学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「後醍醐という天子の暗黒面も知り尽くしてきた重臣たち」(by 小川剛生氏)

2017-12-16 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月16日(土)18時53分28秒

『二条良基研究』の「終章」の続きです。(p587以下)

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 増鏡の作者を忠守とする説は既にある。当代の源氏学者、かつ二条派歌人であることを主たる理由とするものである。当時の源氏読みは忠守一人に限らずとして斥けられ、現在では顧みられない。史料の不足に阻まれて結局は決め手に欠くとはいえ、この説も改めて検討する価値はありそうである。
 ここで述べるべきは、忠守のような、後醍醐とダイレクトに結びつき、それ以外にはさしたるよりどころを持たない人間こそ、宮廷のあるじとしての後醍醐の最も醇乎たる姿を求め、これをよく語り得たであろう、ということである。他にも洞院公賢や吉田定房ら、後醍醐に近く仕え、その治世をよく知る公家は多かった。しかし鎌倉後期から長く続いた、公家社会の混乱と矛盾を身をもって経験し、後醍醐という天子の暗黒面も知り尽くしてきた重臣たちには、増鏡のような後醍醐の像はとても描けなかった筈である。
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「増鏡の作者を忠守とする説」は神戸大学名誉教授・荒木良雄氏の『中世文学の形成と発展』(ミネルヴァ書房、昭32)所収「増鏡の作者とその歴史文学的形成」(初出昭10・2)ですね。

荒木良雄(1890-1969)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E8%89%AF%E9%9B%84

「後醍醐という天子の暗黒面」云々を見て、私はついつい『スター・ウォーズ』の「シスの暗黒卿」(Dark Lord of the Sith)を思い浮かべてしまったのですが、別に皮肉でも何でもなく、私にはこの表現の意味が分かりません。
幕府打倒という目的達成のための不屈の精神力や、北朝側に偽の三種の神器を渡したといった多少の権謀術策だけでは「暗黒面」とも言いにくいでしょうから、網野善彦氏が『異形の王権』で描いた、真言密教に傾倒して自ら祈祷を行なったような側面のことでしょうか。
ま、それはともかく、続きです。

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 忠守は二条摂関家にも出入りしており、若き日の良基も最晩年の謦咳に接したであろう。そのような二人にとって、暦応二年八月十六日に、その後醍醐が南山で崩御したことは、大きな衝撃であった筈である。後醍醐の遺産を最も正統的に継承したと主張していたのは、言うまでもなく南朝の人々である。しかし、後醍醐を慕う集団は京都に数多く存在していたのである。
 このような状況を受け、忠守のような後醍醐朝の遺臣の手によって、増鏡は生み出されていったと見られる。それに最も相応しい場所は二条摂関家である。良基の若年期は極めて断片的な証言しか得られないのであるが、良基が廷臣のうちの才器として注目され、期待を集めていたことも、ここで補強の材料としてよいであろう。
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私には『増鏡』が「生み出されていったと見られる」場所として、二条摂関家が「最も相応しい場所」とは思えません。
むしろ、二条摂関家くらい相応しくない場所は存在しないのではないか、と思っています。
それは『増鏡』では摂関家の影が極めて薄く、目立つのは何と言っても西園寺家の栄華であり、数多く登場する人物エピソードにも摂関家関係者が極めて少なく、更に数少ないその種のエピソードには摂関家にとって面白くないものがあるからです。
特に二条良基の祖父で、「即位灌頂」という重要な儀礼を実質的に創造した香園院関白・二条師忠(1254-1341)に関するエピソードは、その子孫にとって屈辱的な内容で、これひとつでも『増鏡』の創作に二条摂関家がかかわったはずがないと私は思っています。
二条家は五摂家のうち、家祖の二条良実(1216-71)が父・九条道家(1193-1252)から義絶されて相続から排除されたという特異性を持つ家で、当然ながら摂関家の威光を飾る先祖代々のレガリアも記録も全く承継できず、その摂関家としての正統性に重大な瑕疵があった家でした。
そして、「即位灌頂」という重要な儀礼に二条家のみが関与できる仕組みを考案し、九条道家の「遺産を最も正統的に継承したと主張」できない二条家の頽勢を挽回したのが二条師忠であって、この人物の二条家にとっての重要性は図り知れません。
その二条師忠を軽視するエピソードを二条家関係者が許容したとは私にはとうてい思えません。
当該エピソードは後で紹介します。

二条師忠(1254-1341)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%B8%AB%E5%BF%A0
即位灌頂
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E7%81%8C%E9%A0%82

さて、これでやっと「そうすれば増鏡は良基の監修を受けたというような結論にもあるいは到達できるかもしれない」という不思議な文章の直前に到達できましたが、いったんここで切ります。
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桃崎有一郎氏「鎌倉幕府埦飯役の成立・挫折と<御家人皆傍輩>幻想の行方」

2017-12-16 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月16日(土)12時56分50秒

>筆綾丸さん
>桃崎有一郎氏の『平安京はいらなかった』

これは未読ですが、つい最近、桃崎氏の論文を読んで、なるほどなと感心したことがあります。
『徒然草』第216段に関し、私は村井章介氏の「執権政治の変質」(『日本史研究』261号、1984)に基づき、第216段は「自由出家」事件の後と考えることも可能だと思っていました。
村井氏は埦飯という正月三が日に幕府重臣が将軍を饗応する儀式の沙汰人に着目し、

