投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月 1日(木)12時54分37秒
早歌に関心を持つ歴史研究者が増えてほしいので、外村久江氏の『鎌倉文化の研究』(三弥井書店、1996)の「第二篇 早歌研究」「第四章 早歌の撰集について─撰要目録巻の伝本を中心に─」から、歴史研究者のマニアックな興味を引きそうな部分を少し紹介しておきます。(p301以下)
この論文も初出は『東京学芸大学紀要』第三部門社会科学19集(1967年12月)なので、半世紀も前の業績ですね。
国会図書館サイトで「早歌」をキーワードにして検索をかけても、近年は論文数があまり多くなく、国文学側の早歌研究は行き詰まりっぽい雰囲気があります。
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結び
早歌はいつ頃から歌い出されたのであろうか、という問題は未解決である。したがって、この創始と撰集との関係を明らかにすることは難しく、史料のないこの方面のものとしては、むしろ、各撰集の語る年代から逆に、その創始を想像する他はない。今、早大本撰要目録巻の出現によって、作者比定者に確定者を加えることが出来たので、そういう人々で生没の判る人と撰集との関係、特に作者であり、撰集の大事業をも成し遂げた明空・月江の生存年限を図に示してみた。次項の撰者・作者年表がそれである。
(1)明空・月江─拾菓集序「今は六そぢのあまり」とあることより逆算すると寛元三年(一二四五)前後生れる。月江としては異説秘抄口伝巻の識語の文保三年(一三一九)まで生存は確実である。
(2)藤三品─藤原広範は嘉元元年(一三〇三)卒(公卿補任、一代要記は二年)。年齢は不明だが、正嘉元年(一二五七)には既に幕府の仕事をしていた(吾妻鏡)。
(3)漸空上人─嘉元二年(一三〇四)六十六歳でなくなっている(後藤丹治氏「宴曲に関する二三の考察」)。
(4)洞院前大相国家─公守は嘉元三年(一三〇五)で出家して五十七才である(公卿補任)。
(5)冷泉武衛─為相は嘉暦三年(一三二八)六十六歳でなくなっている(公卿補任)。
(6)越州左親衛─金沢貞顕は元弘三年(一三三三)五十六才でなくなった(北条時政以来後見次第)
(7)花山院右幕下家─家教は永仁五年(一二九七)三十七才でなくなった(公卿補任)。
(8)冷泉羽林─為通は永仁七年(一二九九)二十九歳で早世(尊卑分脈)。
(9)二条羽林─飛鳥井雅孝は文和二年(一三五三)七十三才でなくなった(公卿補任)。
(10)生覚─綾小路経資は嘉元二年(一三〇四)後深草院の御事により出家していて、この時六十四才である(公卿補任)。
(11)洞院左幕下─実泰は嘉暦二年(一三二七)五十八才(異本五十九)でなくなっている。この人は早大本・竹柏園文庫本では洞院内大臣家となっているが、左幕下即ち左大将か内大臣かで、琵琶曲ののる別紙追加曲の撰集年代が限定される。左大将は延慶三年四月二十八日(尊卑分脈二十七日)から正和四年七月二十三日(分脈二十日)までで、諸本では別紙追加曲は拾菓抄成立の正和三年(一三一四)三月五日以後同四年七月二十三日(或いは二十日)までとなる。早大本・竹柏園文庫本の内大臣をとれば、正和四年三月十三日には内大臣に任ぜられているので、ここから、正和五年十月二十日(分脈二十二日)に右大臣に転ずるまでの期間ということになる(以上公卿補任)。
初期の作者には、官職位の高い人があるので、その生没が判り易く、その作歌年代の推察には好都合である。初期百首の六歌仙にも比する作者の藤三品・洞院公守・花山院家教・冷泉為相・冷泉為通や漸空上人の仕事をしうる年齢はその青壮年期の文永弘安の頃とみてよい。早歌の生みの親ともいえる明空もまたほとんど同じ活躍期である。
【後略】
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遥か昔には明空・月江別人説もあったのですが、これは外村久江氏の研究によって同一人物で確定しています。
