学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「明王徳」

2018-03-13 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月13日(火)22時26分31秒

先に早歌を検討した際、金沢貞顕作詞の「袖余波」は紹介済みですが、貞顕はもうひとつ、「明王徳」という曲も作詞しているので、貞顕の教養の形成過程を知るための参考資料として、これも紹介しておきます。
「究百集」の「明王徳」は、「撰要目録」の諸本では「自或所被出之 明空調曲」とされていますが、早大本だけ「越州左親衛作」となっています。
引用は外村久江・外村南都子校注『早歌全詞集』(三弥井書店、1993)からです。(p176以下)

「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a3e5fd3f9025de85df9bca99a9db52bb
「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「袖余波」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5c6f654a75b33f788999dc447bda1e48

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明王徳

唐堯〔たうげう〕は徳をもて国を治む 虞舜は孝をもて世に聞ゆ 王道〔わうたう〕共に私〔わたくし〕なく
臣是〔これ〕に随ふ 或〔あるい〕は水を納〔をさめ〕て 九年の愁〔うれへ〕を息〔やす〕めしむ 或は位
〔くらゐ〕を賢に譲て 親疎の道を隔てず 凡〔およそ〕君たる徳は又 遠きもなく近〔ちかき〕もなく
普〔あまね〕き恵〔めぐみ〕をほどこす 国に民絶ざれば 上に行〔おこなふ〕力なく 民を仕〔つかふ〕に
時あり 農業の暇〔いとま〕を授くとか 日に瑩〔みがき〕風に瑩〔みがき〕 玉の枝より開初〔さきそめ〕て
匂〔にほひ〕ものどけき御代〔みよ〕なれば 文章の花も盛〔さかん〕なり よしあし原の旧〔ふり〕にし跡に
又立帰〔たちかへ〕るまつりごと 天地〔あめつち〕の神の代は <あの>直〔すなほ〕なれどもわきがたく
百王〔はくわう〕の下〔くだ〕れるいま 淳素の宣旨をたがへず 雨露〔うろ〕の恩また深ければ 草木〔さうもく〕
も色をあらためず 君に心は筑波ねの 陰より茂き恵〔めぐみ〕の 恨〔うらみ〕をふくめる人ぞなき 上〔かみ〕
の明かなるは是〔これ〕 日月〔じつげつ〕の照〔てらす〕に異ならず 下〔しも〕に愁〔うれへ〕なきは又
仁愛あまねき故とかや さればや四海事なくして 関の戸とづる時もなし 其〔その〕政理〔せいり〕まさに
直〔なほ〕ければ 寒暑も節〔をり〕を誤〔あやまた〕ず 周文〔しうぶん〕いまだまみえずして 虞芮〔ぐぜい〕
の訴〔うつたへ〕をしづめき 殷帝〔いんてい〕賢〔けん〕を求〔もとめ〕しかば 傅説〔ふえつ〕を夢にえたりな
 明王の用し人の鏡 いにしへ今にくもらず 像〔かたち〕を鑑〔かがみ〕し百練〔はくれん〕は 箱の底にぞ
朽〔くち〕にける 草創と守文〔しうぶん〕と 何〔いずれ〕もかたきに似たれど 両忠〔りやうちう〕心を
一〔ひとつ〕にして 終〔をはり〕を守〔まぼる〕にしくはなし 身の正〔ただし〕きに順影〔したがふかげ〕
 君臣の通〔とう〕ずるなるべし 魏徴〔ぎちよう〕を子夜〔しや〕に見し夢 張謹〔ちやうきん〕を辰日
〔しんじつ〕に悲む <あの>三足〔さんそく〕の思惟〔しゆい〕は 智恵の実〔まこと〕を顕〔あらは〕す 五復奏
〔ごふくそう〕の御事法〔みことのり〕 刑罰の依違〔いゐ〕を慎む 驪宮〔りきう〕の玉の甃〔いしだたみ〕
嫋々〔でうでう〕たる秋風に 宮樹〔きうじゆ〕の梢の蝉 垣根にしげる苔の色 瓦の松も徒〔いたづら〕に
御幸〔みゆき〕にしられでとし旧〔ふり〕ぬ 四皓〔しかう〕は漢恵〔かんけい〕に仕〔つかへ〕て 国の位を譲しむ
周公は成王に代〔かはり〕て 世の政〔まつりごと〕に徳おほし 我朝〔わがてう〕の聖代〔せいたい〕は 寒夜に
民を哀み 善政さかりに行〔おこなは〕れ 万州〔ばんしう〕に道をさかへしむ さて又大和ことの葉の 情〔なさけ〕
を捨〔すて〕ぬ名を留〔とめ〕て あはれむかしべならの葉の 旧〔ふり〕にし事を拾〔ひろひ〕をき 延喜は古今
〔こきん〕に集〔あつめ〕て かかる賢きためしの 誉〔ほまれ〕を和漢におよぼす
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『早歌全詞集』には漢籍を引用した多数の注がありますが、煩瑣になるので省略します。
越州左親衛作のもう一つの曲「袖余波」と比べると、いかにも将来を嘱望された名門武家の貴公子に相応しい曲ではありますが、あまり面白いものでもないですね。
まあ、若き貞顕が大変な勉強家であったことは確かです。
「袖余波」の方は「明空成取捨調曲」となっていて、この意味については少し検討しましたが、「明王徳」は明空は作曲だけで、詞には手を入れていません。
貞顕はこれだけ立派な詞がかけるのですから、「袖余波」も明空は歌いやすいように若干の改変をした程度のような感じがします。

