学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

早歌の作者

2018-03-01 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月 1日(木)12時54分37秒

早歌に関心を持つ歴史研究者が増えてほしいので、外村久江氏の『鎌倉文化の研究』(三弥井書店、1996)の「第二篇 早歌研究」「第四章 早歌の撰集について─撰要目録巻の伝本を中心に─」から、歴史研究者のマニアックな興味を引きそうな部分を少し紹介しておきます。(p301以下)
この論文も初出は『東京学芸大学紀要』第三部門社会科学19集(1967年12月)なので、半世紀も前の業績ですね。
国会図書館サイトで「早歌」をキーワードにして検索をかけても、近年は論文数があまり多くなく、国文学側の早歌研究は行き詰まりっぽい雰囲気があります。

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  結び

 早歌はいつ頃から歌い出されたのであろうか、という問題は未解決である。したがって、この創始と撰集との関係を明らかにすることは難しく、史料のないこの方面のものとしては、むしろ、各撰集の語る年代から逆に、その創始を想像する他はない。今、早大本撰要目録巻の出現によって、作者比定者に確定者を加えることが出来たので、そういう人々で生没の判る人と撰集との関係、特に作者であり、撰集の大事業をも成し遂げた明空・月江の生存年限を図に示してみた。次項の撰者・作者年表がそれである。

(1)明空・月江─拾菓集序「今は六そぢのあまり」とあることより逆算すると寛元三年(一二四五)前後生れる。月江としては異説秘抄口伝巻の識語の文保三年(一三一九)まで生存は確実である。
(2)藤三品─藤原広範は嘉元元年(一三〇三)卒(公卿補任、一代要記は二年)。年齢は不明だが、正嘉元年(一二五七)には既に幕府の仕事をしていた(吾妻鏡)。
(3)漸空上人─嘉元二年(一三〇四)六十六歳でなくなっている(後藤丹治氏「宴曲に関する二三の考察」)。
(4)洞院前大相国家─公守は嘉元三年(一三〇五)で出家して五十七才である(公卿補任)。
(5)冷泉武衛─為相は嘉暦三年(一三二八)六十六歳でなくなっている(公卿補任)。
(6)越州左親衛─金沢貞顕は元弘三年(一三三三)五十六才でなくなった(北条時政以来後見次第)
(7)花山院右幕下家─家教は永仁五年(一二九七)三十七才でなくなった(公卿補任)。
(8)冷泉羽林─為通は永仁七年(一二九九)二十九歳で早世(尊卑分脈)。
(9)二条羽林─飛鳥井雅孝は文和二年(一三五三)七十三才でなくなった(公卿補任)。
(10)生覚─綾小路経資は嘉元二年(一三〇四)後深草院の御事により出家していて、この時六十四才である(公卿補任)。
(11)洞院左幕下─実泰は嘉暦二年(一三二七)五十八才(異本五十九)でなくなっている。この人は早大本・竹柏園文庫本では洞院内大臣家となっているが、左幕下即ち左大将か内大臣かで、琵琶曲ののる別紙追加曲の撰集年代が限定される。左大将は延慶三年四月二十八日(尊卑分脈二十七日)から正和四年七月二十三日(分脈二十日)までで、諸本では別紙追加曲は拾菓抄成立の正和三年(一三一四)三月五日以後同四年七月二十三日(或いは二十日)までとなる。早大本・竹柏園文庫本の内大臣をとれば、正和四年三月十三日には内大臣に任ぜられているので、ここから、正和五年十月二十日(分脈二十二日)に右大臣に転ずるまでの期間ということになる(以上公卿補任)。

 初期の作者には、官職位の高い人があるので、その生没が判り易く、その作歌年代の推察には好都合である。初期百首の六歌仙にも比する作者の藤三品・洞院公守・花山院家教・冷泉為相・冷泉為通や漸空上人の仕事をしうる年齢はその青壮年期の文永弘安の頃とみてよい。早歌の生みの親ともいえる明空もまたほとんど同じ活躍期である。
【後略】
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遥か昔には明空・月江別人説もあったのですが、これは外村久江氏の研究によって同一人物で確定しています。
なお、この時期の「漸空上人」というと平頼綱の威勢を頼んで朝廷側の訴訟・人事に介入した「禅空」「善空」を連想しますが、後藤丹治「宴曲に関する二三の考察」(『中世国文学研究』、磯部甲陽堂、1943)と森幸夫氏の「平頼綱と公家政権」(『三浦古文化』54、1994)を読み比べてみたところ、特に関係はないようですね。
後藤著によれば、漸空上人とは次のような人物だそうです。(p522以下)

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此等の外、伝記のやや明白なのは漸空上人である。宴曲集第一に「郭公」の曲を収めてゐるが、撰要目録ではこれを漸空上人作、明空調曲としてゐる。漸空上人は浄土宗西山派三福寺の中興で、了観と云つた人である。俗姓や生国は詳かでないが、東山證入の弟子観日に師事し、浄土の宗義を受け、京都に三福寺を建立した(浄土伝燈録、浄土総系譜)更に法水分流記には、その西山義(又号小坂義)の条に、

