学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「巻九 草枕」(その9)─前斎宮と後深草院(第三日)

2018-03-29 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月29日(木)22時08分31秒

続きです。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p217以下)

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 さて御方々、御台など参りて、昼つかた、又御対面どもあり。宮はいと恥しうわりなく思されて、「いかで見え奉らんとすらん」と思しやすらへど、女院などの御気色のいとなつかしきに、聞えかへさひ給ふべきやうもなければ、ただおほどかにておはす。けふは院の御けいめいにて、善勝寺の大納言隆顕、檜破子やうの物、色々にいときよらに調じて参らせたり。三めぐりばかりは各別に参る。
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【私訳】さて、(後深草院・大宮院・前斎宮の)御方々はお食事などを召しあがって、昼ごろまた御対面などがある。斎宮はとても恥かしくつらいことに思われて、「どうして院に対面申せましょう」とためらわれたが、大宮院などの御気持がとてもお優しいので、お断りし続けることもできないので、ただおっとりした態度でいらっしゃった。今日は院のおもてなしで、善勝寺大納言隆顕が、檜破子のような物を、色々とたいそう見事に調進した。お酒は三献ほどは各自めいめい召しあがった。

ということで、『とはずがたり』では後深草院は「日高くなるまで御殿ごもりて、昼といふばかりになりて、おどろかせおはしまして」とうことで、すっかり寝過してしまい、四条隆顕に準備させた宴会は「夕がたになりて」やっと始まるのですが、『増鏡』では「昼つかた」から始まります。
また、細かいことですが、『とはずがたり』では「三献までは御から盃」、即ち形式だけの空杯ですが、『増鏡』では「三めぐりばかりは各別に参る」となっています。

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b7906f955c00e7d249c9992755d6843d

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 そののち「あまりあいなう侍れば、かたじけなけれど、昔ざまに思しなずらへ、許させ給ひてんや」と、御けしきとり給へば、女院の御かはらけを斎宮参る。その後、院聞こしめす。御几帳ばかりを隔てて長押の下へ、西園寺の大納言実兼、善勝寺の大納言隆顕召さる。簀子に、長輔・為方・兼行などさぶらふ。あまたたび流れ下りて、人々そぼれがちなり。
 「故院の御ことの後は、かやうの事もかきたえて侍りつるに、今宵は珍しくなん。心とけてあそばせ給へ」など、うち乱れ聞こえ給へば、女房召して御箏どもかき合はせらる。院の御前に御琵琶、西園寺もひき給ふ。兼行篳篥、神楽うたひなどして、ことごとしからぬしもおもしろし。
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【私訳】その後、院が「このままではあまり興がございませんので、恐れ多いことですが、昔と同様にわけ隔てなくお考えいただいて、お杯をいただけませんでしょうか」と大宮院の御様子を伺われると、大宮院のお杯を斎宮がいただく。その後で院が召しあがる。御几帳だけを隔てて、長押の下に西園寺大納言実兼、善勝寺大納言隆顕を召される。簀子に(持明院)長輔・(中御門)為方・(楊梅)兼行などが伺候する。何度も杯が下座へ流れて、人々は酔って戯れがちである。
 院が「故後嵯峨院が御隠れになった後は、こういうこともまったく絶えていましたのに、今宵は珍しいことです。くつろいで一曲お奏でください」など酔い心地で申しあげなさると、大宮院は女房を召して御箏などを合奏される。院は御琵琶、西園寺実兼もお弾きになる。兼行は篳篥で神楽をうたいなどして、大げさな催しでないのも趣がある。

ということで、『とはずがたり』では大宮院が「あまりに念なく侍るに」と酒を勧めるのに対し、『増鏡』では後深草院が「あまりあいなう侍れば・・・」と酒を要望する形になっています。
また、『とはずがたり』では大宮院が「故院の御事ののちは、珍らしき御遊びなどもなかりつるに、今宵なん御心おちて御遊びあれ」と管弦の遊びを勧めるのに対し、『増鏡』では後深草院が「故院の御ことの後は、かやうの事もかきたえて侍りつるに、今宵は珍しくなん。心とけてあそばせ給へ」と大宮院に要望する形になっています。

