学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

フェイスブックの「友達リクエスト」について

2018-03-27 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月27日(火)21時09分56秒

私も一応フェイスブックのアカウントを持っているのですが、どうにも相性が悪い感じがして、かなり前に非公開とし、今は実質的に休眠状態です。
ただ、古い知り合いと連絡を取る必要が生じるかもしれないので、完全閉鎖にはしていません。
先程、「友達リクエスト」というのをもらったのですが、そういう事情ですので、申し訳ありませんがお断りさせていただきます。
何か個人的に連絡の必要等があってのことでしたら、ツイッターでフォローしていただいた後、「メッセージ」でやりとりしたいと思います。
というような返事をフェイスブックで出来ればよいのですが、その方法も分からないので、こちらに書きました。
宜しくお願いいたします。

鈴木小太郎
https://twitter.com/IichiroJingu
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『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その11)

2018-03-27 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月27日(火)17時14分30秒

続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p244以下)
このシリーズはこれで最後となります。

-------
 まことや、前斎宮は、嵯峨野の夢ののちは御訪れもなければ、御心のうちも御心ぐるしく、わが道芝もかれがれならずなど思ふにと、わびしくて、「さても年をさへ隔て給ふべきか」と申したれば、げにとて文あり。
 「いかなるひまにても思し召し立て」など申されたりしを、御養母と聞えし尼御前、やがて聞かれたりけるとて、参りたれば、いつしか、かこちがほなる袖のしがらみせきあへず、「神よりほかの御よすがなくてと思ひしに、よしなき夢の迷ひより、御物思ひの」いしいしと、くどきかけらるるもわづらはしけれども、「ひましあらばの御使にて参りたる」と答ふれば、「これの御ひまは、いつも何の葦分けかあらん」など聞ゆるよしを伝へ申せば、「端山繁山の中を分けんなどならば、さもあやにくなる心いられもあるべきに、越え過ぎたる心地して」と仰せありて、公卿の車を召されて、十二月の月の頃にや、忍びつつ参らせらる。
 道も程遠ければ、ふけ過ぐるほどに御わたり、京極表の御忍び所も、このころは春宮の御方になりぬれば、大柳殿の渡殿へ、御車を寄せて、昼の御座のそばの四間へ入れ参らせ、例の御屏風へだてて御とぎに侍れば、見し世の夢ののち、かき絶えたる御日数の御うらみなども、ことわりに聞えしほどに、明けゆく鐘にねを添へて、まかり出で給ひし後朝の御袖は、よそも露けくぞ見え給ひし。
-------

【私訳】そうそう、前斎宮は、嵯峨野での夢のような一夜の後は院の御訪れもなくて、御心の内もお気の毒で、私が取り持ったのに、あまりに絶え絶えであっては気がかりなので、「このまま年が改まってしまってよろしいのでしょうか」と院に申し上げると、なるほど、とのことでお手紙を書かれた。
「お時間があれば、是非ともいらっしゃい」などとお書きになっておられたのを、御養母という尼御前が姫宮から直ちに聞かれたとのことで、私が参ってみると、早くも愚痴っぽい涙が袖の柵で堰きかねる有様で、「姫宮には、伊勢の神様よりほかの御縁はないものと思っておりましたのに、とんでもないあの夜の夢の迷いから、御物思いが重なって」などとくどくどと愚痴を言われるのも煩わしいけれども、「お暇がおありだったらとの御使いで参ったのです」とお答えすると、「こちらの御都合はいつだって、何の差し障りがありましょうか」とのことだったので、その旨を院にお伝え申し上げると、院は「端山繁山の障りの中をかき分けて行くなどというのなら、物狂おしい焦燥感も生じようが、もはや恋の情熱も醒め果てた感じがして」などとおっしゃりつつ、公卿の車を召されて、十二月のころだったか、こっそりと斎宮へ迎えを差し上げた。
 斎宮御所からの道のりも遠いので、かなり夜の更けた時分に御渡りになり、京極通りに面したお忍びの場所も、このころは春宮の御所となっていたので、大柳殿の渡殿へ御車を寄せて、昼の御座のそばの四間にお通しし、いつものように御屏風を隔てて宿直(とのい)に侍っていると、夢のような一夜の後、御訪れもすっかり途絶えてしまった日数の御恨みを申し上げるのも、もっともなことと思われるうちに、夜明けの鐘に泣く音(ね)を添えて、御退出なさった後朝のお袖は、傍目からも涙に湿っているようにお見えになりました。

