学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「これらの女工は、いずれも小作ないし自小作に属する貧農の出であった」(by 中村政則)(その2)

2018-12-02 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月 2日(日)12時05分45秒

※前回投稿は長すぎたので、二つに分けました。

続きです。(p92以下)

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 このような事態は、大正期にはいってもかわらない。長野県製糸業全体に女工を供給している上位五県の農業状態を見ると、いずれも、五反以下の零細農民の比率の高い県(山梨県は五反以下の層が四六・八パーセントで最高)か、小作および自小作農の多い県(山梨・新潟・富山県では全戸数の七六パーセントをしめる)か、農閑期に適当な副業をもたない県(新潟・富山県)ばかりである。小作農民あるいは五反以下の自小作農民の家庭が、女工の主要な出身階層であったと考えられるのである。
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段落の途中ですが、いったんここで切ります。
「長野県製糸業全体に女工を供給している上位五県」は、大正7年には、

長野 59.5
山梨 18.5
新潟  9.9
富山  5.7
岐阜 5.0

となっていて(単位は%)、「その他」は1.4%ですから無視してよいレベルですね。
そして中村は約6割と一番人数の多い長野県については特別なコメントをしていませんが、諏訪郡を含む長野についても「零細農民」と捉えているとすれば、私は若干の疑問を抱きます。
ま、それは後で検討するとして、続きを見ると、

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大正期に叔父の経営する進工社※(ヤマジョウ)に勤めて、女工募集の仕事をしたことのある明治三三年生まれの山岡直人は、当時のもようをつぎのように語った。

工女はたしかに貧しい農家の出が多かったようです。とくに山梨県の農家は、長野県の農家より貧しかった。畳を敷いた家は一軒もなく、みんな菰を敷いているだけでした。大正末期から昭和初期の不況のころにかけては、とくに貧農の前借がひじょうに多かったのです。私らとしては、あまりに貧しい農家には前貸ししないように避けたのですが、ある農家にいったときはたいへんでした。家中で泣いて、おたのみ申す、おたのみ申すというのです。しまいには親類中あつまって、ぜひ前貸ししてくれろという。断るのはたいへんなことだった。一年がまんすれば年末には金がゆくのだが、貧しいのでそれをまてない。まえで借りているから、娘が帰るときには空手だ。だからまた前借りしなければならない、というような悪循環でした。それでも、これらの農家では主食は大根と玉蜀黍で、こっち(岡谷)へくれば粗悪な等外米ではありましたが、それでも米を三度三度食べられるから、娘たちはよろこんでいたくらいです。

 この話には誇張はないと思う。山梨県は甲州財閥の名で知られているように、若尾逸平・根津嘉一郎などの地方財閥を生みだすとともに、大地主の多い県であった。貧富の差ははげしく、娘たちの製糸資金にたよらなければ生きてゆけない貧農がたくさんいた。山梨県自体、有数の製糸県であったが、県内の工場だけでは彼女らを雇いきれず、したがって、信州寄りの北巨摩郡や中巨摩郡からは、たくさんの女工が岡谷へ出稼ぎにでかけていたのである。
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ということで、悲しいエピソードには違いないのですが、素材も中村の解説も山梨県に偏り過ぎではないか、という印象を受けます。
山岡直人なる人物も「とくに山梨県の農家は、長野県の農家より貧しかった」と言っていて、全体の6割と一番重要な長野県については、中村のように「娘たちの製糸資金にたよらなければ生きてゆけない貧農がたくさんいた」とは認識していないようですね。
また、中村は「山梨県自体、有数の製糸県であったが、県内の工場だけでは彼女らを雇いきれず、したがって」と述べるのですが、まあ、普通に考えれば、山梨県の工場より諏訪の工場の方が賃金が高かったから「たくさんの女工が岡谷へ出稼ぎにでかけていた」のではないですかね。
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「これらの女工は、いずれも小作ないし自小作に属する貧農の出であった」(by 中村政則)(その1)

