学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「巻一 おどろのした」(その4)─順徳天皇

2017-12-30 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月30日(土)21時39分23秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p62以下)

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 なにとなく明け暮れて、承元二年にもなりぬ。十二月廿五日、二宮御冠し給ふ。修明門院の御腹なり。この御子を院かぎりなく愛しきものに思ひ聞えさせ給へれば、二なくきよらを尽し、いつくしうもてかしづき奉り給ふことなのめならず。つひに同じ四年十一月に御位につけ奉り給ふ。
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承元二年(1208)、修明門院を母とする二宮(順徳天皇)が元服、同四年(1210)に土御門天皇に代って践祚となります。
修明門院は後鳥羽院の乳母の親族で、後鳥羽院は承明門院より修明門院の周辺への配慮を優先した訳ですね。

藤原重子(1182-1264、修明門院)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%87%8D%E5%AD%90
順徳天皇(1197-1242)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%86%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

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 もとの御門、ことしこそ十六にならせ給へば、いまだ遙かなるべき御さかりに、かかるを、いとあかずあはれに思されたり。永治のむかし、鳥羽法皇、崇徳院の御心もゆかぬにおろし聞えて、近衛すゑ奉り給ひし時は、御門いみじうしぶらせ給ひつつ、その夜になるまで、勅使をたびたび奉らせ給ひつつ、内侍所・剣璽などをも渡しかねさせ給へりしぞかし。さて、その御憤りの末にてこそ、保元の乱れもひき出で給へりしを、この御門は、いとあてにおほどかなる御本性にて、思しむすぼほれぬにはあらねども、気色にも漏らし給はず。世にもいとあへなき事に思ひ申しけり。承明門院などは、まいて胸痛く思されけり。その年の十二月に太上天皇の尊号あり。新院と聞ゆれば、父の御門をば本院と申す。なほ御政事は変らず。
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土御門院(1195-1231)は順徳天皇より二歳上で、承元四年(1210)にはまだ十六歳でしたから譲位を強いられて面白いはずはありませんが、崇徳院(1119-64)のような強い自己主張をする性格ではなく、内心の不平不満を表には出さなかったということですね。

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 いまの御門は十四になり給ふ。御いみな守成と聞えしにや。建暦二年十一月十三日、大嘗会なり。新院の御時も仕うまつられたりし資実の中納言に、この度も悠紀方の御屏風の歌めさる。長楽山、

  菅の根のながらの山の峰の松吹きくる風も万代の声

かやうの事は、皆人のしろしめしたらん。こと新しく聞えなすこそ、老のひがごとならめ。
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「悠紀方」は後鳥羽天皇即位の記事にも出てきたのですが、そのときは【中略】で済ませてしまいました。
「大嘗会では、前もって悠紀(ゆき)・主基(すき)二国を決めて新穀を作らせる。悠紀は近江か尾張、主基は丹波か備中で、その新穀を祀る悠紀殿・主基殿を造営し、屏風を立て、そこにそれぞれの国を題材とした絵と歌をかかせる」ものですね。(p40)

「巻一 おどろのした」(その1)─九条兼実
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25f4a89f6c5e5554fa9364d4c9012a47

「かやうの事は」以下の「このようなことはどなたも御存じでしょう。それを今さら珍しいことのように申し上げるのは、老人の愚痴というものでしょうね」(井上訳、p67)という文章は語り手の老尼の感想で、序文に登場した老尼はこんな風に時々出現して何か言います。
その大部分はここにある程度、あるいはもっと短い文章なのですが、既に紹介した巻十一「さしぐし」の新陽明門院(亀山院女御)の不行跡に関する場面では老尼はずいぶん饒舌で、ちょっと奇妙な印象を与えます。

『増鏡』序─補遺
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9323efa6ef04bb9fc49ec314813ddc23

ま、それはともかく、先に進みます。

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 この御代には、いと掲焉なること多く、所々の行幸しげく、好ましきさまなり。建保二年、春日社に行幸ありしこそ、ありがたきほどいどみつくし、おもしろうも侍りけれ。さてその又の年、御百首歌よませ給ひけるに、去年の事、思し出でて、内の御製、

