投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月31日(月)20時07分26秒
本年のまとめとして、もう一つ投稿するつもりでいたのですが、久しぶりに立花隆『日本共産党の研究』上下二巻を手にとったら、面白くてついつい読み耽ってしまいました。
大晦日の過ごし方として、『日本共産党の研究』とコミンテルンのテーゼ集を突き合せて内容を検証するのは些か間違っているような感じがしないでもないので、少し休んで、久しぶりに日本酒でも飲んでみるか、などと思っています。
いうことで、特にまとめもありませんが、本年の投稿はこれで終わりとします。
このようなマニアックな掲示板に訪問して頂いた親愛なる同志諸君!!
どうぞ良いお年をお迎えください。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月31日(月)13時03分6秒
杉浦明平が「中越さん」と会った時期は明確ではありませんが、すぐ後に大学入学後の話になっているので、一高の三年時のようですね。
とすると、杉浦・伊藤は1930年入学ですから1932年の出来事となり、いわゆる「非常時共産党」の時期となります。
非常時共産党
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E5%B8%B8%E6%99%82%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A
戦前の共産党は、1922年の創立以降、「武装共産党」の一時期を除くと基本的にはコミンテルンの資金援助に頼ることが多かったようですが、「非常時共産党」の時期はシンパのカンパの比重が高まっていたそうです。
その集金システムについては、立花隆『日本共産党の研究(下)』(講談社、1978)の「党を支えたシンパの資金網」(p55以下)が分かりやすいのですが、
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問題は小口カンパを集める場合、資金集めのコストがかなりかかることだった。後に松村にかわいがられて、家屋資金局の武器部、資金部などのキャップになる今泉善一は、昭和六年はじめ、大蔵省営繕局管財課の一職員をしていたとき(当初は臨時雇で日給一円)に、共産党との接触がはじまり、月に三円のカンパをする最末端のシンパとしてスタートして、二年もたたないうちに、資金網の総元締になった男である。この今泉が詳細な手記を書き残している。その中から、資金網に関するくだりを少し拾ってみると、その実態がよくわかる。
-------
ということで(p65)、引用はしませんが、要するに小口カンパは集金する専従党員の生活費に喰われてしまって全然効率が良くなかったそうですね。
そこで、実際には富裕な文化人・知識人シンパへの依存度が高かったのですが、その代表格が河上肇です。(p70以下)
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前にちょっと紹介したように、河上が共産党のシンパとして資金カンパをはじめるのは、三一年の夏のころである。日大で民法の教授をしていた杉ノ原舜一が、「死んでも秘密を漏らすようなことはないから……」と、共産党への毎月一定のカンパを頼んだ。河上がそれを受けて、月百円から百五十円のカンパを引き受けたことはすでに述べた。三二年に入ると、
「党の要求は次第に逓増して来て、約束の定期寄付金の月額を殖したばかりではなく、千円、二千円と纏った臨時の寄付をせねばならぬ場合が何回か重なってゐた。その度毎に家内は銀行の預金を引出して来た」(『河上肇自叙伝』)
河上はやがて党活動にどんどん深入りしていき、この夏には入党してしまう。そして九月上旬、党からのさらなる要請に応えて、実に一万五千円ものカンパを行なう。
「私は当日行はれたそんな事件の輪廓を聴き取りながら『これまで杉ノ原君の手を通して党に提供した資金は恐らく一万円近くに達してゐるだろうから、今度の分を加えると、彼れ此れ二万何千円といふものになる筈だ。新労農党時代に随分無駄な金を使つたものだが、それでもまだそれだけの金を提供することが出来たのか』と満足に思ふと同時に、『しかし後にどれほどの金が残してあるのだらう』と、家内の今後の生活のことがひどく気に懸つた」(同前)
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遥か昔、初めて『日本共産党の研究』を読んだときは、河上肇の豊かさに吃驚しました。
さて、1932年当時の「彼れ此れ二万何千円といふもの」がどれくらい価値があるのかというと、1978年の立花は四千倍くらいに換算しています。
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いまの貨幣価値でいえば、ほとんど一億円に近いカンパをしたことになる。どうして河上肇のような学者にそんなに金があったのだろうかと疑問に思われるかもしれない。しかし、戦前のインテリ(大卒サラリーマンを含む)はみんな金持だったのである。第一にインテリの給与が高かった。河上のように、大学を定年までつとめなかった教授でも恩給が月に百五十円も貰えたという時代である。第二に、いまのように累進所得税制度がないために、売れる本を書く著述家は、巨額の印税がそのまま所得として残り、産をなすことができたのである。
河上の場合、『経済学大綱』の印税が一万五千円、『マルクス主義の基礎理論』と『第二貧乏物語』の印税はそれぞれ一万二千円にもなった。共産党が大口カンパを求めるのに好んで著述家たちのところをまわったのは、こういう理由もあったのである。
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ということで、こうした背景を考えると、伊藤律は杉浦明平を介して土屋文明等のアララギ派の歌人をシンパに組織することを狙ったのではないか、と疑うことも十分合理的ではないかと思います。
だいたい杉浦明平は、伊藤と同じく中学四修で一高・東大という秀才とはいえ、文学部国文学科でアララギ派ですから、人間的にはちょっとトロいところがあり、伊藤から見たら杉浦など、いつもぼんやり日向ぼっこをしている阿呆に近い存在だったのではないかと思います。