まだ宴会の途中ですが、いったんここで切ります。
なお、上記部分の井上宗雄氏による現代語訳はリンク先にあります。

『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fd7cde400fd771b8419e4f6d945796a9

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「巻九 草枕」(その8)─前斎宮と後深草院(第二日の夜)

2018-03-29 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月29日(木)12時30分38秒

続きです。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p209以下)

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 院も我が御方にかへりて、うちやすませ給へれど、まどろまれ給はず。有りつる御面影、心にかかりて覚え給ふぞいとわりなき。「さしはへて聞こえんも、人聞きよろしかるまじ。いかがはせん」と思し乱る。御はらからと言へど、年月よそにて生ひ立ち給へれば、うとうとしくならひ給へるままに、慎ましき御思ひも薄くやありけん、猶ひたぶるにいぶせくてやみなんは、あかず口惜しと思す。けしからぬ御本性なりや。
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【私訳】後深草院も御自分の部屋に帰って横になられたが、まどろまれることもできない。先程の斎宮の御面影が心の中にちらついて、忘れられないのは何としても、いたし方ないことだ。「わざわざ自分の思いを述べた手紙をさし上げるのも人聞きがよくなかろう。どうしようか」と思い乱れておられる。斎宮とは御兄妹とは申しても、長い年月、互いに離れてお育ちになったので、すっかり疎遠になってしまわれておられるので、(妹に恋するのはよくないことだ、という)慎まれるお気持も薄かったのであろうか、ただひたすらに思いもかなわず終ってしまうのは残念に思われる。けしからぬ御性格であることよ。

ということで、『とはずがたり』の「いかがすべき、いかがすべき」が「いかがはせん」になるなど、『とはずがたり』の露骨な描写が『増鏡』では若干優雅な表現に変わっています。
「御はらからと言へど、年月よそにて生ひ立ち給へれば、うとうとしくならひ給へるままに、慎ましき御思ひも薄くやありけん」は『とはずがたり』にはない『増鏡』の独自情報ですね。
また、「けしからぬ御本性なりや」は『増鏡』の語り手である老尼の感想です。

『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6dd0180907906ee5c8b394b59efaa374

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 なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人、彼の斎宮にも、さるべきゆかりありて睦しく参りなるるを、召し寄せて、「馴れ馴れしきまでは思ひよらず。ただ少しけ近き程にて、思ふ心の片端を聞こえん。かく折良き事もいと難かるべし」とせちにまめだちてのたまへば、いかがたばかりけん、夢うつつともなく近づき聞こえさせ給へれば、いと心うしと思せど、あえかに消えまどひなどはし給はず。らうたくなよなよとして、あはれなる御けはひなり。鳥もしばしば驚かすに、心あわたたしう、さすがに人の御名のいとほしければ、夜深くまぎれ出で給ひぬ。
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【私訳】某大納言の娘で御身近に召し使う女房が、斎宮にも然るべき縁があって親しく参り慣れていたが、その者を召し寄せて、「斎宮に対して慣れ慣れしく、深い仲になろうとまでは思ってもいない。ただ少し近い所で、私の心の一端を申し上げようと思う。こういう良い機会も容易に得がたいであろう」と熱心に、真面目におっしゃるので、その女房はどのようにうまく取りはからったのであろうか、院は闇の中を夢ともうつつともなく(斎宮に)のおそばに近づかれたところが、斎宮はまことにつらいことと思われたが、弱々しく今にも死にそうに、あわてまどうということはなさらない。可愛らしくなよなよとして、可憐な御様子である。そのうちに、明け方の近いことを知らせる鳥の声も、しきりに聞こえてくるので、心もそわそわとして落ち着かず、名残は惜しまれるものの、やはり斎宮のお名前が評判になってはお気の毒なので、夜深い中を忍んでお出ましになった。

ということで、「なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人、彼の斎宮にも、さるべきゆかりありて睦しく参りなるる」はもちろん後深草院二条のことですね。
このあたりも『とはずがたり』の露骨な描写をかなり和らげ、分量的にも相当圧縮した表現になっています。
後深草院が前斎宮に贈った「知られじな今しも見つる面影のやがて心にかかりけりとは」という歌も省略されています。

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9cfee7d955c2354539d56ed62708a87e

