28日(木)18時07分36秒
それでは早速始めます。
さて、冒頭の序文は前回投稿で示した二つの留意点とは関係ありませんが、やはり『増鏡』全体の構想に関わる重要部分ですので、全文を紹介しておきます。
引用は井上宗雄氏の『増鏡(上)全訳注』(講談社学術文庫、1979)から行います。(p19以下)
-------
二月の中の五日は、鶴の林に薪尽きにし日なれば、かの如来二伝の御かたみのむつましさに、嵯峨の清涼寺にまうでて、「常在霊鷲山」など、心のうちにとなへて拝み奉る。かたはらに、八十にもや余りぬらんと見ゆる尼ひとり、鳩の杖にかかりて参れり。とばかりありて、「たけく思ひ立ちつれど、いと腰いたくて堪へ難し。こよひはこの局にうちやすみなん。坊へ行きてみあかしの事などいへ」とて、具したる若き女房の、つきづきしき程なるをば返しぬめり。
「釈迦牟尼仏」とたびたび申して、夕日の花やかにさし入りたるをうち見やりて、「あはれにも山の端近くかたぶきぬめる日影かな。我身の上の心地こそすれ」とて寄りゐたる気色、何となくなまめかしく、心あらんかしと見ゆれば、近く寄りて、「いづくより詣で給へるぞ。ありつる人の帰り来ん程、御伽せんはいかが」などいへば、「このあたり近く侍れど、年のつもりにや、いと遙けき心地し侍る。あはれになん」といふ。「さてもいくつにか成り給ふらん」と問へば、「いさ、よくも我ながら思ひ給へわかれぬ程になん。百年にもこよなく余り侍りぬらん。来し方行先、ためしもありがたかりし世のさわぎにも、この御寺ばかりつつがなくおはします。猶やんごとなき如来の御光なりかし」などいふも、古代にみやびかなり。
-------
『大鏡』以下の鏡物の伝統を踏まえて最初に語り手と聞き手が登場します。
ある年の二月十五日、八十歳を超えていそうな年齢の老尼が嵯峨の清凉寺に「鳩の杖」にすがって参詣に来たとの設定です。
聞き手については特段の説明はなく、男のような感じがしますが、男女の別も明示はされていません。
-------
年の程など聞くも、めづらしき心地して、かかる人こそ昔物語もすなれ、と思ひ出でられて、まめやかに語らひつつ、「昔の事の聞かまほしきままに、年のつもりたらん人もがな、と思ひ給ふるに、嬉しきわざかな。少しのたまはせよ。おのづから古き歌など書き置きたる物の片はし見るだに、その世にあへる心地すかし」といへば、すげみたる口うちほほゑみて、
「いかでか聞えん。若かりし世に見聞き侍りし事は、ここらの年ごろに、むば玉の夢ばかりだになくおぼほれて、何のわきまへか侍らん」とはいひながら、けしうはあらず、あへなんと思へるけしきなれば、いよいよいひはやして、「かの雲林院の菩提講に参りあへりし翁の詞をこそ、仮名の日本紀にはすめれ。またかの世継が孫とかいひし、つくも髪の物語も、人のもてあつかひぐさになれるは、御有様のやうなる人にこそありけめ。猶のたまへ」などすかせば、さは心得べかめれど、いよいよ口すげみがちにて、
「そのかみは人の齢も高く、機も強かりければ、それにしたがひて魂も明らかにてや、しか聞えつくしけん。あさましき身は、いたづらなる年のみつもれるばかりにて、昨日今日といふばかりの事だに、目も耳もおぼろになりにて侍れば、ましていとあやしきひがごとどもにこそは侍らめ。そもさやうに御覧じ集めけるふるごとどもはいかにぞ」といふ。
-------
聞き手が昔の話をして下さいと頼むと、老尼は歯が抜けてすぼまった口で微笑して、昔のことは忘れてしまったと断るのですが、しかし、「けしうはあらず、あへなんと思へるけしきなれば」(まんざらでもなく、まあよかろうと思っている様子なので)、聞き手が「かの雲林院の菩提講に参りあへりし翁の詞」、即ち『大鏡』や、「かの世継が孫とかいひし、つくも髪の物語」、即ち『今鏡』がもてはやされているのはきっとあなたのような方が語ったからでしょう、などとおだてると、老尼はいよいよ口をすぼめて、私は耄碌しているので昔の人のようにしっかりした話はできなく、間違いも多いでしょうと言いつつ、逆に聞き手に、あなたはどんな本を読んだのですかと反問します。
--------