なお、この時期の「漸空上人」というと平頼綱の威勢を頼んで朝廷側の訴訟・人事に介入した「禅空」「善空」を連想しますが、後藤丹治「宴曲に関する二三の考察」(『中世国文学研究』、磯部甲陽堂、1943)と森幸夫氏の「平頼綱と公家政権」(『三浦古文化』54、1994)を読み比べてみたところ、特に関係はないようですね。
後藤著によれば、漸空上人とは次のような人物だそうです。(p522以下)
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此等の外、伝記のやや明白なのは漸空上人である。宴曲集第一に「郭公」の曲を収めてゐるが、撰要目録ではこれを漸空上人作、明空調曲としてゐる。漸空上人は浄土宗西山派三福寺の中興で、了観と云つた人である。俗姓や生国は詳かでないが、東山證入の弟子観日に師事し、浄土の宗義を受け、京都に三福寺を建立した(浄土伝燈録、浄土総系譜)更に法水分流記には、その西山義(又号小坂義)の条に、
三福寺了観
證源───漸空──────────示證
住蓮光院嘉元二
四 二十六 往生六十六
とあつて、蓮光院に住し、嘉元二年四月、六十六歳で寂してゐる。而して宴曲集は記述の如く、正安三年に編纂されたものであるから、それに収められた「郭公」の曲も、大体その頃に作られたらしく、すなはち漸空が晩年の作と思はれる。が明空は更にその曲を調曲したのであつて、二人の間には多少の交際もあつたのであらう。漸空の作つた和歌は新後撰集・続千載集・新千載集・続門葉和歌集にも載せられてあつて、歌人としても有名な人であつたのである。和歌兼作集に、釈漸空として詩が載つてゐるのも、同じ人であらう。(漸空のことは、新撰国文学通史にも少し説かれてゐる)
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ネットで少し検索してみたところ、真鍋昌弘氏による外村久江氏の『早歌の研究』(至文堂、1965)の書評がありましたが、これで半世紀前の研究水準を伺うことができます。
同書「第一篇 早歌の撰者・作者とその文化圏」の第六章のタイトルは「作者「或女房」は阿仏尼か」となっていますね。
真鍋昌弘:書評『早歌の研究』
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/jl/ronkyuoa/AN0025722X-026_043.pdf
早歌に関心を持つ歴史研究者が増えてほしいので、外村久江氏の『鎌倉文化の研究』(三弥井書店、1996)の「第二篇 早歌研究」「第四章 早歌の撰集について─撰要目録巻の伝本を中心に─」から、歴史研究者のマニアックな興味を引きそうな部分を少し紹介しておきます。(p301以下)
この論文も初出は『東京学芸大学紀要』第三部門社会科学19集(1967年12月)なので、半世紀も前の業績ですね。
国会図書館サイトで「早歌」をキーワードにして検索をかけても、近年は論文数があまり多くなく、国文学側の早歌研究は行き詰まりっぽい雰囲気があります。
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結び
早歌はいつ頃から歌い出されたのであろうか、という問題は未解決である。したがって、この創始と撰集との関係を明らかにすることは難しく、史料のないこの方面のものとしては、むしろ、各撰集の語る年代から逆に、その創始を想像する他はない。今、早大本撰要目録巻の出現によって、作者比定者に確定者を加えることが出来たので、そういう人々で生没の判る人と撰集との関係、特に作者であり、撰集の大事業をも成し遂げた明空・月江の生存年限を図に示してみた。次項の撰者・作者年表がそれである。
(1)明空・月江─拾菓集序「今は六そぢのあまり」とあることより逆算すると寛元三年(一二四五)前後生れる。月江としては異説秘抄口伝巻の識語の文保三年(一三一九)まで生存は確実である。
(2)藤三品─藤原広範は嘉元元年(一三〇三)卒(公卿補任、一代要記は二年)。年齢は不明だが、正嘉元年(一二五七)には既に幕府の仕事をしていた(吾妻鏡)。
(3)漸空上人─嘉元二年(一三〇四)六十六歳でなくなっている(後藤丹治氏「宴曲に関する二三の考察」)。
(4)洞院前大相国家─公守は嘉元三年(一三〇五)で出家して五十七才である(公卿補任)。
(5)冷泉武衛─為相は嘉暦三年(一三二八)六十六歳でなくなっている(公卿補任)。
