投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月26日(月)22時19分33秒
母の大宮院と異母妹である前斎宮の対面の場に呼ばれた後深草院は、異母妹の美しさに心を動かされ、二条に仲介させて関係を持ちますが、予想に反してつまらない女だった、ということで一夜限りの関係であっさり終わらせてしまいます。
その後、二条の助言により、再び後深草院と前斎宮が逢うことになりますが、その場面に至る前に、二条の振る舞いに激怒した東二条院が、後深草院がこのまま二条を甘やかすならば私は面目が立たないので出家します、と後深草院を責めるエピソードが出てきます。
『とはずがたり』の時間の流れの中では、文永十一年(1274)に二条が「雪の曙」との間の秘密の子を産んだものの生き別れとなり、ついで前年二月に生まれた後深草院の皇子が死んで、「前後相違の別れ、愛別離苦の悲しみ、ただ身一つにとどまる」と悲観した十七歳の二条が出家したいと思っていたところに、政治的事情による後深草院の出家騒動が重なります。
しかし、幕府の斡旋で煕仁親王の立太子となったため後深草院は出家を中止し、二条もどさくさに紛れて何となく出家を止めるのですが、二人が出家をやめたとたん、今度は東二条院が出家するという出家騒動の三段重ね的な状況になります。
ということで、続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p236以下)
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還御の夕方、女院の御方より御使に中納言殿参らる。何事ぞと聞けば、「二条殿が振舞のやう、心得ぬ事のみ侯ふときに、この御方の御伺侯をとどめて侯へば、殊更もてなされて、三つ衣を着て御車に参り候へば、人のみな女院の御同車と申し候ふなり。これせんなく覚え候。よろづ面目なき事のみ候へば、いとまを賜はりて、伏見などにひきこもりて、出家して候はんと思ひ候」といふ御使なり。
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【私訳】御帰りになった夕方、東二条院からの(後深草院に対する)お使いとして中納言殿が参られた。何事かと聞くと、
「二条殿の振る舞いは、腑に落ちないことばかりですので、こちらの方では出入りを差し止めておりましたのに、御所様には格別にご待遇なさって、三つ衣を着て、御所様の御車に乗ったりするとのことなので、人はみな私が同車しているものと申しているようです。これは本当に不本意なことと存じます。すべて面目ないことばかりですから、私はお暇を頂戴し、伏見あたりに引きこもって、出家しようと思っております」というお使いであった。
ということで、この後、後深草院の返事となります。
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御返事には、
「承り候ひぬ。二条がこと、いまさら承るべきやうも候はず。故大納言典侍、あかこのほど夜昼奉公し候へば、人よりすぐれてふびんに覚え候ひしかば、いかほどもと思ひしに、あへなくうせ候ひし形見には、いかにもと申しおき候ひしに、領掌申しき。故大納言、また最後に申す子細候ひき。君の君たるは臣下の志により、臣下の臣たることは、君の恩によることに候ふ。最後終焉に申しおき候ひしを、快く領掌し候ひき。したがひて、後の世のさはりなく思ひおくよしを申して、まかり候ひぬ。再びかへらざるは言の葉に候。さだめて草のかげにても見候ふらん。何ごとの身の咎も候はで、いかが御所をも出だし、行方も知らずも候ふべき。
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【私訳】後深草院のお返事には、
「承りました。二条のことは、今更伺う必要もありません。二条の母、故・大納言典侍は、その昔、夜も昼も奉公いたしておりましたが、他の人より不憫に思いましたので、どのようにも手厚く報いようと思っておりましたのに、あっけなく亡くなってしまいました。二条はその忘れ形見として、どのようにも面倒を見ていただきたいと申しておりましたので、承知しました。また、父の故大納言(雅忠)が最期に申した子細がありました。君が君としていられるのは臣下の奉公の志によるものであり、臣下が臣でいられるのは主君の恩寵によることです。私は故大納言が臨終に申し置いたことも、快く承知しました。それによって、故大納言は後世の障りなく安心できたと申して、身まかりました。一度発したならば、二度と取り返しのならないのは言葉であります。故大納言はきっと草葉の陰にても見ていることでありましょう。二条には何の咎もありませんのに、どうして御所から追放し、行方知らずのままとするような無責任なことができましょう。
ということで、この後、まだまだ続きます。
次田氏は「故大納言典侍、あかこのほど夜昼奉公し候へば」とされていますが、この部分は、岩波新体系(三角洋一氏)では「故大納言典侍あり、この程、夜昼奉公し候へば」(p61)、小学館新編日本古典文学全集(久保田淳氏)では「故大納言の典侍あり、そのほど夜昼奉公し候へば」(p274)となっていて、読み取り自体が難しいようです。
次田説では意味が通りにくいので、私は主として久保田氏の訳を参照しました。
感想は最後に纏めますが、まあ、実際に後深草院が東二条院に対してこんな言い方をするとは思えず、二条が後深草院の口を借りて言いたい放題言いまくっている感じですね。