  春日山こぞのやよひの花の香にそめし心は神ぞ知らん

 御心ばへ、新院よりも少しかどめいて、あざやかにぞおはしましける。御才も、やまともろこし兼ねて、いとやむごとなくものし給ふ。朝夕の御いとなみは、和歌の道にてぞ侍りける。末の世に八雲などいふものつくらせ給へるも、この御門の御事なり。
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順徳天皇は兄の新院(土御門院)よりも才気煥発で、和漢の教養に富み、和歌を好んで後に『八雲御抄』という歌学書を書いたりする人でした。

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摂政殿の姫君まいり給ひていと花やかにめでたし。この御腹に、建保六年十月十日一の御子生まれ給へり。いよいよものあひたる心地して、世の中ゆすりみちたり。十一月廿一日、やがて親王になし奉り給ひて、同じ廿六日坊に居給ふ。未だ御五十日だに聞こしめさぬに、いちはやき御もてなし、珍らかなり。心もとなく思されければなるべし。いまひとしほ世の中めでたく、定まりはてぬるさまなめり。新院はいでやと思さるらんかし。
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「摂政殿の姫君」は九条良経の娘、立子のことです。
良経は既に元久三年(1206)に亡くなっていますが、九条家は良経男の道家(1193-1252)が継いでいて、立子は承元四年(1210年)、弟の道家の世話で入内した訳ですね。
皇子の誕生はかなり遅れて建保二年(1218)でしたが、このとき生まれて直ちに皇太子となったのが懐成親王、後の九条廃帝(仲恭天皇)です。
ただし、仲恭天皇の名前が付いたのは実に明治三年(1870)ですね。

九条立子(112-1248、東一条院)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E7%AB%8B%E5%AD%90
仲恭天皇(1218-34)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B2%E6%81%AD%E5%A4%A9%E7%9A%87
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「巻一 おどろのした」(その3)─宮内卿

2017-12-30 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月30日(土)13時39分10秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p56以下)
『新古今集』の撰集以前、建仁元年(1201)に「千五百番の歌合」という行事が行われたのですが、これは後鳥羽院が「三十人の歌人に各百首の歌を詠進させ(計三千首)、それを左右に分け、番えて千五百番とした歌合。現存最大規模の歌合」(p60)です。

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 この撰集よりさきに、千五百番の歌合せさせ給ひしにも、すぐれたる限りをえらばせ給ひて、その道の聖たち判じけるに、院も加はらせ給ひながら、「猶このなみにはたち及びがたし」と卑下せさせ給ひて、判の詞をばしるされず、御歌にて優り劣れる心ざしばかりをあらはし給へる、なかなかいと艶に侍りけり。
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「判の詞をばしるされず、御歌にて優り劣れる心ざしばかりをあらはし給へる」というのは具体例を見ないと分かりにくいのですが、井上氏によれば、

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『千五百番歌合』は和歌史上最大規模の歌合で、現代に至るまでこれを越えるものは存在しない。後鳥羽院の判歌の例を一つ掲げておこう。
   六百八十二番
     左                      宮内卿
  雲かかる生駒が岳に月落ちて三輪の檜原にましら鳴くなり
     右<勝>                      俊成卿女
  さらでまた慰むものか長き夜に月よりほかのひとり寝覚は
   寝もやらずさぞなみ山に目覚めつつ夜渡る月をしのぶ秋風
 この「寝もやらず」が院の判歌で、五七五七七の各句の頭字を拾うと「ねさめよし」となり、右の「……ひとり寝覚は」の俊成卿女の歌が良しということになる。折句の判歌で、百五十首すべてがこの形という、こったものである。
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とのことで(p62)、何とも優雅で巧妙な判定の仕方であり、後鳥羽院の才能は凄いですね。
建仁元年(1201)というと、後鳥羽院はまだ数えで二十二歳です。