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 日たくる程に、大殿籠り起きて、御文奉り給ふ。うはべはただ大方なるやうにて、「ならはぬ御旅寝もいかに」などやうに、すくよかに見せて、中に小さく、
  夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる
「いとつれなき御けしきの聞こえん方なさに」ぞなどあめる。悩ましとて御覧じも入れず。強ひて聞こえんもうたてあれば、「なだらかにもてかくしてを、わたらせ給へ」など聞えしらすべし。
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【私訳】日が高くなったころ、後深草院はやっとお目覚めになって、お手紙をさし上げる。表面はただ普通の手紙のように「お慣れにならない御旅寝はいかがでしたか」などと真面目に見せて、中に小さい字で、
  夢とだに……(夢でお会いしたほどにもはっきりしなかった昨夜の
  仮寝の床のはかなさを思うにつけて、恋しさで涙にくれています)
「まことによそよそしい御様子で、なんとも申しあげようもございません」と書かれたようである。斎宮は気分が悪いといって御覧にもならない。無理になにやかやと申しあげるのも心もとないことなので、院は「何でもなかったふうに、平気をよそおっておいでなさい」など申し上げられるようだ。

ということで、『とはずがたり』では寝坊した後深草院が手紙を贈ったとはありますが、その具体的内容についての説明はなく、「夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる」という歌もありません。
ここは『増鏡』の独自情報ですね。
また、『とはずがたり』では、「御返事にはただ、『夢の面影はさむる方なく』などばかりにてありけるとかや」ということで、斎宮が一応は返事を出したことになっていますが、『増鏡』ではそうした記述はありません。

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9e64eccdd3502800f9d9dbcf3f13e24d

「夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる」は巻九のタイトルにもなっている重要な歌ですが、これが『とはずがたり』に存在せず、『増鏡』だけに登場するというのも、ちょっと面白い点です。
『増鏡』作者を二条良基とする通説、また小川剛生氏のように丹波忠守作・二条良基監修説の立場の人は、こうした『増鏡』の独自情報をどのように説明するのでしょうか。
『とはずがたり』以外に別の史料があった、というのがひとつの答えでしょうが、前斎宮と後深草院の密通といった関係者が極めて乏しい出来事について、『とはずがたり』以外の史料がたくさんあったとも思えません。

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「巻九 草枕」(その7)─前斎宮と後深草院(第二日)

2018-03-29 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月29日(木)11時08分1秒

昨日の投稿で書き忘れてしまいましたが、前斎宮と後深草院の場面は『とはずがたり』では巻一の最後に出てきて、巻二との関係から嵯峨殿での出来事は文永十一年(1274)の「十一月〔しもつき〕の十日あまりにや」に起きたものとされています。
他方、『増鏡』では煕仁親王立太子の記事の直後に置かれていて、史実では建治元年(1275)十一月五日の出来事である煕仁親王立太子が『増鏡』では何故か「十月五日」となっているのですが、それに続く前斎宮の記事も十一月ではなく「十月ばかり」の出来事とされています。
つまり『とはずがたり』と『増鏡』では年が一年ずれていて、月も一ヵ月ずれています。

「巻九 草枕」(その5)─煕仁親王立太子
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a215e2fdd16eebd3030158d91937ae8

その点を補足して、続きです。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p208以下)
後深草院が嵯峨殿の大宮院を訪問して第二日目となります。

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又の日夕つけて衣笠殿へ御迎へに、忍びたる様にて、殿上人一、二人、御車二つばかり奉らせ給ふ。寝殿の南おもてに御しとねどもひきつくろひて御対面あり。とばかりして院の御方へ御消息聞え給へれば、やがて渡り給ふ。女房に御はかし持たせて、御簾の内に入り給ふ。
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【私訳】 翌日夕方になって、衣笠殿へ斎宮をお迎えに、内々の形式で、殿上人一、二人、御車二両ほどを送られた。寝殿の南面におしとね(敷物)などを整えて(大宮院・斎宮の)御対面がある。しばらくして後深草院の方へ(斎宮がいらっしゃった旨を)お伝えすると、後深草院もすぐにお越しになる。女房に御佩刀を持たせて、御簾の中へお入りになる。

