学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

清水克行氏による「尊氏の精神分析」

2018-03-16 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月16日(金)14時47分7秒

>筆綾丸さん
清水氏は『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)において、先に紹介した部分の少し後に、

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尊氏の精神分析
 さて、ここまで「異常な血統」として説明されることの多かった歴代足利氏の履歴を点検してきた。では、本書の主人公でもある尊氏については、どうだろうか? 少し言及しておこう。彼の性格については、第Ⅰ章で詳述したが、たしかに感情の振幅が激しく、天真爛漫に振る舞うかと思えば、必要以上に深く落ち込むことがあり、躁鬱質といわれても仕方のない部分があることは確かだ。ただ、それを遺伝的な「躁鬱病」とまで診断することができるかというと、私はかなり疑わしいと考えている。
 たとえば、中先代の乱の鎮圧後、尊氏は鎌倉に居すわり続けたために、後醍醐から謀叛人と認定され、討伐軍を送りこまれてしまっている。このとき彼は恐懼して寺に籠もり、ひたすら恭順の姿勢を表わし、敵が眼前に迫っても、決して反転攻勢に出ることはなかった。このへんの突然の隠遁の不可解さが、後に多くの人々から精神疾患を疑われる要素となってしまったといえるだろう。しかし、弟直義の身に危険が迫っているのを知ったとき、ついに彼は立ち上がり、猛然と巻き返しをはかる。知人の心理学者の教示によれば、自身の奮起や外的環境の変化によって精神状態を自分でコントロールできないのが、躁鬱症の特徴であり、このときの尊氏のように追いつめられた末、積極的な行動に移すことができる場合は、躁鬱症とはみなせないのだという。尊氏の場合、最終的にはしっかりと現実に立ち向かっていることから、その行動の不可解さを安易に精神疾患として片付けるのには慎重であるべきだろう。
 総じて尊氏や足利一族の場合に限らず、歴史上の人物の病名診断など、容易なことではない。まして現代において同じ病名で苦しんでいる人がいることを念頭においたとき、とくに興味本位での素人の「診断」は偏見を助長する結果を生む場合がある。過去の人物の事跡をたどるとき、便利な病名に頼らずに、現代の常識からは理解不能な彼らの内面に寄り添ってゆく覚悟が、歴史家には求められているのではないだろうか。
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と書かれています。(p137以下)
一般論としてはまあまあの出来の議論ですが、清水氏自身による足利貞氏への「精神分析」は、清水氏のこの基本的姿勢に反していますね。
ところで尊氏を「精神疾患」を患っていたと断定した研究者の代表は佐藤進一です。

「碩学の誤読」(筆綾丸さん)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9017
佐藤進一と東大紛争
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/36c35b6cafb84b2a573e52b373b09fc9

佐藤進一の「[現代において同じ病名で苦しんでいる人がいることを念頭においたとき、とくに興味本位での素人の「診断」は偏見を助長する結果を生む」乱暴な議論に比べれば、清水氏の姿勢は比較的穏当ですが、「現代の常識からは理解不能な彼らの内面に寄り添ってゆく覚悟が、歴史家には求められている」とまで行くと、些か行き過ぎではないかとの懸念も生じてきます。
清水氏の「ここまで「異常な血統」として説明されることの多かった歴代足利氏の履歴」の点検作業は、要するに歴代当主に変な行動があったときには政治的にこんな事情があってストレスがたまっていたのです、という「ストレス史観」のような感じもしますが、それで「内面に寄り添っ」たつもりになっても、実際には単なる勘違いの可能性もありますね。
絶対的な史料的限界があるのだから、「現代の常識からは理解不能な彼らの内面」にほどほどに近づこうとする努力は重要であっても、「寄り添ってゆく覚悟」とまでなると、そのベタベタした感覚に違和感を覚えます。
以前、高橋慎一朗氏の『北条時頼』(吉川弘文館、2013)を読んだときにも、いちいち時頼の内面に寄り添い、心理分析しようとする高橋氏の態度が非常に鬱陶しい感じがしました。

「心の傷」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20d3ce36520a5cbf2c3fc11136b46772

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

2018/03/16(金) 13:10:49
「百王」

小太郎さん
清水氏は、中世の「物狂」と近現代の「精神疾患(発狂)」を同義と考えているようですが、ご指摘のように無茶な解釈で、「馬鹿っぽい」感じがしますね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E8%A9%A9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AE%96%E7%B7%AF

明王徳の「百王の下れるいま」ですが、若き貞顕は『野馬台詩』の終末思想をどのように考えていたのか、興味を惹かれました。中国の讖緯思想のように、図らずも北条氏の滅亡を予言したようだ、といえば大仰ですが。
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「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その6)

2018-03-16 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月16日(金)13時31分13秒

ここ暫く金沢貞顕の周辺を見て来ましたが、これは小川剛生氏が『兼好法師』において、ある古文書に登場する「小林の女房」が兼好の母ではなかろうかと推定されているのを見て、この「小林」が『とはずがたり』に登場する後深草院二条の乳母の母、「宣陽門院の伊予殿」が住む「伏見の小林」と結びつくのではないか、と思ったのが発端です。
今までの検討で、金沢北条家が早歌という芸能の草創・発展に極めて重要な貢献をしたこと、「源氏」「源氏恋」という早歌を作詞作曲した「或女房」=「白拍子三条」は後深草院二条の隠れ名の可能性が高いこと、後深草院二条は早歌「袖余波」「明王徳」の作詞者でもある若き日の金沢貞顕(1278-1333)と面識があった可能性が高いことは、ある程度説得的に論証できたのではないかと思います。
そして、金沢貞顕に親しく仕えていた兼好は、後深草院二条の存在を知っていたと推定されます。
ただ、それ以上に兼好と後深草院二条の間に人的つながりがあったかについては、今のところ「伏見の小林」以外の手掛りはないのですが、『日本歴史地名大系27 京都市の地名』(平凡社)や『角川日本地名大辞典26 京都府』、『平安時代史事典』(角川書店)等を見ても、「伏見の小林」についての記述はありません。
また、後深草院二条の傅(めのと、乳母の夫)は小野宮実頼の子孫の藤原仲綱という人物なのですが、『尊卑分脈』を見ても仲綱の息子の仲光・仲兼・仲秀・仲頼には母親の記載がなく、今のところ乳母の出自は不明です。
そこで、この関係の検討は暫く休んで、再び『増鏡』の原文を読み進めて行こうと思います。
『とはずがたり』の諸問題の検討を先行させることも考えましたが、『とはずがたり』は『増鏡』に膨大な分量で引用されているので、『増鏡』の検討に際して随時『とはずがたり』も参照することにします。

「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その1)~( その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f10322cc7ebe53e562e3ab38c0d6a5d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2232c8d85546a8eedeb2b26d79a0d1e7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/812300a147aea9cb5f760c2d0b02c991
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a3e5fd3f9025de85df9bca99a9db52bb
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a6dd5400cf3558146b3121ae16bb3953

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