「ただおろおろ見及びしものどもは水鏡といふにや。神武天皇の御代より、いとあららかにしるせり。その次には大鏡、文徳のいにしへより、後一条の御門まで侍りしにや。また世継とか四十帖の草子にて、延喜より堀川の先帝まで少し細やかなる。またなにがしの大臣の書き給へると聞き侍りし今鏡に、後一条より高倉院までありしなめり。まことや、いや世継は、隆信朝臣の、後鳥羽院の御位の程までをしるしたるぞ見え侍りし。その後の事なん、おぼつかなくなりにける。覚え給ふらん所々までものたまへ。こよひは誰も御伽せん。かかる人に会ひ奉れるも、しかるべき御契りあらんものぞ」など語らへば、
「そのかみの事はいみじうたどたどしけれど、まことに事の続きを聞えざらんもおぼつかなかるべければ、たえだえに少しなん。僻事ぞ多からんかし。そはさし直し給へ。いとかたはらいたきわざにも侍るべきかな。かの古ごとどもには、なぞらへ給ふまじううなん」とて、
おろかなる心や見えん増鏡古き姿にたちは及ばで
と、わななかし出でたるもにくからず、いと古代なり。「さらば、いまのたまはん事をもまた書きしるして、かの昔の面影にひとしからんとこそはおぼすめれ」といらへて、
今もまた昔をかけば増鏡ふりぬる代々の跡にかさねん
--------
聞き手が『水鏡』、『大鏡』、『世継』(『栄花物語』)、『今鏡』や藤原隆信の『いや世継』(現存せず)を読んだと答えると、老尼は、自分の話には間違いも多いと思うのでそれは直して下さい、きっとお聞き苦しいでしょう、古い書物とは比較されますな、などと謙虚なフリをしつつ、歌を一首詠みます。
井上訳を借用すると、
『大鏡』以下の古い物語にはとても及ばず、むなしく一つの鏡物を加えてしまうでしょう。しかも真澄の鏡に物が映るように私の愚かな心が見えてしまって。
ということで、これに対し、聞き手は、
今もまた昔のことを書き記しますと、真澄の鏡に物が映るように、過去の代々のことがはっきり映るでしょうから、これを『増鏡』と名づけて代々の歴史物語のあとに重ねましょう。
と返します。
「序」はこれで終わりです。
それでは早速始めます。
さて、冒頭の序文は前回投稿で示した二つの留意点とは関係ありませんが、やはり『増鏡』全体の構想に関わる重要部分ですので、全文を紹介しておきます。
引用は井上宗雄氏の『増鏡(上)全訳注』(講談社学術文庫、1979)から行います。(p19以下)
-------
二月の中の五日は、鶴の林に薪尽きにし日なれば、かの如来二伝の御かたみのむつましさに、嵯峨の清涼寺にまうでて、「常在霊鷲山」など、心のうちにとなへて拝み奉る。かたはらに、八十にもや余りぬらんと見ゆる尼ひとり、鳩の杖にかかりて参れり。とばかりありて、「たけく思ひ立ちつれど、いと腰いたくて堪へ難し。こよひはこの局にうちやすみなん。坊へ行きてみあかしの事などいへ」とて、具したる若き女房の、つきづきしき程なるをば返しぬめり。
「釈迦牟尼仏」とたびたび申して、夕日の花やかにさし入りたるをうち見やりて、「あはれにも山の端近くかたぶきぬめる日影かな。我身の上の心地こそすれ」とて寄りゐたる気色、何となくなまめかしく、心あらんかしと見ゆれば、近く寄りて、「いづくより詣で給へるぞ。ありつる人の帰り来ん程、御伽せんはいかが」などいへば、「このあたり近く侍れど、年のつもりにや、いと遙けき心地し侍る。あはれになん」といふ。「さてもいくつにか成り給ふらん」と問へば、「いさ、よくも我ながら思ひ給へわかれぬ程になん。百年にもこよなく余り侍りぬらん。来し方行先、ためしもありがたかりし世のさわぎにも、この御寺ばかりつつがなくおはします。猶やんごとなき如来の御光なりかし」などいふも、古代にみやびかなり。
-------
『大鏡』以下の鏡物の伝統を踏まえて最初に語り手と聞き手が登場します。
ある年の二月十五日、八十歳を超えていそうな年齢の老尼が嵯峨の清凉寺に「鳩の杖」にすがって参詣に来たとの設定です。
聞き手については特段の説明はなく、男のような感じがしますが、男女の別も明示はされていません。
-------