ということで、『とはずがたり』では「明けぬれば、今日斎宮へ御迎へに人参るべしとて、女院の御方より、御牛飼・召次、北面の下臈など参る」とあって、「殿上人一、二人、御車二つばかり」というのは『増鏡』独自の追加情報です。
また、『とはずがたり』では二条が「御太刀もて例の御供に参る」とありますが、『増鏡』では二条の名前はなく、単に「女房」とあるだけです。

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ead8f76611f7509f87dece52a15012e6

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 女院は香の薄にびの御衣、香染めなど奉れば、斎宮、紅梅の匂ひに葡萄染めの御小袿なり。御髪いとめでたく、盛りにて、廿に一、二や余り給ふらんとみゆ。花といはば、霞の間のかば桜、なほ匂ひ劣りぬべく、いひ知らずあてにうつくしう、あたりも薫る御さまして、珍らかに見えさせ給ふ。
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【私訳】大宮院は(後嵯峨院崩御後に出家されているので)香色の薄墨色の御衣に香染めの小袖などをお召しになり、斎宮は紅梅の匂いの重袿に、えび染めの御小袿である。御髪がたいへんみごとで、今を盛りのお年ごろで、二十歳を一つ二つ越しておられるだろうとお見えになる。花に喩えれば、霞の間に咲き匂うかば桜も斎宮に比べると美しさは劣りそうで、何ともいいようもなく高貴で、あたりも薫るような御様子で、世に稀にお見えになる。

ということで、『とはずがたり』には大宮院の衣装が「顕紋紗の薄墨の御ころも、鈍色の御衣ひきかけさせ給ひて」とありますが、『増鏡』では「顕紋紗」は省略されています。
また、『とはずがたり』では「斎宮、紅梅の三つ御衣に青き御単ぞ、なかなかむつかしかりし」とあり、「青き御単」が『増鏡』では「えび染めの御小袿」に変わっており、二条の批判的なコメントも削除されています。
斎宮の容姿への賛美も、『とはずがたり』では「花といはば桜にたとへてもよそめはいかがとあやまたれ、霞の袖を重ぬるひまも、いかにせましと思ひぬべき御有様」となっており、『増鏡』の方が賛美の度合いが強まっていますね。

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 院はわれもかう乱れ織りたる枯野の御狩衣、薄色の御衣、紫苑色の御指貫、なつかしき程なるを、いたくたきしめて、えならず薫り満ちて渡り給へり。
 上臈だつ女房、紫の匂五つに、裳ばかりひきかけて、宮の御車に参り給へり。神世の御物語などよき程にて、故院の今はの比の御事など、あはれになつかしく聞え給へば、御いらへも慎ましげなる物から、いとらうたげなり。をかしき様なる酒、御菓物、強飯などにて、今宵は果てぬ。
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【私訳】後深草院は、われもこうを乱れ織にした枯野色の御狩衣、薄紫色の小袖、紫苑色の御指貫という、心ひかれるような親しみ深い服装で、そこに香を充分にたきしめて、周りになんともいえぬ薫りを漂わせておられる。
 斎宮のお供には、上臈らしい女房が、紫の匂いの五つ衣に裳だけをつけて、車に陪乗して参られる。斎宮の伊勢でのお話などが少しあって、(その後)後深草院が後嵯峨院の御臨終のころの御事をしみじみとなつかしくお話しなさると、斎宮のお返事も控え目ではあるが、とても可愛らしい。趣のあるお酒、お菓子、強飯などのご馳走で、その夜の対面は終った。

ということで、『とはずがたり』では院の服装は「われもかう織りたる枯野の甘の御衣に、りんだう織りたる薄色の御衣、紫苑色の御指貫、いといたうたきしめ給ふ」とあるので、「りんだう織りたる薄色の御衣」が『増鏡』では「薄紫色の小袖」に変わっています。
また、『とはずがたり』では斎宮のお伴の女房について「御傍親とてさぶらひ給ふ女房、紫のにほひ五つにて、物の具などもなし」とありますが、『増鏡』では「上臈だつ女房、紫の匂五つに、裳ばかりひきかけて」と変わっています。
「をかしき様なる酒、御菓物、強飯などにて」は『とはずがたり』には存在しない『増鏡』の追加情報ですね。

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