『とはずがたり』と『増鏡』に登場する金沢貞顕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/26c6e1bde1b9e0a358f5eb0d5e4e7e3d

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『増鏡』に描かれた『続後拾遺集』の撰集過程

2018-03-13 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月13日(火)11時24分44秒

『続後拾遺集』について森茂暁氏が書かれているのは「陰謀論」そのものですが、森氏のように鎌倉期の公家社会研究を先導されてきた方がこんな風になってしまうのは何故なのか、非常に不思議です。
森氏は『とはずがたり』についても珍妙なことを書かれていますね。

『とはずがたり』の「証言内容はすこぶる信頼性が高い」(by 森茂暁)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2b59444914a0703c0d05ca3e4cb2b225
「赤裸々に告白した異色の日記」を信じる歴史学者
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fa66061f66ed71ab9b43beec1ff4c7ed

さて、ついでなので『続後拾遺集』に関する『増鏡』の記事を紹介しておきます。
他の勅撰集と比べると、『増鏡』における『続後拾遺集』の扱いは妙に詳しいですね。
その描写は二回に分かれていて、まず最初に、「巻十四 春の別れ」の後宇多院崩御の場面の後に、

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 あはれあはれといひつつも、過ぎやすき月日のみ移り変りて年も返りぬ。一昨年ばかりより、又かさねて撰集のこと仰せられしを、為世の大納言二〔ふた〕たびになりぬればにや、為藤の中納言に譲りしを、いく程無くかの中納言悩みて失せぬ。いといとほしうあはれなり。
 故為道朝臣の失せにし、ただ年月ふれど、絶えぬ恨みなるに、又かくとり重ねたる嘆き、大納言の心の中いはんかたなし。春宮より、しばしばとぶらはせ給ふ御消息のついでに、
  おくれゐる鶴の心もいかばかり先だつ和歌のうらみなるらん
御返し、大納言為世、
  思へただ和歌のうらにはおくれゐて老いたる鶴〔たづ〕の嘆く心を
世に歌よむと覚しき人の、あはれがり、嘆かぬはなし。「せめて勅撰の事、撰び果つるまで、などかは」とぞ、一族〔ひとぞう〕の歎き、いとほしげなり。
 故為道の中将の二郎為定といふを、故中納言とりわき子にして、何事もいひつけしかば、撰歌のこともうけつぎて、沙汰すべし、などぞ聞ゆる。大納言は末の子為冬少将といふをいたくらうたがりて、このまぎれにひきや越さまし、と思へる気色〔けしき〕ありとて、為定も恨み嘆きて、山伏姿にいでたちて、修行に失せぬなどいひ沙汰すれば、人々いとほしうあはれになどもてあつかへど、さすが求め出して、もとのやうにおだしく定まりぬとなん。
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とあります。(井上宗雄『増鏡(下)全訳注』、p129以下)
二条為世(1250-1338)は後宇多院の命を受けて既に『新後撰集』(嘉元元年<1303>成立)と『続千載集』(元応二年<1320>成立)の二集を撰進しており、後醍醐が即位してからは「かさねて」、即ち二度目の受命となったようですが、都合三度目はさすがに多すぎると思ったのか、それを息子の為藤に譲ります。
ところが為藤(1275-1324)が受命の翌年、元亨四年(正中元年)七月に死んでしまいます。
為藤は正安元年に亡くなった為世の長男・為道(1271-99)の二男・為定(1293-1560)を養子にしていて、為定が撰集も受け継ぐことになるだろうという評判だったのに、為世は晩年の子の為冬(?-1335)を鍾愛し、撰集を為冬に任せたいと思っている様子で、それに憤った為定が山伏姿になって出奔してしまったが、結局は人々が探し求めて元のように撰者にした、のだそうです。
山伏姿で修行に出たなど、話が面白すぎるので、どこまで本当なのかは分かりませんが、『増鏡』作者は二条家の内情にずいぶん詳しいですね。
ただ、二条家の門人であったらこのような露骨な書き方が出来るかは疑問で、この点でも小川剛生氏の丹波忠守執筆(二条良基監修)説には疑問が生じます。
ま、それはともかく、以上の記述の後、正中の変と東宮邦良親王(1300-26)薨去についての長い記事を挟んで、再び『続後拾遺集』の話となります。(井上宗雄『増鏡(下)全訳注』、p152以下)