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 上のその道を得給へれば、下もおのづから時を知る習にや、男も女も、この御代にあたりて、よき歌よみ多く聞え侍りし中に、宮内卿の君といひしは、村上の帝の御後に、俊房の左の大臣と聞えし人の御末なれば、はやうはあて人なれど、官浅さくて、うち続き四位ばかりにて失せにし人の子なり。まだいと若き齢にて、そこひもなく深き心ばへをのみ詠みしこそ、いとありがたく侍りけれ。
 この千五百番の歌合の時、院の上のたまふやう、「こたみは、みな世に許りたる古き道の者どもなり。宮内卿はまだしかるべけれども、けしうはあらずと見ゆめればなん。かまへてまろが面起すばかり、よき歌つかうまつれ」と仰せらるるに、面うち赤めて、涙ぐみてさぶらひけるけしき、限りなき好きのほど、あはれにぞ見えける。さてその御百首の歌、いづれもとりどりなる中に、

  薄く濃き野辺のみどりの若草に跡まで見ゆる雪のむら消え

草の緑の濃き薄き色にて、去年の古雪遅く疾く消ける程を、推し量りたる心ばへなど、まだしからん人は、いと思ひ寄り難くや。この人、年つもるまであらましかば、げにいかばかり目に見えぬ鬼神をも動かしなましに、若くて失せにし、いといとほしくあたらしくなん。
 かくて、この度撰ばれたるをば、新古今といふなり。元久二年三月廿六日、竟宴といふ事を、春日殿にて行はせ給ふ。いみじき世のひびきなり。かの延喜の昔思しよそへられて、院の御製、

  いそのかみ古きを今にならべこし昔の跡をまたたづねつつ

摂政殿<良経の大臣>、

  敷島や大和ことの葉の海にして拾ひし玉はみがかれにけり

つぎつぎ順流るめりしかど、さのみはうるさくてなん。
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「宮内卿の君」は「村上の帝の御後に、俊房の左の大臣と聞えし人の御末なれば、はやうはあて人なれど、官浅さくて、うち続き四位ばかりにて失せにし人の子なり」ということで、村上天皇の子孫である村上源氏とはいえ、源俊房(1035-1121)の末流です。
村上源氏は俊房の弟・顕房(1037-1094)の子孫の方が栄えて、顕房─雅実─顕通の後、通親が出て、鎌倉時代には通親の子孫である久我・中院・土御門・三条坊門等の諸家が高い家格を誇ります。
従って、『増鏡』で当時の数多くの歌人の中から宮内卿だけに相当の分量の記述が費やされ、かつ非常に好意的に描かれているとしても、それは直接的には私が検討しようとしている『増鏡』における摂関家・西園寺家・村上源氏諸家の記述のバランスの問題とは関係ないのですが、わざわざ村上源氏の出自に言及している点は留意すべきではないかと思っています。
なお、宮内卿の父である源師光は実際には五位に止まっており、「四位ばかりにて失せにし」は若干盛っていますね。
それにしても、『千五百番歌合』『新古今集』に関連して、同時代の綺羅星の如き歌の名手の群れの中から後鳥羽院・九条良経・宮内卿の三人だけを取り上げているのは、なかなか興味深い選択です。

千五百番歌合
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E4%BA%94%E7%99%BE%E7%95%AA%E6%AD%8C%E5%90%88
後鳥羽院宮内卿
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E9%99%A2%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%8D%BF
宮内卿(水垣久氏『やまとうた』、「千人万首」より)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kunaikyo.html
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「巻一 おどろのした」(その2)─源通親

2017-12-30 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月30日(土)10時41分59秒

続きです。
「奥山のおどろの下も踏み分けて道ある世ぞと人に知らせん」の歌の説明や水無瀬殿造営は省略して、土御門天皇即位の場面に移ります。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p47以下)