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1 埦飯沙汰人
 それでは、幕府の実体的な最高権力がどこにあるかを、どうやって判断したらよいのだろうか。文書の様式などに表現される制度上の最高権力が実体をあらわすものでないことは、幕府中期以降の将軍をみれば明らかである。そこで注目されるのが、上横手氏によって、「幕府の諸将たちのランク付け」において「官位の高さ、幕府諸機関での地位、従来からの功績、領主としての規模等々……の諸要素に分解しきれない総合的評価」をあらわすものとされた、埦飯の儀式である。
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という観点から「埦飯沙汰人表」を作成しているのですが(p3)、この一覧表に登場する足利氏関係者を見ると、

建久5(1194)足利義兼 一日
建久6(1195)同    一日
貞応1(1222)足利義氏 二日
仁治2(1241)同    二日
寛元1(1243)同    一日
建長2(1250)同    二日
建長3(1251)同    三日
建長4(1252)同    三日
建長5(1253)同    二日
建長6(1254)同    二日
康元1(1255)足利頼氏 三日

ということで、足利泰氏の「自由出家」事件(建長3年12月)以降も特段の変化は伺えず、事件の悪影響は比較的短期間に終息したのだろうなと思っていました。
それをこの掲示板でも書くつもりだったのですが、念のために最近の埦飯に関する研究を確認したところ、桃崎有一郎氏がいくつか論文を書かれていて、その中のひとつ、「鎌倉幕府埦飯役の成立・挫折と<御家人皆傍輩>幻想の行方─礼制と税制・貨幣経済の交錯─」(『日本史研究』651号、2016)という長いタイトルの論文には、「緒言」として、

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 鎌倉幕府における埦飯は、特定の機会に御家人が一堂に会して共食する、定例行事の代表格である。それは従来、将軍・執権による御家人支配の道具(服属儀礼)と解されてきたが、実は同じ主君を共有する「傍輩」間の紐帯確認儀礼として幕府に導入された廷臣の慣習であった。そして執権政治確立期には、北条氏家督が埦飯沙汰人(裏方の事務責任者)を独占することで、<傍輩たる御家人集団の事務局長(執権)を北条氏が引き受けた>形が強調され、北条氏主導体制への反発の防止策として活用された(別稿1・2)。
 この幕府埦飯は、鎌倉中期に一つの画期を迎える。埦飯費用を御家人役として賦課徴収する、埦飯役の成立である。埦飯が服属儀礼ならば、それは服属関係の強化・構造化に過ぎず、通説が問題視しなかったのは当然だろう。しかし埦飯が服属儀礼でないならば、埦飯役成立は検討に値する大問題となる。本来、埦飯の物資供出が傍輩を饗応する自発的贈与であったにもかかわらず、埦飯役として御家人の義務的租税と化したことは、埦飯の、そして幕府行事体系の礼制史的大転換といわねばならないからである。【後略】
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とありました(p1)。
まだまだ新説の段階でしょうが、既に単純に村井説に依拠する訳に行かないのは明らかですね。
そこで、もう少し考えることにして村井説の引用は差し控えました。
亀田俊和氏の高一族研究を始め、私が暫く中世史を離れていた間に多方面で研究の発展・深化がなされているようで、ひと昔前に貯めた知識に安住していると足元をすくわれそうですね。
なお、『吾妻鏡』建長6年(1254)11月16日条に北条時頼が病気の足利義氏を見舞ったという記事があり、五日後の21日に義氏が死去していますので、「自由出家」事件の影響は義氏の死去の時点までには一応終息したと考えてよいでしょうから、『徒然草』第216段に関して述べたことを撤回する必要はないと思っています。


>「五位で終わった兼好より官位は遥かに上である」

時間の経過により、書いた本人が読んでも奇妙な文章になってしまうのはよくあることですね。
私はこの時間的要素を加えることにより『増鏡』年代論のアポリアを克服できると思っています。
ま、この点は以前のサイトに書きましたが、きちんと纏めておきたいですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ドラえもん 2017/12/15(金) 19:14:36
小太郎さん
近世江戸期の陪臣のイメージだけで中世を見てはいけないのですね。
「五位で終わった兼好より官位は遥かに上である」という記述を見ると、小川氏も昔は兼好にはずいぶんウブだったのですね。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b251580.html
桃崎有一郎氏の『平安京はいらなかった』を読み始めました。ネチネチした文体の持主という印象から敬遠していたのですが、こんなユーモアもあるんですね。ドラえもんの偉さがよくわかりました。
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この風習は百姓にも広がり、百姓も鎌倉時代以降、前近代を通じて、官職もどきを名乗り続けた。衛門尉に由来する「~衛門」、兵衛尉に由来する「~兵衛」の類がそれである(筆者の知る限り、最も新しい事例は二二世紀の「ドラえもん」である)。(中略)農村や町では「○○衛門」という官途もどきを名乗るためには「衛門成」という手続きを踏み、共同体の認証を得なければならない(そうして官職由来の名に改めることを「官途成」という)。したがってその共同体では、「○○衛門」のような官途もどきを名乗る人物が、名乗れない人物人物より上位と見なされた。(4頁~)
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