         三福寺了観
  證源───漸空──────────示證
         住蓮光院嘉元二
         四 二十六 往生六十六

とあつて、蓮光院に住し、嘉元二年四月、六十六歳で寂してゐる。而して宴曲集は記述の如く、正安三年に編纂されたものであるから、それに収められた「郭公」の曲も、大体その頃に作られたらしく、すなはち漸空が晩年の作と思はれる。が明空は更にその曲を調曲したのであつて、二人の間には多少の交際もあつたのであらう。漸空の作つた和歌は新後撰集・続千載集・新千載集・続門葉和歌集にも載せられてあつて、歌人としても有名な人であつたのである。和歌兼作集に、釈漸空として詩が載つてゐるのも、同じ人であらう。(漸空のことは、新撰国文学通史にも少し説かれてゐる)
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ネットで少し検索してみたところ、真鍋昌弘氏による外村久江氏の『早歌の研究』(至文堂、1965)の書評がありましたが、これで半世紀前の研究水準を伺うことができます。
同書「第一篇 早歌の撰者・作者とその文化圏」の第六章のタイトルは「作者「或女房」は阿仏尼か」となっていますね。

真鍋昌弘:書評『早歌の研究』
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/jl/ronkyuoa/AN0025722X-026_043.pdf
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「白拍子ではないが、同じ三条であることは不思議な符合である」(by 外村久江氏)

2018-03-01 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月 1日(木)10時59分48秒

外村久江氏の「白拍子三条」に関する、

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増鏡にはこの二条が後に三条と改名させられていることがあって(山岸徳平氏『とはずがたり』解題)、白拍子ではないが、同じ三条であることは不思議な符合である。この作者は女西行を理想として、各地を旅行したが、鎌倉にも来て、平頼綱入道の奥方の為に五衣の調製の指導をしたり、新将軍久明親王の為の御所のしつらいの助言等をしている。その際は身分や名を秘し、ただ京の人といって出かけている。鎌倉入りは既に尼となった正応二年(一二八九)の事で、早歌の最初の撰集時期と重なっている。早歌には生みの親とも考えられる明空は極楽寺の僧侶ではなかったかとみられるが、彼女の鎌倉入りはこの寺に真っ先に入って、僧の振る舞いが都に違わず、懐かしいという感想を述べている。以上のことや音楽・文学の才能の点から、或女房としてはふさわしい人のようであるが、口伝の白拍子号三条の朱書きとどう結びつけるかが難しい。白拍子にも高貴にはべって才能の豊かな人もいた時代だから、今は朱書きを信ずることにしておきたい。
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という見解(『鎌倉文化の研究』、p292)は、私にとっては実に味わい深いものなのですが、「この二条が後に三条と改名させられている」場面は既に一応は引用済みです。


『増鏡』の「序」では「具したる若き女房の、つきづきしき程なるをば返しぬめり」(連れて来た若い女房で、主人の尼のお供には似合わしいほどの者を僧房の方へ帰したようである)という具合に「若き女房」の存在が記されているものの、この「若き女房」は何時帰ってきたのかの説明もないまま、「この二条が後に三条と改名させられている」場面で唐突に口を挟んできます。
私はこの場面を『増鏡』作者が読者に対して、『増鏡』と『とはずがたり』との関係について考えてみて下さいな、と謎かけをしているものと解釈しているのですが、それはまた後で詳しく検討するとして、早歌との関係でも、この場面の登場人物に早歌の作者が目立つことが気になります。
そこで、先の投稿では紹介していなかった「この二条が後に三条と改名させられている」場面の直前の部分を含め、原文を改めて少し丁寧に引用しておきたいと思います。
「巻第十一 さしぐし」の冒頭、伏見天皇の践祚により治天の君が亀山院から後深草院に代った弘安十年の翌年、正応元年(1288)の話です。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p335以下)

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 正応元年三月十五日、官庁にて御即位あり。此の程は香園院の<師忠>左の大臣関白にておはしき。そののち、近衛殿<家基>、また九条の左大臣殿<忠教>、そののちまた近衛殿かへりなり給ひき。なほ後に歓喜園院など、いとしげうかはり給ふ。おりゐの御門を今は新院と聞ゆれば、太上天皇みたり世におはします頃なり。いと珍しく侍るにや。
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関白は弘安十年(1287)八月から鷹司兼平に代って二条師忠、正応二年(1289)四月から近衛家基、正応四年(1291)五月から九条忠教、正応六年(1293)二月から再び近衛家基、永仁四年(1296)七月から鷹司兼忠と目まぐるしく交替します。退位した後宇多天皇を「新院」と呼ぶようになり、後深草院・亀山院と太上天皇が三人並びます。