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 今の御門の御いみ名は為仁と申しき。御母は能円法印といふ人のむすめ、宰相の君とて仕うまつられける程に、この御門生まれさせ給ひて後、内大臣通親の御子になり給ひて、末には承明門院と聞えき。かの大臣の北の方の腹にておはしければ、もとより後の親なるに、御幸さへひき出で給ひしかば、まことの御女にかはらず。この御門もやがてかの殿にぞ養ひ奉らせ給ひける。かくて、建久九年三月三日御即位、十月廿七日に御禊、十一月は例の大嘗会、元久二年正月三日御冠し給ふ。いとなまめかしくうつくしげにぞおはします。御本性も、父御門よりは、少しぬるくおはしましけれど、情け深う、物のあはれなど聞こし召しすぐさずぞありける。
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月輪関白・九条兼実の娘・任子には昇子内親王(1195-1211、春華門院)しか生まれず、他方、兼実の政敵・源通親の養女・在子は為仁親王(1195-1231、土御門天皇)を生んで、建久九年(1198)に為仁親王が即位します。
この間、「建久七年の政変」があって九条兼実は失脚するのですが、『増鏡』は沈黙しています。
「もとより後の親なるに、御幸さへひき出で給ひしかば、まことの御女にかはらず。この御門もやがてかの殿にぞ養ひ奉らせ給ひける」あたりは源通親に好意的な記述のようにも感じられますが、源通親の政治的才能を称賛する訳でも、逆に悪辣な佞臣として非難する訳でもなく、単に幸運な女性を養女にしてよかったね、と言っているだけですね。

源通親(1149-1202)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%80%9A%E8%A6%AA
源在子(1171-1257、承明門院)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%9C%A8%E5%AD%90
建久七年の政変
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E4%B9%85%E4%B8%83%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89

この後、勅撰和歌集編纂の話になります。(p49以下)

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 今の摂政は、院の御時の関白<基通>の大臣。その後は後京極殿<良経>と聞え給ひし、いと久しくおはしき。この大臣はいみじき歌の聖にて、院の上同じ御心に、和歌の道をぞ申し行はせ給ひける。文治のころ千載集ありしかど、院いまだきびはにおはしまししかばにや、御製も見えざめるを、当代位の御ほどに、また集めさせ給ふ。土御門の内の大臣の二郎君、右衛門督通具といふ人をはじめて、有家の三位、定家の中将、家隆、雅経などにのたまはせて、昔より今までの歌を広く集めらる。おのおの奉れる歌を、院の御前にてみづからみがき整へさせ給ふさま、いとめづらしくおもしろし。この時も、さきに聞えつる摂政殿、とりもちて行なはせ給ふ。【後略】
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土御門天皇の摂政は当初は後鳥羽院在位時の関白・近衛基通ですね。
法性寺関白・藤原忠通(1097-1164)に基実・基房・兼実、そして慈円らの子息がいて、近衛基通は近衛家の祖・基実の子であり、九条家の祖・兼実にとっては甥です。
摂関家は基実・兼実の世代で近衛流と九条流に大きく分かれます。
近衛基通は兼実とは異なり源通親と対立することもなく、土御門天皇の即位とともに摂政になった訳ですが、源通親が建仁二年(1202)に死去すると、九条良経(兼実男)に変わります。
「いと久しくおはしき」とありますが、良経は元久三年(1206)に三十八歳の若さで急死してしまい、摂政在任期間もそれほど長くはないですね。

近衛基通(1160-1233)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E9%80%9A
九条良経(1169-1206)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E8%89%AF%E7%B5%8C

【後略】とした部分には勅撰集編纂の歴史が縷々述べられています。
『新古今集』の編者のうち、「土御門の内の大臣の二郎君、右衛門督通具」は源通親の次男、堀川家の祖となる堀川通具で、母は平教盛の娘、妻は藤原俊成の孫で養女となった「俊成卿女」(1171-?)ですね。

堀川通具(1171-1227)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%B7%9D%E9%80%9A%E5%85%B7

この部分、井上宗雄氏は、

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 『新古今集』選定における後鳥羽院の果した役割について、簡潔的確に述べている。『新古今集』は五人の撰者(初めはもう一人寂蓮が撰者を命ぜらたが撰中没)がいたというが、実際は治天の君、後鳥羽の親撰に近く、撰者よりも良経の方が相談相手として大きな力を持っていたことが記されており、史実的にもそうであったと思われる。
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と評されています。(p55)
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