ということで、これで後深草院と前斎宮に関するエピソードは全て終了です。
この長大なエピソードを簡潔にまとめて『増鏡』と対比するのは簡単な作業ですが、あえて長々と引用してきたのは、これほど歴史的重要性のない話を何故に『増鏡』作者が鎌倉時代をトータルに描いた歴史物語に載せたいと思ったのかを、当掲示板の読者にも考えていただきたいからです。
これは小川剛生氏のように、後深草院二条と縁のない丹波忠守や二条良基を『増鏡』の作者・監修者とする研究者にとってはけっこうな難問だと思いますが、私のように『増鏡』と『とはずがたり』の作者を同一人物と考える立場からも、簡単に答えが出る話ではありません。


>筆綾丸さん
>本郷恵子氏
最近、『中世公家政権の研究』(東京大学出版会、1998)を読み直してみたのですが、実に良い本ですね。
本郷恵子氏は非常に緻密な議論をされる方ですが、その本郷氏が何故に『とはずがたり』については一昔前の国文学者並みの感想しか書けないのか。
本郷氏のようなタイプの歴史研究者だったら、国文学者の作る『とはずがたり』関係年表を見ただけで様々な疑問を抱くのが当然のように私には思えるのですが。

本郷恵子教授の退屈な『とはずがたり』論
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c95d41a4c64ccd0941a2948b8151b3b0
「コラム4 『とはずがたり』の世界」(by 本郷恵子氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5673c62698f60bf0423ed3ca9d42503

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

傍例 2018/03/27(火) 14:11:20
小太郎さん
新書版には『文藝春秋』への言及は一切ないので、これが初出だと思って読んでました。

ご指摘のとおり、通りの名前は難しいようですが、本郷氏が根拠を示してくれれば、ありがたいですね。
後深草院二条がなぜ二条で、一条や三条ではないのか、と昔から疑問に思っていました。
『源氏物語』では、光源氏は準太上天皇として「六条院」と呼ばれ優雅な生活をしているので、「六条」の価値が低いとは思えないですね。ただ、晩年は、正妻女三宮と柏木の密通により、「六条院」として「没落」してゆくので、「六条」には貶下的な含意があるのだ、という穿った解釈も成り立つかもしれませんが。

蛇足
本郷和人氏の一般向けの書には、必ずと言っていいほど、本郷恵子氏の名が出て来て、一読者としてはうんざりしていたのですが、『壬申の乱と関ケ原の戦い』にはそれがなく、やっと女房離れができたのか、御同慶の至り、と思っていたところ、『日本史のツボ』は従来通りで、やれやれ、相変わらずだな、とがっかりしました。
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『女房官品』

2018-03-27 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月27日(火)13時06分6秒

>筆綾丸さん
>『日本史のツボ』
本郷氏が『文藝春秋』に連載していたものを纏めた本でしょうか。
連載の方はときどき読んでいたのですが。

>>平安時代の女官で二条、八条といった通りの名前がついている人は身分が高い。

ちょうど「悪妻・東二条院の誹謗中傷に対する後深草院の弁明」という設定の二条の自由作文を検討していたところなので、ご引用の部分、興味を惹かれました。
久保田淳氏は、「祖父が子にて参り候ひぬるうへは、小路名を付くべきにあらず候ふ」の「小路名」について、

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京都の小路の名にちなむ女官の呼び名。二条・春日・大宮・高倉などの類。『女房官品』には「小路の名の事。一条・二条・三条・近衛・春日、此等は上の名なり。大宮・京極、此等は中なり。高倉・四条などは小路のうちにも劣りたるなり」という。
-------

と書かれていますが(『新編日本古典文学全集47 建礼門院右京大夫集・とはずがたり』、小学館、1999、p276)、四条が劣るというのは『十六夜日記』の作者、安嘉門院四条にとってはなかなか厳しい指摘ですね。
仮に四条以下が全部劣るものだとすれば本郷氏の見解に抵触しますし、また、天皇の名前に六条院・四条院、女院の名前に八条院・七条院といった四条以下のものがあることとのバランスも気になります。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

続・閑話 2018/03/27(火) 12:04:06
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166611539
本郷和人氏『日本史のツボ』を読みました。
僭越ながら円熟の域に達した文体と内容で、これは皮肉でも何でもないのですが、司馬遼太郎の晩年の作品を読んでいるような印象を受けました。
いくつか、細かいことを書いてみます。

「一一九二年、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた時点では・・・」(27頁)ですが、この直後に、「権門体制論」に拠らない著者の見解が示されているので、著者の従来の説である「一一八〇年」にしないと、前後の論理が合わなくなります。「一一九二年」の幕府開設では、「権門体制論」になってしまうと思います。

https://kotobank.jp/word/%E7%A6%81%E4%B8%AD%E5%B9%B6%E5%85%AC%E5%AE%B6%E4%B8%AD%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6-1525613
「江戸時代に入ると、禁中並公家諸法度によって・・・」(36頁)について、橋本政宣氏『近世公家社会の研究』(2002・吉川弘文館)を読んでからは、「禁中並公家中諸法度」の方が正しいのではないか、と思いますが、中中、難しいですね。

