投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月22日(木)11時34分34秒
ついでなので、もう少しだけ『とはずがたり』を引用しておきます。
後深草院が文永十一年(1274)の年初に「今年は正月より二月十七日までは、御精進なりとて、御傾城などいふ御沙汰たえてなし」という状況だったために、「雪の曙」こと西園寺実兼と二条は様々な工作を行なって、九月に生まれた女児は早産で死んでしまったことにします。
女児を「雪の曙」がどこかへ連れ去って悲しいと思っていた二条に、今度は昨年二月十日に生んだ皇子が死んだという悲報が入ってきて、二条は十七歳にして出家を決意するという展開になります。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p200以下)
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さても、こぞ出で来給ひし御方、人しれず、隆顕のいとなみぐさにておはせしが、このほど御悩みと聞くも、身のあやまちの行末、はかばかしからじと思ひもあへず、十月の初めの八日にや、しぐれの雨のあまそそき、露とともに消えはて給ひぬと聞けば、かねて思ひまうけにしことなれども、あへなくあさましき心のうち、おろかならんや。
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【私訳】ところで去年お生まれになった若宮様は、内々、叔父の善勝寺隆顕が養育していたが、このごろ御病気だと聞くので、私の過ちの結果で、何かよくないことがと思っていた矢先に、十月八日、時雨の雨の雫のように、露と消えてしまわれたと聞いたときには、かねて覚悟していたことではあるけれども、はかなく情けない心のうちは、ひととおりのものであろうか。
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前後相違の別れ、愛別離苦の悲しみ、ただ身一つにとどまる。幼稚にて母に後れ、盛りにて父を失ひしのみならず、今またかかる思ひの袖の涙、かこつ方なきばかりかは。なれゆけば、帰るあしたは名残を慕ひて、また寝の床に涙を流し、待つ宵には、ふけゆく鐘に音を添へて、待ちつけて後は、また世にや聞えんと苦しみ、里に侍るをりは君の御面影を恋ひ、かたはらに侍るをりは、またよそにつもる夜な夜なを怨み、わが身に疎くなりましますことも悲しむ。人間のならひ、苦しくてのみ明け暮るる、一日一夜に八億四千とかやのかなしみも、ただわれ一人に思ひ続くれば、しかじ、ただ恩愛の境界をわかれて、仏弟子となりなん。
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【私訳】前後相違して、愛児に先立たれた悲しみと、生きて愛児に分かれた苦しみと、この二つがただ私の身一つに集まった思いがする。私は幼いときに母に先立たれ、成長してからは父を失ったのみならず、今またこのような思いで袖を涙で濡らし、誰をうらむこともできない。(雪の曙と)逢瀬を重ねるにつれ、帰る朝は名残を慕い、帰ってのちの一人臥す床に涙を流し、彼を待つ宵には更け行く時を知らせる鐘の音に、わが泣く声を添え、待った末に会えば、世間に知られるのではないかと苦しみ、里にいる折には院の御面影を恋い、院のおそばにいるときは、また他の女とお過ごしになる夜が重なることを怨み、わが身が疎遠になることを悲しむ。人間の習いとして、苦しんでいるばかりで明け暮れる。一日一夜に生ずる八億八千とかの悲しみも、ただ私一人に集まるように思い続けていると、そうだ、いっそただ恩愛に苦悩するこの境界を離れて、仏弟子になってしまおう。
ということで、二条は十七歳にして出家を決意します。
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九つの年にや、西行が修行の記といふ絵をみしに、かた方に深き山を描きて、 前には川の流れを描きて、 花の散りかかるにゐて眺むるとて、
風吹けば花のしら波岩こえて渡りわづらふ山川の水
とよみたるを描きたるをみしより、うらやましく、難行苦行はかなはずとも、われも世を捨てて、足にまかせて行きつつ、花のもと露のなさけをも慕ひ、紅葉の秋の散るうらみをものべて、かかる修行の記を書きしるして、亡からんのちの形見にもせばやと思ひしを、三従のうれへのがれざれば、親にしたがひて日を重ね、君に仕へても今日まで憂き世に過ぎつるも、心のほかになど思ふより、憂き世をいとふ心のみ深くなり行くに、
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【私訳】九つの年だったか、西行の修行の記という絵巻を見たことがあるが、片方に深い山を描き、前には川の流れを描いて、花の散りかかるところに西行が座って眺めながら、
風吹けば花のしら波岩こえて渡りわづらふ山川の水
と詠んだ歌を書いてあったのを見てから、うらやましく、難行苦行はかなわなくとも、私も世を捨てて、足にまかせて行きつつ、花の下、露の情けをも慕い、紅葉の秋に散る恨みをも綴り、このような修行の記を書き記して、亡くなった後の形見にもしたいと思ったのだが、三従という女の愁いは逃れることができないので、親に従って日を重ね、君に仕えて今日まで憂き世を過ごしつつも、これも本心からではないと思い、憂き世を厭う心の身深くなって行くが、……
ということで、この後、
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この秋ごろにや、御所さまにも世の中すさまじく、後院の別当などおかるるも御面目なしとて、太政天皇の宣旨を天下へ返し参らせて、御随身ども召しあつめて、みな禄ども賜はせていとま賜びて、久則一人、後に侍るべしとありしかば、めんめんに袂をしぼりてまかり出で、御出家あるべしとて人数定められしにも、女房には東の御方・二条とあそばれしかば、憂きはうれしきたよりにもやと思ひしに、鎌倉よりなだめ申して、東の御方の御腹の若君、位にゐ給ひぬれば、御所さまも花やかに、角〔すみ〕の御所には御影御わたりありしを、正親町殿へ移し参らせられて、角の御所、春宮の御所になりなどして、京極殿とて院の御方に候ふは、むかしの新典侍殿なれば、何となくこの人は過さねど、憂かりし夢のゆかりにおぼえしを、たち返り、大納言の典侍とて、春宮の御方に候ふなどするにつけても、よるづ世の中もの憂ければ、ただ山のあなたにのみ心は通へども、いかなる宿執なほのがれがたきやらん、嘆きつつまたふる年も暮れなんとするころ、いといたう召しあれば、さすがに捨てはてぬ世なれば、参りぬ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fe672068d6739278f7b411ecbde2fe35
という後深草院の出家の決意の話に移ります。
文永十一年(1274)の年初の後深草院の血写経から九月の出産、十月の皇子の死去までは、それが事実であったかどうかは別として、時間の流れとしては不自然ではありません。
しかし、史実としては後深草院が出家の意思表示をしたのは「この秋ごろ」、即ち文永十一年の秋ではなく、文永十二年(建治元年、1275)四月九日で、その後、幕府の介入があり、半年後の同年十一月五日に煕仁親王の立太子となっています。
『とはずがたり』では「この秋ごろ」に後深草院の出家の決意から「東の御方の御腹の若君」の立太子まで一気に進んでしまうので、ここで『とはずがたり』の時間の流れと史実の間に一年のズレが生じることになります。