年の程など聞くも、めづらしき心地して、かかる人こそ昔物語もすなれ、と思ひ出でられて、まめやかに語らひつつ、「昔の事の聞かまほしきままに、年のつもりたらん人もがな、と思ひ給ふるに、嬉しきわざかな。少しのたまはせよ。おのづから古き歌など書き置きたる物の片はし見るだに、その世にあへる心地すかし」といへば、すげみたる口うちほほゑみて、
「いかでか聞えん。若かりし世に見聞き侍りし事は、ここらの年ごろに、むば玉の夢ばかりだになくおぼほれて、何のわきまへか侍らん」とはいひながら、けしうはあらず、あへなんと思へるけしきなれば、いよいよいひはやして、「かの雲林院の菩提講に参りあへりし翁の詞をこそ、仮名の日本紀にはすめれ。またかの世継が孫とかいひし、つくも髪の物語も、人のもてあつかひぐさになれるは、御有様のやうなる人にこそありけめ。猶のたまへ」などすかせば、さは心得べかめれど、いよいよ口すげみがちにて、
「そのかみは人の齢も高く、機も強かりければ、それにしたがひて魂も明らかにてや、しか聞えつくしけん。あさましき身は、いたづらなる年のみつもれるばかりにて、昨日今日といふばかりの事だに、目も耳もおぼろになりにて侍れば、ましていとあやしきひがごとどもにこそは侍らめ。そもさやうに御覧じ集めけるふるごとどもはいかにぞ」といふ。
-------
聞き手が昔の話をして下さいと頼むと、老尼は歯が抜けてすぼまった口で微笑して、昔のことは忘れてしまったと断るのですが、しかし、「けしうはあらず、あへなんと思へるけしきなれば」(まんざらでもなく、まあよかろうと思っている様子なので)、聞き手が「かの雲林院の菩提講に参りあへりし翁の詞」、即ち『大鏡』や、「かの世継が孫とかいひし、つくも髪の物語」、即ち『今鏡』がもてはやされているのはきっとあなたのような方が語ったからでしょう、などとおだてると、老尼はいよいよ口をすぼめて、私は耄碌しているので昔の人のようにしっかりした話はできなく、間違いも多いでしょうと言いつつ、逆に聞き手に、あなたはどんな本を読んだのですかと反問します。
--------
「ただおろおろ見及びしものどもは水鏡といふにや。神武天皇の御代より、いとあららかにしるせり。その次には大鏡、文徳のいにしへより、後一条の御門まで侍りしにや。また世継とか四十帖の草子にて、延喜より堀川の先帝まで少し細やかなる。またなにがしの大臣の書き給へると聞き侍りし今鏡に、後一条より高倉院までありしなめり。まことや、いや世継は、隆信朝臣の、後鳥羽院の御位の程までをしるしたるぞ見え侍りし。その後の事なん、おぼつかなくなりにける。覚え給ふらん所々までものたまへ。こよひは誰も御伽せん。かかる人に会ひ奉れるも、しかるべき御契りあらんものぞ」など語らへば、
「そのかみの事はいみじうたどたどしけれど、まことに事の続きを聞えざらんもおぼつかなかるべければ、たえだえに少しなん。僻事ぞ多からんかし。そはさし直し給へ。いとかたはらいたきわざにも侍るべきかな。かの古ごとどもには、なぞらへ給ふまじううなん」とて、
おろかなる心や見えん増鏡古き姿にたちは及ばで
と、わななかし出でたるもにくからず、いと古代なり。「さらば、いまのたまはん事をもまた書きしるして、かの昔の面影にひとしからんとこそはおぼすめれ」といらへて、
今もまた昔をかけば増鏡ふりぬる代々の跡にかさねん
--------
聞き手が『水鏡』、『大鏡』、『世継』(『栄花物語』)、『今鏡』や藤原隆信の『いや世継』(現存せず)を読んだと答えると、老尼は、自分の話には間違いも多いと思うのでそれは直して下さい、きっとお聞き苦しいでしょう、古い書物とは比較されますな、などと謙虚なフリをしつつ、歌を一首詠みます。
井上訳を借用すると、
『大鏡』以下の古い物語にはとても及ばず、むなしく一つの鏡物を加えてしまうでしょう。しかも真澄の鏡に物が映るように私の愚かな心が見えてしまって。
ということで、これに対し、聞き手は、
今もまた昔のことを書き記しますと、真澄の鏡に物が映るように、過去の代々のことがはっきり映るでしょうから、これを『増鏡』と名づけて代々の歴史物語のあとに重ねましょう。
と返します。
「序」はこれで終わりです。