母の大宮院と異母妹である前斎宮の対面の場に呼ばれた後深草院は、異母妹の美しさに心を動かされ、二条に仲介させて関係を持ちますが、予想に反してつまらない女だった、ということで一夜限りの関係であっさり終わらせてしまいます。
その後、二条の助言により、再び後深草院と前斎宮が逢うことになりますが、その場面に至る前に、二条の振る舞いに激怒した東二条院が、後深草院がこのまま二条を甘やかすならば私は面目が立たないので出家します、と後深草院を責めるエピソードが出てきます。
『とはずがたり』の時間の流れの中では、文永十一年(1274)に二条が「雪の曙」との間の秘密の子を産んだものの生き別れとなり、ついで前年二月に生まれた後深草院の皇子が死んで、「前後相違の別れ、愛別離苦の悲しみ、ただ身一つにとどまる」と悲観した十七歳の二条が出家したいと思っていたところに、政治的事情による後深草院の出家騒動が重なります。
しかし、幕府の斡旋で煕仁親王の立太子となったため後深草院は出家を中止し、二条もどさくさに紛れて何となく出家を止めるのですが、二人が出家をやめたとたん、今度は東二条院が出家するという出家騒動の三段重ね的な状況になります。
ということで、続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p236以下)
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還御の夕方、女院の御方より御使に中納言殿参らる。何事ぞと聞けば、「二条殿が振舞のやう、心得ぬ事のみ侯ふときに、この御方の御伺侯をとどめて侯へば、殊更もてなされて、三つ衣を着て御車に参り候へば、人のみな女院の御同車と申し候ふなり。これせんなく覚え候。よろづ面目なき事のみ候へば、いとまを賜はりて、伏見などにひきこもりて、出家して候はんと思ひ候」といふ御使なり。
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【私訳】御帰りになった夕方、東二条院からの(後深草院に対する)お使いとして中納言殿が参られた。何事かと聞くと、
「二条殿の振る舞いは、腑に落ちないことばかりですので、こちらの方では出入りを差し止めておりましたのに、御所様には格別にご待遇なさって、三つ衣を着て、御所様の御車に乗ったりするとのことなので、人はみな私が同車しているものと申しているようです。これは本当に不本意なことと存じます。すべて面目ないことばかりですから、私はお暇を頂戴し、伏見あたりに引きこもって、出家しようと思っております」というお使いであった。
ということで、この後、後深草院の返事となります。
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御返事には、
「承り候ひぬ。二条がこと、いまさら承るべきやうも候はず。故大納言典侍、あかこのほど夜昼奉公し候へば、人よりすぐれてふびんに覚え候ひしかば、いかほどもと思ひしに、あへなくうせ候ひし形見には、いかにもと申しおき候ひしに、領掌申しき。故大納言、また最後に申す子細候ひき。君の君たるは臣下の志により、臣下の臣たることは、君の恩によることに候ふ。最後終焉に申しおき候ひしを、快く領掌し候ひき。したがひて、後の世のさはりなく思ひおくよしを申して、まかり候ひぬ。再びかへらざるは言の葉に候。さだめて草のかげにても見候ふらん。何ごとの身の咎も候はで、いかが御所をも出だし、行方も知らずも候ふべき。
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【私訳】後深草院のお返事には、
「承りました。二条のことは、今更伺う必要もありません。二条の母、故・大納言典侍は、その昔、夜も昼も奉公いたしておりましたが、他の人より不憫に思いましたので、どのようにも手厚く報いようと思っておりましたのに、あっけなく亡くなってしまいました。二条はその忘れ形見として、どのようにも面倒を見ていただきたいと申しておりましたので、承知しました。また、父の故大納言(雅忠)が最期に申した子細がありました。君が君としていられるのは臣下の奉公の志によるものであり、臣下が臣でいられるのは主君の恩寵によることです。私は故大納言が臨終に申し置いたことも、快く承知しました。それによって、故大納言は後世の障りなく安心できたと申して、身まかりました。一度発したならば、二度と取り返しのならないのは言葉であります。故大納言はきっと草葉の陰にても見ていることでありましょう。二条には何の咎もありませんのに、どうして御所から追放し、行方知らずのままとするような無責任なことができましょう。
ということで、この後、まだまだ続きます。
次田氏は「故大納言典侍、あかこのほど夜昼奉公し候へば」とされていますが、この部分は、岩波新体系(三角洋一氏)では「故大納言典侍あり、この程、夜昼奉公し候へば」(p61)、小学館新編日本古典文学全集(久保田淳氏)では「故大納言の典侍あり、そのほど夜昼奉公し候へば」(p274)となっていて、読み取り自体が難しいようです。
次田説では意味が通りにくいので、私は主として久保田氏の訳を参照しました。
感想は最後に纏めますが、まあ、実際に後深草院が東二条院に対してこんな言い方をするとは思えず、二条が後深草院の口を借りて言いたい放題言いまくっている感じですね。