2018-12-02 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月 2日(日)11時19分41秒

それではまず、中村政則『日本の歴史第29巻 労働者と農民』(小学館、1976)から「女工の出身地」と題する部分を紹介します。(p90以下)

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 明治三〇年代の製糸女工の実態を知るうえで欠かすことのできないのは、明治三六年(一九〇三)に農商務省商工局工務課の工場調査掛が刊行した『職工事情』(全五巻)である。この調査は、工場法の制定を審議するにあたって、まず労働者の実態を政府がよくつかんでおく必要があるとの認識からおこなわれたもので、付録には各府県からの労働実態アンケートや関係者の談話などがおさめられている。この報告書の主要部分は、『綿糸紡績職工事情』『生糸職工事情』で、女工にかんする実態が数多くのデータをもって克明に記録されている。
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『生糸職工事情』を実際に読んでみると、本文は50ページほどで、「克明」というのは若干大袈裟な感じもします。
また、単に製糸業者から聞き取った内容をそのまま書いただけで、しっかり考察した訳でもなさそうな記述も多いですね。
ま、そうはいっても、もちろん貴重な記録ではあります。

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 これによれば、製糸工場の労働者の九〇%以上が女工であり、しかもそのほとんどは未婚の娘たちであった。「生糸工女ノ多数ハ十六、七歳乃至廿一、二歳トス。而シテ多クハ未婚者ニシテ、稀ニ既婚者ヲ見ルノミ。彼等ノ工女トナルヤ十六、七歳ニ始マリ、結婚期ニ及ベバ乃チ退場(退職)スルヲ常トス」とあるように、女工の多くは貧しい農家の娘たちであって、いわば嫁入りまえの口べらし、あるいは家計補助的な賃金を得るために糸引きに出るのがふつうであった。女工には通勤女工と寄宿女工との二種類があったが、どちらかといえば寄宿女工は大工場に多く、通勤女工は小工場のほうに多かった。すでに述べたように、遠隔地募集がおこなわれるようになると、しだいに出稼ぎ型の寄宿女工が支配的となっていったようである。
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「女工の多くは貧しい農家の娘たちであって、いわば嫁入りまえの口べらし、あるいは家計補助的な賃金を得るために糸引きに出るのがふつうであった」とありますが、『生糸職工事情』には女工の出身階層についての記述は特になく、これらは全て中村の解釈・主張であって、ちょっと紛らわしい書き方ですね。

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 岡谷製糸業における女工の出身地は、次ページの表のように、明治三十年代にすでに他郡出身者が諏訪郡をうわまわっている。そして、長野県内ではとくに上伊那郡と東筑摩郡出身者が多く、県外では山梨・岐阜の両県で全女工の三〇%前後が供給されている。大正期にはいると新潟県と富山県出身の女工がふえてくるが、明治期にはまだ全女工の四、五パーセントをしめるにすぎない。これらの女工は、いずれも小作ないし自小作に属する貧農の出であった。昭和四〇年、私は明治四三年の山梨家の一製糸工場における女工の出身階層をしらべたことがあるが、それによると八一パーセントの女工が三反以下所有の零細農家から析出されており、これを七反歩で切れば、じつに九二パーセントの女工がこれら零細農家から送り出されている。
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中村が『平野村誌』下巻から作成した「岡谷に働く製糸女工の出身地」という一覧表を見ると、明治36年(1903)と大正7年(1918)の「長野県内」「長野県外」からの人数が書かれています。
「長野県内」は郡毎に細分化されていますが、「長野県外」は県名のみで、山梨・新潟・富山・岐阜の四県と「その他」となっています。
そして、「長野県内」の小計は明治36年には2,689人で全体の65.2%、大正7年には14,589人で全体の59.5%ですね。
また、総計は明治36年には4,125人、大正7年には24,526人と、僅か15年の間に約6倍になっており、諏訪の製糸業の膨張のすごさが窺われます。
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