投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月23日(土)13時23分11秒
続きです。
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大納言はこの宮をさしてかく参り給ひけるに、例ならず男の車よりおるるけしき見えければ、あるやうあらんと思して、「御随身一人そのわたりにさりげなくてをあれ」とて留めて帰り給ひにけり。男君はいと思ひの外に心おこらぬ御旅寝なれど、人の御気色を見給ふも、ありつる大将の車など思しあはせて、「いかにもこの宮にやうあるなめり」と心え給ふに、「いと好き好きしきわざなり。よしなし」と思せば、更かさで出で給ひにけり。
残し置き給へりし随身、このやうよく見てければ、しかじかと聞えけるに、いと心憂しと思して、「日頃もかかるにこそはありけめ。いとをこがましう、かの大臣の心の中もいかにぞや」とかずかず思し乱れて、かき絶え久しくおとづれ給はぬをも、この宮には、かう残りなく見あらはされけんともしろしめさねば、あやしながら過ぎもて行く程に、ただならぬ御気色にさへ悩み給ふをも、大納言殿は一筋にしも思されねば、いと心やましう思ひ聞え給ひけるぞわりなき。
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井上訳は、
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実兼大納言はこの女宮の所をこころざして、このように参られたのだが、いつもとは違って男が車からおりる様子が見えたので、なにかわけがあるのだろうと思われて、「御随人一人、その辺でなにげないふうをして様子を見ていよ」といって、御随人をとどめて帰られた。師忠公はまことに意外で、気の進まぬ御旅寝ではあるが、女宮の御様子を御覧になっても、また先程の実兼大将の車のことなどを思い合わせられて、「どうも(実兼は)この宮とわけがあるようだ」と合点されると、「(それと知ってこういうことをするのは)ほんとうに好色なしわざだ。つまらないことだ」と思われたので、夜更けにならぬうちにそこをお出になった。
(実兼が)残して置かれた随人はこの様子をよく見たので、「かくかくしかじかでございます」と実兼に言上したので、実兼はたいへん情けなく思われて、「つね日ごろもこうであったのだろう。たいそうばかな目にあったものだし、またあの大臣の(私に対する)思わくもどうであろう」と、いろいろ思い乱れられて、その後は長い間まったく訪れがないのをも、この宮のほうでは、あんなにまですっかり(実兼に)見あらわせれてしまったともご存じないので、不思議に思いながら過ぎて行くうちに、宮が懐妊の御様子で悩んでおられるのをも、実兼大納言は、宮の相手が自分一人とも思われないので、このことをたいへん不愉快に思い申したのも、どうにもしかたがないことであった。
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ということで、何と感想を言っていいのか分からないシュールな展開です。
二条師忠の役割はこれでお終いで、この後に西園寺実兼のみが登場する若干の後日談があります。
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さすれどもさすが思しわく事やありけむ、その御程のことども、いとねんごろにとぶらひ聞えさせ給ひけり。こと御腹の姫宮をさへ御子になどし給ふ。御処分もありけるとぞ。幾程無くて弘安七年二月十五日宮かくれさせ給ひにしをも、大納言殿いみじう歎き給ふめるとかや。
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井上訳は、
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しかしやはり(自分の子と)思い当たられることがあったのだろうか、お産のときのことなどもたいそう懇切にお世話申しあげたのであった。別の御腹に出来た姫君をまでもこの宮の御子になどなされた。財産の御分配もあったということだ。いくらもたたぬうちに、弘安七年(一二八四)二月十五日に宮が亡くなられたのを、実兼大納言はたいそう嘆かれたということである。
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ということで、これで前斎宮をめぐる長いエピソードは終わりです。
西園寺実兼は不誠実な愛人にも最後まで尽くし、生まれた子供に財産分与までしてあげた立派な人物として描かれているので、まあ良いとしても、二条師忠はいったい何だったのか。
『増鏡』の作者を丹波忠守、監修者を二条良基とする小川剛生氏に対しては、丹波忠守は何故にこのような話を書いて二条良基に提出したのか、そして何故、二条良基は曾祖父に関するこのような話の削除を命ぜず、そのまま残しておいたのかを是非ともお聞きしたいところです。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月23日(土)12時43分56秒
この前斎宮のエピソードは、『とはずがたり』の年表を作っている国文学者によれば文永十一年(1274)の出来事とされています。
そして『とはずがたり』でも『増鏡』でも西園寺実兼は「西園寺大納言」として出てきますが、細かいことを言うと、この当時の実兼は正確には「権大納言」ですね。
実兼は文永八年(1271年)に権大納言になった後、昇進がストップしてしまって、大納言になれたのは実に17年後、正応元年(1288年)になってからです。
一昔前の歴史学界では、東大史料編纂所の所長を長く務めた龍粛氏(1890-1964)などの研究の影響で、鎌倉時代の公家社会では西園寺家の勢威が大変なものだった、みたいに思われていたのですが、こうした「西園寺家中心史観」が歴史学界で疑問視されるようになった後でも国文学界ではけっこう長く影響力を保ち続け、西園寺実兼に関する国文学者の解説には妙なものが多いですね。
ま、それはともかくとして、『増鏡』に西園寺実兼とセットで登場する二条師忠の地位はどうかというと、文永六年(1269)に僅か十六歳で内大臣、文永八年(1271)右大臣、建治元年(1275)左大臣ですから、さすがに摂関家ならではの凄まじい昇進スピードです。
しかし、このように宮廷社会での公的な序列では五歳下の二条師忠の方が圧倒的に上であるのに、『増鏡』に描かれた二人の関係は些か妙なものです。
さて、続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p227以下)
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内には大納言の参り給へると思して、例は忍びたる事なれば、門の内へ車を引き入れて、対のつまよりおりて参り給ふに、門よりおり給ふに、あやしうとは思ひながら、たそがれ時のたどたどしき程、なにのあやめも見えわかで、妻戸はづして人のけしき見ゆれば、なにとなくいぶかしき心地し給ひて、中門の廊にのぼり給へれば、例なれたる事にて、をかしき程の童・女房みいでて、けしきばかりを聞こゆるを、大臣覚えなき物から、をかしと思して、尻につきて入り給ふ程に、宮もなに心なくうち向ひ聞こえ給へるに、大臣もこはいかにとは思せどなにくれとつきづきしう、日頃の心ざしありつるよし聞えなし給ひて、いとあさましう、一方ならぬ御思ひ加はり給ひにけり。
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井上訳は、
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女宮のほうでは大納言が参られたのだと思われて、いつもは忍んで来られることとて、門のうちへ車を引き入れて対の屋の端のほうからいらっしゃるのに、(今夕は)門の所からお降りになるのを変だとは思いながら、夕暮時のはっきりしないころで、何の見わけもつかず、(師忠公のほうは)妻戸のかけがねを外して自分の訪れを待つ人の気配がみえるので、なんとなく不思議な気持がされて、中門の廊へ上られると、宮のほうではいつも慣れたことなので、かわいらしい童や女房が現われ出て、形ばかりお迎えの口上を申すのを、大臣は思いがけないことだが興あることに思われて、そのあとについて奥にお入りになると、女宮も何心なく対座申されたので、大臣はこれはいったいどうしたことかとは思われたが、なにかとこの場にふさわしいように、日ごろからお慕い申す気持があったことなどうまく申しあげなさって、(そこで女宮のほうは間違いに気づき)ほんとうに驚いて、ひととおりでないお悩みが加わりなさったのであった。
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ということで、何とも間の抜けた展開となります。