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 まことや、例の先に聞ゆべき事を、時たがへ侍りにけり。兵衛督為定、故中納言のあとをうけて撰びつる撰集の事、正中二年十二月の頃、まづ四季を奏する由聞えし残り、この程世に広まれる、いとおもしろし。御門、ことの外にめでさせ給ひて、続後拾遺とぞいふなる。中宮大夫師賢承りて、このたびの集のいみじき由、さまざま仰せ遣したるに御返しに、為定、
  今ぞ知る集むる玉の数々に身を照らすべき光ありとも
御返し、内の御製
  数々に集むる玉のくもらねばこれもわが世の光とぞなる
 この大夫はもとより仲よきどちにて、常に消息など遣すに、かく世にほめらるるを、いとよしと思ひて、兵衛督のもとへいひやる。
  和歌の浦の波も昔に帰りぬと人よりさきに聞くぞ嬉しき
返し、
  和歌の浦や昔に返る波ぞとも通ふ心にまづぞ聞くらん
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「そうそう、例によって、前にお話しすべきことを、年代順を間違えてしまいました」という言い訳の後、正中二年(1325)十二月に四季部の奏上があり、翌年の完成後、後醍醐が花山院師賢(1301-32)を通じて賞賛の言葉を為定にかけ、為定・後醍醐と師賢・為定間で歌の贈答があったことが記されます。
花山院師賢もそれなりの歌人ですね。

花山院師賢(1301-32)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%B8%AB%E8%B3%A2

以上で『続後拾遺集』そのものについての記述は終わりますが、為定の名前が出たところで、更に若干の続きがあります。

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 この為定のはらから、中宮に宣旨にてさぶらふも、上〔うへ〕、例の時めかし給ひて、若宮出で物し給へり。その宮の御めのと、師賢大納言承りて、いみじうかしづき奉らる。また宮の内侍の御腹にも、すぎすぎいとあまたおはします。一の御子は藤大納言の御腹、吉田の大納言定房の家に渡らせ給ふ。二の御子もいときらきらしうて、源大納言親房の御あづかりなり。
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この為定の妹で、中宮に宣旨と称して仕えていた者も、天皇は例のように寵愛されて、若宮(法仁法親王)がお生まれになった。その若宮の乳父に師賢大納言がなって、大切に養育申し上げた。また、中宮内侍(阿野廉子)の腹にも次々に沢山皇子が生まれた。第一皇子(尊良親王)は藤大納言為子の御腹で、吉田の大納言定房の家にいらっしゃる。第二皇子(世良親王)も容姿が非常に立派で、源大納言親房がお育て申し上げている。

ということで、後醍醐の子沢山の話になります。
吉田定房室は四条隆顕(顕空上人)の娘であり、北畠親房(1293-1354)は『とはずがたり』の最終部分、跋文の直前の場面で後深草院二条に手紙を送ってくる「万里の小路の大納言師重」こと北畠師重(1270-1322)の息子ですから、後深草院二条が『増鏡』の作者であれば尊良親王・世良親王関係の情報も入手は容易ですね。

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