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・・・時頼の精神的な師匠ともいうべき人物に、大叔父の極楽寺重時(北条重時)がいます。執権に次ぐ連署というポジションで鎌倉幕府を支えた重時は、熱心な浄土宗信者でした。そして重時、時頼の師だったのが、法然の正統的な孫弟子の信瑞。(58頁)
 ぼくの本職は『大日本史料』、そのうちの第五編という史料集を編纂すること。そのためには来る日も来る日も建長年間(一二四九~一二五六)の史料を読んでいる。だから、建長年間のことであれば、日本で一番詳しい自信は、偉そうですけれど、あります。(221頁)
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信瑞の名は、森幸夫氏『北条重時』や高橋慎一朗氏『北条時頼』にはないと記憶していますが(後で確認してみます)、信瑞が重時と時頼の師であったことを示す史料は何なのか、わかりません。自分で勉強しろと言われれば、それまでですが。

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・・・平安時代の女官で二条、八条といった通りの名前がついている人は身分が高い。また紫式部が仕えていた中宮彰子のように「子」がつくのも相当に身分が高い。(177頁)
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後者の理由はわかるのですが、前者の根拠は何なのでしょうか。

蛇足
最近の藤井君の将棋をずっと見てきましたが、現在、将棋界最強の棋士は文句なく藤井君で、しかも群を抜いています。順位戦最終の三枚堂君との対局などは猫が鼠をいたぶっているような感じで、怪物くん(糸谷)との対局も、バッサリ切って捨ててましたね。藤井君はもうずっと負けないのではないか、という印象すら受けます。詰将棋解答選手権も想像を絶するものがあり、こんな頭脳、いままで見たことがありませんね。
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『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その10)

2018-03-27 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月27日(火)12時25分45秒

続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p236以下)

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 また三つ衣を着候ふこと、いま始めたることならず候。四歳の年、初参のをり、『わが身位あさく候。祖父、久我の太政大臣が子にて参らせ候はん』と申して、五つ緒の車数、衵〔あこめ〕・二重織物許〔ゆ〕り候ひぬ。そのほかまた、大納言の典侍は、北山の入道太政大臣の猶子とて候ひしかば、ついでこれも、准后御猶子の儀にて、袴を着そめ候ひしをり、腰を結はせられ候ひしとき、いづ方につけても、薄衣白き袴などは許すべしといふこと、ふり候ひぬ。車寄などまで許り候ひて、年月になり候ふが、今更かやうに承り侯ふ、心得ず候。
 いふかひなき北面の下臈ふぜいの者などに、ひとつなる振舞などばし候ふ、などいふ事の候ふやらん。さやうにも候はば、こまかに承り候ひて、はからひ沙汰し候ふべく候ふ。さりといふとも、御所を出だし、行方知らずなどは候ふまじければ、女官ふぜいにても、召し使ひ候はんずるに候。
-------

【私訳】また、二条が三つ衣を着ましたことは、最近始めたことではありません。四歳の年、初めて御所に参ったときに、故大納言(雅忠)が、「私の位は浅いので、祖父、久我の太政大臣(通光)の子という扱いで参らせたいと存じます」と申したので、五つ緒の車数・衵・二重織物が許されました。その他に、大納言典侍は北山の入道太政大臣(西園寺公経)の猶子として伺候しており、それに次いで二条も(公経室の)准后の御猶子のということで、袴着の際には准后が腰をお結いになられましたが、その時、どこに出仕するにしても、薄衣や白い袴などは許そうということになってから、もうずいぶん時を経ております。車寄などまで許してから年月が経っており、今更このように承りますことは納得できません。
 言うに足りない北面の下臈のような者などと同様の振る舞いなどをした、といったことがあったのでしょうか。それならば、詳しく承って、相応の処置をいたしましょう。だからといって、御所を追放し、行方もわからないような有様にすることはできませんから、その時は女官風情にでもして召し使おうと思います。