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 御門の御母三位し給ふ。その御はらからの姫君、御かたはらにさぶらひ給ふを、上いと忍びたる御むつびあるべし。東二条院の御ためしにや、などささめく人もあれど、さばかりうけばりては、えしもやおはせざらん。三位殿の御せうとの公守大納言の姫君も幼くよりかしづきてさぶらひ給ふ。それもよそならぬ御契りなるべし。此の君をぞ、父の殿もいとうるはしきさまにても、参らせまほしう思いつれど、西園寺の大納言<実兼>の姫君、いつしか参り給へば、きしろふべきにもあらず。
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新帝(伏見)の母は洞院実雄の娘、愔子(後の玄輝門院、1249-1329)です。
「御門の御母三位し給ふ」とありますが、実際には八年前の弘安三年(1280)正月八日に従三位に叙されています。
その十六歳下の異母妹・季子(後の顕親門院、1265-1336)は後に花園天皇(1297-1348)を産む女性ですが、「父の後深草院が母・大宮院の妹の東二条院を中宮にした先例に倣うのであろうか、などと噂する人もいたが、それほど表立った対応はできないだろう」とのことで、作者の些か冷たい視線を感じさせます。
「三位殿(愔子)の兄の公守大納言の姫君も幼いころから大事に育てておそばにおられる。その方も並々でない御寵愛があるようだ。この姫君を父の公守大納言もきちんと公式の形で入内させたいと思われていたが、西園寺実兼大納言の姫君が早くも入内されるので、その方と競争することもできない」となっていますが、『尊卑分脈』を見ても当てはまる女性はおらず、不審な記述です。
単なる記憶違いというよりは『増鏡』作者の洞院家に対する悪意の現われのような感じもします。

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 その年六月二日入内あり。その夜まづ御裳着し給ふ。先きの御代にもあらましは聞えしかど、いかなるにか、さもおはせざりしに、いつしかかうもありけるは、なお思す心ありけるなめり、とぞうちつけにひがひがしういひなす人も侍りける。
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実兼女・※子(※金偏に「章」、後の永福門院、1271-1342)は先帝(後宇多)の時代にも入内の話があったが、どうした事情だったのか、それは実現に至らず今回の入内となったのは、やはり実兼大納言にお考えがあったからだろうと、露骨に、悪しざまに言う人もいた。

ということで、いかにも内情を知悉しているかの如き『増鏡』作者の口吻です。

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 此の姫君の母北の方は、三条坊門通成の内の大臣の女なり。さぶらふ人々もおしなべたらぬ限りえりととのへ、いみじうきよらに思し急ぐ。よろづの人の心も、昨日に今日はまさりのみ行くめれば、いや珍らに、このましうめでたし。大方、大宮院の御参りの例を思しなずらふべし。院の御子にこれもまたなり給ふとて、東二条院御腰結はせ給ひて、時なりぬれば、唐廂の御車に奉りて、上達部十人、殿上人十余人、本所の前駆廿人、つい松ともして御車の左右にさぶらふ。
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実兼女の母親、顕子は源通親孫の中院通成(1222-86)の娘で、通成は中院雅忠の従兄弟ですから、後深草院二条と中院顕子は又従姉妹の関係ですね。
この後は既に紹介した部分と重なりますが、参照の便宜のため、再掲します。

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 出車十両、一の左に母北の方の御妹一条殿、右に二条殿、実顕の宰相中将の女、大納言の子にし給ふとぞ聞えし。二の車、左に久我大納言雅忠の女、三条とつき給ふを、いとからいことに嘆き給へど、みな人先立ちてつき給へれば、あきたるままとぞ慰められ給ひける。右に近衛殿、源大納言雅家の女。三の左に大納言の君、室町の宰相中将公重の女、右に新大納言、同じ三位兼行とかやの女、四の左、宰相の君、坊門三位基輔の女、右、治部卿兼倫の三位の女なり。それより下は例のむつかしくてなん。多くは本所の家司、なにくれがむすめどもなるべし。童・下仕へ・御雑仕・はしたものに至るまで、髪かたちめやすく、親うち具し、少しもかたほなるなくととのへられたり。
 その暮れつ方、頭中将為兼朝臣、御消息もて参れり。内の上みづから遊ばしけり。

  雲の上に千代をめぐらんはじめとて今日の日かげもかくや久しき

 紅の薄様、同じ薄様にぞ包まれたんめる。関白殿、「包むやう知らず」とかやのたまひけるとて、花山に心えたると聞かせ給ひければ、遣して包ませられけるとぞ承りしと語る。またこの具したる女、「いつぞやは御使ひに実教の中将とこそは語り給ひしか」といふ。
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さて、以上の場面に登場する洞院公守(1249-1317)は早歌の「撰要目録巻」に「洞院前大相国家」として、また花山院家教(1261-97)は「花山院右幕下家」として出てきます。(『鎌倉文化の研究』、p302)
藤原広範や冷泉為相など、いわゆる「関東伺候廷臣」が早歌の作詞者となっているのは自然ですが、洞院公守や花山院家教に関東下向の経験があるのか疑問で、この二人を含む早歌作詞者のかなりの割合の人々は在京のまま、詞のみを関東に寄せた可能性が高いのでは、と私は思っています。
この点、もう少し調べる必要はありますが、仮にこれが正しいとすると、早歌に関して鎌倉と京を媒介したのは誰か、という問題が出てきます。
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