(6)越州左親衛─金沢貞顕は元弘三年(一三三三)五十六才でなくなった(北条時政以来後見次第)
(7)花山院右幕下家─家教は永仁五年(一二九七)三十七才でなくなった(公卿補任)。
(8)冷泉羽林─為通は永仁七年(一二九九)二十九歳で早世(尊卑分脈)。
(9)二条羽林─飛鳥井雅孝は文和二年(一三五三)七十三才でなくなった(公卿補任)。
(10)生覚─綾小路経資は嘉元二年(一三〇四)後深草院の御事により出家していて、この時六十四才である(公卿補任)。
(11)洞院左幕下─実泰は嘉暦二年(一三二七)五十八才(異本五十九)でなくなっている。この人は早大本・竹柏園文庫本では洞院内大臣家となっているが、左幕下即ち左大将か内大臣かで、琵琶曲ののる別紙追加曲の撰集年代が限定される。左大将は延慶三年四月二十八日(尊卑分脈二十七日)から正和四年七月二十三日(分脈二十日)までで、諸本では別紙追加曲は拾菓抄成立の正和三年(一三一四)三月五日以後同四年七月二十三日(或いは二十日)までとなる。早大本・竹柏園文庫本の内大臣をとれば、正和四年三月十三日には内大臣に任ぜられているので、ここから、正和五年十月二十日(分脈二十二日)に右大臣に転ずるまでの期間ということになる(以上公卿補任)。
初期の作者には、官職位の高い人があるので、その生没が判り易く、その作歌年代の推察には好都合である。初期百首の六歌仙にも比する作者の藤三品・洞院公守・花山院家教・冷泉為相・冷泉為通や漸空上人の仕事をしうる年齢はその青壮年期の文永弘安の頃とみてよい。早歌の生みの親ともいえる明空もまたほとんど同じ活躍期である。
【後略】
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遥か昔には明空・月江別人説もあったのですが、これは外村久江氏の研究によって同一人物で確定しています。
なお、この時期の「漸空上人」というと平頼綱の威勢を頼んで朝廷側の訴訟・人事に介入した「禅空」「善空」を連想しますが、後藤丹治「宴曲に関する二三の考察」(『中世国文学研究』、磯部甲陽堂、1943)と森幸夫氏の「平頼綱と公家政権」(『三浦古文化』54、1994)を読み比べてみたところ、特に関係はないようですね。
後藤著によれば、漸空上人とは次のような人物だそうです。(p522以下)
-------
此等の外、伝記のやや明白なのは漸空上人である。宴曲集第一に「郭公」の曲を収めてゐるが、撰要目録ではこれを漸空上人作、明空調曲としてゐる。漸空上人は浄土宗西山派三福寺の中興で、了観と云つた人である。俗姓や生国は詳かでないが、東山證入の弟子観日に師事し、浄土の宗義を受け、京都に三福寺を建立した(浄土伝燈録、浄土総系譜)更に法水分流記には、その西山義(又号小坂義)の条に、
三福寺了観
證源───漸空──────────示證
住蓮光院嘉元二
四 二十六 往生六十六
とあつて、蓮光院に住し、嘉元二年四月、六十六歳で寂してゐる。而して宴曲集は記述の如く、正安三年に編纂されたものであるから、それに収められた「郭公」の曲も、大体その頃に作られたらしく、すなはち漸空が晩年の作と思はれる。が明空は更にその曲を調曲したのであつて、二人の間には多少の交際もあつたのであらう。漸空の作つた和歌は新後撰集・続千載集・新千載集・続門葉和歌集にも載せられてあつて、歌人としても有名な人であつたのである。和歌兼作集に、釈漸空として詩が載つてゐるのも、同じ人であらう。(漸空のことは、新撰国文学通史にも少し説かれてゐる)
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ネットで少し検索してみたところ、真鍋昌弘氏による外村久江氏の『早歌の研究』(至文堂、1965)の書評がありましたが、これで半世紀前の研究水準を伺うことができます。
同書「第一篇 早歌の撰者・作者とその文化圏」の第六章のタイトルは「作者「或女房」は阿仏尼か」となっていますね。
真鍋昌弘:書評『早歌の研究』
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/jl/ronkyuoa/AN0025722X-026_043.pdf