-------
 大納言、二条といふ名をつきて候ひしを、返し参らせ候ひしことは、世隠れなく候ふ。されば、呼ぶ人々さは呼ばせ候はず。『われ位あさく候ふゆゑに、祖父が子にて参り候ひぬるうへは、小路名を付くべきにあらず候ふ』『詮じ候ふところ、ただしばしは、あかこにて候へかし。何さまにも大臣は定まれる位に候へば、そのをり一度に付侯はん』と申し侯ひき。
 太政大臣の女〔むすめ〕にて、薄衣は定まれることに候ふうへ、家々めんめんに、我も我もと申し候へども、花山・閑院ともに淡海公の末より、次々また申すに及ばず候。久我は村上の前帝の御子、冷泉・円融の御弟、第七皇子具平親王より以来、 家久しからず。されば今までも、かの家女子〔をんなご〕は宮仕ひなどは望まぬ事にて候ふを、母奉公のものなりとて、その形見になどねんごろに申して、幼少の昔より召しおきて侍るなり。さだめてそのやうは御心得候ふらんとこそ覚え候ふに、今更なる仰せ言、存の外に候。御出家の事は、宿善内にもよほし、時至ることに候へば、何とよそよりはからひ申すによるまじきことに候」
とばかり、御返事に申さる。そののちは、いとどこと悪しきやうなるもむつかしながら、ただ御一ところの御志、なほざりならずさに慰めてぞ侍る。
-------

【私訳】故大納言は、二条という名がつきましたのを返上いたしましたことは、世に隠れないことです。ですから、そう呼ぶ人があっても、呼ばせません。「私の地位は浅いものの、祖父の子として参りましたからには、小路名をつけるべきではありません」「つまるところ、ただ暫くは、『あかこ』という名でけっこうです。何ぶんにも、私が大臣となるのは定まっていることですから、大臣になった折に改めて名をつけましょう」と申しておりました。
 太政大臣の娘として、薄衣を着ることは決っていることである上、家々の方々はそれぞれに、我も我もと誇りをもって申しておりますが、花山院・閑院はともに淡海公(藤原不比等)の御子孫として連綿と続いている家柄であることは申すまでもありません。それに比べると、久我は村上帝の御子、冷泉・円融院の御弟、第七皇子具平親王以来、皇族を離れてまだそれほど時を経ていない家です。ですから今までも、久我家の女子は宮仕えなどは希望しないことですのに、母が奉公の者だったということで、その形見としてこちらから懇切に依頼して、二条を幼少のころから召し置いているのです。きっとその事情はご理解していだだいているものと思っておりましたのに、今更な仰せ言は意外なことです。御出家のことは、前世での善根が内にきざし、その時期が至ってすることでございますから、何と他人から取り計らい申すによることではありません」
とばかりお返事に申し上げられた。その後、いよいよ何事も具合が悪いようで、煩わしいながらも、ただ院お一人の御志が並々ではないことを慰めにしてお仕えしていた。

ということで、まあ、ここまで一方的に二条に加担し、東二条院への配慮を欠いた手紙を出したら、東二条院は売り言葉に買い言葉で出家し、後深草院と西園寺家の関係が悪化して、非常に難しい事態になったでしょうね。
『とはずがたり』や『増鏡』を離れて、『公衡公記』などの当時の信頼性の高い記録だけを見れば、後深草院は非常に慎重な性格で、こうした対応を取るような人物にはとても思えません。
この場面に関し、久保田淳氏は、

-------
 東二条院の抗議に対する院の返事は、このころの院の作者への愛情が並々ならぬものがあったことを物語る。記憶による叙述とは考えにくいが、草稿などを見せられて、写しておいたものを、ここで院の愛情の証として引くか。
-------

と言われていますが(小学館新編日本古典文学全集、p277)、確かに「記憶による叙述とは考えにくい」ほど詳細です。
しかし、それは「草稿などを見せられて、写しておいたもの」ではなく、『とはずがたり』執筆の時点で、誰に束縛されることもなく、言いたい放題に書きまくったからこそ、ここまで詳しいのでしょうね。
また次田香澄氏は、

-------
 院の返事は、作者が読まされたのを控えておいたものか、委曲を尽くしている。これを通して、久我家の出自・家柄、母と院との関係、宮廷における作者の地位や境遇、二条と命名された事情、亡父と院との約束など、女房としての作者に関することがすべて出てくる。
 作者は院の言葉を利用して、自分からは直接書けない自賛にかかわる事柄を、ここにまとめて書いたことになる。
 女院の短い詞には含まれていない作者の行跡について、院がそれを忖度して述べているのが興味あることである。最後に女院の出家云々に対し、冷たく突っぱねたのを見て、作者も自信を持ったであろう。【後略】
-------

と言われていますが(p243以下)、「作者は院の言葉を利用して、自分からは直接書けない自賛にかかわる事柄を、ここにまとめて書いたことになる」と核心を突く指摘をされていながら、なぜそれが「院の返事は、作者が読まされたのを控えておいたものか」と結びつくのか、非常に不思議です。
『とはずがたり』の世界の虜となってしまった次田氏には、本当に後深草院が「女院の出家云々に対し、冷たく突っぱねた」ならば、後深草院と西園寺家の関係が悪化することを想像すらできないようです。
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