投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月 2日(日)12時05分45秒
※前回投稿は長すぎたので、二つに分けました。
続きです。(p92以下)
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このような事態は、大正期にはいってもかわらない。長野県製糸業全体に女工を供給している上位五県の農業状態を見ると、いずれも、五反以下の零細農民の比率の高い県(山梨県は五反以下の層が四六・八パーセントで最高)か、小作および自小作農の多い県(山梨・新潟・富山県では全戸数の七六パーセントをしめる)か、農閑期に適当な副業をもたない県(新潟・富山県)ばかりである。小作農民あるいは五反以下の自小作農民の家庭が、女工の主要な出身階層であったと考えられるのである。
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段落の途中ですが、いったんここで切ります。
「長野県製糸業全体に女工を供給している上位五県」は、大正7年には、
長野 59.5
山梨 18.5
新潟 9.9
富山 5.7
岐阜 5.0
となっていて(単位は%)、「その他」は1.4%ですから無視してよいレベルですね。
そして中村は約6割と一番人数の多い長野県については特別なコメントをしていませんが、諏訪郡を含む長野についても「零細農民」と捉えているとすれば、私は若干の疑問を抱きます。
ま、それは後で検討するとして、続きを見ると、
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大正期に叔父の経営する進工社※(ヤマジョウ)に勤めて、女工募集の仕事をしたことのある明治三三年生まれの山岡直人は、当時のもようをつぎのように語った。
工女はたしかに貧しい農家の出が多かったようです。とくに山梨県の農家は、長野県の農家より貧しかった。畳を敷いた家は一軒もなく、みんな菰を敷いているだけでした。大正末期から昭和初期の不況のころにかけては、とくに貧農の前借がひじょうに多かったのです。私らとしては、あまりに貧しい農家には前貸ししないように避けたのですが、ある農家にいったときはたいへんでした。家中で泣いて、おたのみ申す、おたのみ申すというのです。しまいには親類中あつまって、ぜひ前貸ししてくれろという。断るのはたいへんなことだった。一年がまんすれば年末には金がゆくのだが、貧しいのでそれをまてない。まえで借りているから、娘が帰るときには空手だ。だからまた前借りしなければならない、というような悪循環でした。それでも、これらの農家では主食は大根と玉蜀黍で、こっち(岡谷)へくれば粗悪な等外米ではありましたが、それでも米を三度三度食べられるから、娘たちはよろこんでいたくらいです。
この話には誇張はないと思う。山梨県は甲州財閥の名で知られているように、若尾逸平・根津嘉一郎などの地方財閥を生みだすとともに、大地主の多い県であった。貧富の差ははげしく、娘たちの製糸資金にたよらなければ生きてゆけない貧農がたくさんいた。山梨県自体、有数の製糸県であったが、県内の工場だけでは彼女らを雇いきれず、したがって、信州寄りの北巨摩郡や中巨摩郡からは、たくさんの女工が岡谷へ出稼ぎにでかけていたのである。
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ということで、悲しいエピソードには違いないのですが、素材も中村の解説も山梨県に偏り過ぎではないか、という印象を受けます。
山岡直人なる人物も「とくに山梨県の農家は、長野県の農家より貧しかった」と言っていて、全体の6割と一番重要な長野県については、中村のように「娘たちの製糸資金にたよらなければ生きてゆけない貧農がたくさんいた」とは認識していないようですね。
また、中村は「山梨県自体、有数の製糸県であったが、県内の工場だけでは彼女らを雇いきれず、したがって」と述べるのですが、まあ、普通に考えれば、山梨県の工場より諏訪の工場の方が賃金が高かったから「たくさんの女工が岡谷へ出稼ぎにでかけていた」のではないですかね。
※前回投稿は長すぎたので、二つに分けました。
続きです。(p92以下)
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このような事態は、大正期にはいってもかわらない。長野県製糸業全体に女工を供給している上位五県の農業状態を見ると、いずれも、五反以下の零細農民の比率の高い県(山梨県は五反以下の層が四六・八パーセントで最高)か、小作および自小作農の多い県(山梨・新潟・富山県では全戸数の七六パーセントをしめる)か、農閑期に適当な副業をもたない県(新潟・富山県)ばかりである。小作農民あるいは五反以下の自小作農民の家庭が、女工の主要な出身階層であったと考えられるのである。
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段落の途中ですが、いったんここで切ります。
「長野県製糸業全体に女工を供給している上位五県」は、大正7年には、
長野 59.5
山梨 18.5
新潟 9.9
富山 5.7
岐阜 5.0
となっていて(単位は%)、「その他」は1.4%ですから無視してよいレベルですね。
そして中村は約6割と一番人数の多い長野県については特別なコメントをしていませんが、諏訪郡を含む長野についても「零細農民」と捉えているとすれば、私は若干の疑問を抱きます。
ま、それは後で検討するとして、続きを見ると、
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大正期に叔父の経営する進工社※(ヤマジョウ)に勤めて、女工募集の仕事をしたことのある明治三三年生まれの山岡直人は、当時のもようをつぎのように語った。
工女はたしかに貧しい農家の出が多かったようです。とくに山梨県の農家は、長野県の農家より貧しかった。畳を敷いた家は一軒もなく、みんな菰を敷いているだけでした。大正末期から昭和初期の不況のころにかけては、とくに貧農の前借がひじょうに多かったのです。私らとしては、あまりに貧しい農家には前貸ししないように避けたのですが、ある農家にいったときはたいへんでした。家中で泣いて、おたのみ申す、おたのみ申すというのです。しまいには親類中あつまって、ぜひ前貸ししてくれろという。断るのはたいへんなことだった。一年がまんすれば年末には金がゆくのだが、貧しいのでそれをまてない。まえで借りているから、娘が帰るときには空手だ。だからまた前借りしなければならない、というような悪循環でした。それでも、これらの農家では主食は大根と玉蜀黍で、こっち(岡谷)へくれば粗悪な等外米ではありましたが、それでも米を三度三度食べられるから、娘たちはよろこんでいたくらいです。
この話には誇張はないと思う。山梨県は甲州財閥の名で知られているように、若尾逸平・根津嘉一郎などの地方財閥を生みだすとともに、大地主の多い県であった。貧富の差ははげしく、娘たちの製糸資金にたよらなければ生きてゆけない貧農がたくさんいた。山梨県自体、有数の製糸県であったが、県内の工場だけでは彼女らを雇いきれず、したがって、信州寄りの北巨摩郡や中巨摩郡からは、たくさんの女工が岡谷へ出稼ぎにでかけていたのである。
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ということで、悲しいエピソードには違いないのですが、素材も中村の解説も山梨県に偏り過ぎではないか、という印象を受けます。
山岡直人なる人物も「とくに山梨県の農家は、長野県の農家より貧しかった」と言っていて、全体の6割と一番重要な長野県については、中村のように「娘たちの製糸資金にたよらなければ生きてゆけない貧農がたくさんいた」とは認識していないようですね。
また、中村は「山梨県自体、有数の製糸県であったが、県内の工場だけでは彼女らを雇いきれず、したがって」と述べるのですが、まあ、普通に考えれば、山梨県の工場より諏訪の工場の方が賃金が高かったから「たくさんの女工が岡谷へ出稼ぎにでかけていた」のではないですかね。