なお、私は今泉善一の後半生を全く知らなかったのですが、建築の世界では有名な人だそうですね。
今泉善一(1911-85)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%B3%89%E5%96%84%E4%B8%80
杉浦明平が「中越さん」と会った時期は明確ではありませんが、すぐ後に大学入学後の話になっているので、一高の三年時のようですね。
とすると、杉浦・伊藤は1930年入学ですから1932年の出来事となり、いわゆる「非常時共産党」の時期となります。
非常時共産党
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E5%B8%B8%E6%99%82%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A
戦前の共産党は、1922年の創立以降、「武装共産党」の一時期を除くと基本的にはコミンテルンの資金援助に頼ることが多かったようですが、「非常時共産党」の時期はシンパのカンパの比重が高まっていたそうです。
その集金システムについては、立花隆『日本共産党の研究(下)』(講談社、1978)の「党を支えたシンパの資金網」(p55以下)が分かりやすいのですが、
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問題は小口カンパを集める場合、資金集めのコストがかなりかかることだった。後に松村にかわいがられて、家屋資金局の武器部、資金部などのキャップになる今泉善一は、昭和六年はじめ、大蔵省営繕局管財課の一職員をしていたとき(当初は臨時雇で日給一円)に、共産党との接触がはじまり、月に三円のカンパをする最末端のシンパとしてスタートして、二年もたたないうちに、資金網の総元締になった男である。この今泉が詳細な手記を書き残している。その中から、資金網に関するくだりを少し拾ってみると、その実態がよくわかる。
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ということで(p65)、引用はしませんが、要するに小口カンパは集金する専従党員の生活費に喰われてしまって全然効率が良くなかったそうですね。
そこで、実際には富裕な文化人・知識人シンパへの依存度が高かったのですが、その代表格が河上肇です。(p70以下)
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前にちょっと紹介したように、河上が共産党のシンパとして資金カンパをはじめるのは、三一年の夏のころである。日大で民法の教授をしていた杉ノ原舜一が、「死んでも秘密を漏らすようなことはないから……」と、共産党への毎月一定のカンパを頼んだ。河上がそれを受けて、月百円から百五十円のカンパを引き受けたことはすでに述べた。三二年に入ると、
「党の要求は次第に逓増して来て、約束の定期寄付金の月額を殖したばかりではなく、千円、二千円と纏った臨時の寄付をせねばならぬ場合が何回か重なってゐた。その度毎に家内は銀行の預金を引出して来た」(『河上肇自叙伝』)
河上はやがて党活動にどんどん深入りしていき、この夏には入党してしまう。そして九月上旬、党からのさらなる要請に応えて、実に一万五千円ものカンパを行なう。
「私は当日行はれたそんな事件の輪廓を聴き取りながら『これまで杉ノ原君の手を通して党に提供した資金は恐らく一万円近くに達してゐるだろうから、今度の分を加えると、彼れ此れ二万何千円といふものになる筈だ。新労農党時代に随分無駄な金を使つたものだが、それでもまだそれだけの金を提供することが出来たのか』と満足に思ふと同時に、『しかし後にどれほどの金が残してあるのだらう』と、家内の今後の生活のことがひどく気に懸つた」(同前)
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遥か昔、初めて『日本共産党の研究』を読んだときは、河上肇の豊かさに吃驚しました。
さて、1932年当時の「彼れ此れ二万何千円といふもの」がどれくらい価値があるのかというと、1978年の立花は四千倍くらいに換算しています。
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いまの貨幣価値でいえば、ほとんど一億円に近いカンパをしたことになる。どうして河上肇のような学者にそんなに金があったのだろうかと疑問に思われるかもしれない。しかし、戦前のインテリ(大卒サラリーマンを含む)はみんな金持だったのである。第一にインテリの給与が高かった。河上のように、大学を定年までつとめなかった教授でも恩給が月に百五十円も貰えたという時代である。第二に、いまのように累進所得税制度がないために、売れる本を書く著述家は、巨額の印税がそのまま所得として残り、産をなすことができたのである。
河上の場合、『経済学大綱』の印税が一万五千円、『マルクス主義の基礎理論』と『第二貧乏物語』の印税はそれぞれ一万二千円にもなった。共産党が大口カンパを求めるのに好んで著述家たちのところをまわったのは、こういう理由もあったのである。
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ということで、こうした背景を考えると、伊藤律は杉浦明平を介して土屋文明等のアララギ派の歌人をシンパに組織することを狙ったのではないか、と疑うことも十分合理的ではないかと思います。
だいたい杉浦明平は、伊藤と同じく中学四修で一高・東大という秀才とはいえ、文学部国文学科でアララギ派ですから、人間的にはちょっとトロいところがあり、伊藤から見たら杉浦など、いつもぼんやり日向ぼっこをしている阿呆に近い存在だったのではないかと思います。
なお、私は今泉善一の後半生を全く知らなかったのですが、建築の世界では有名な人だそうですね。
今泉善一(1911-85)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%B3%89%E5%96%84%E4%B8%80
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月31日(月)11時40分34秒
もう少しジタバタと投稿するつもりです。
>筆綾丸さん
秋頃から従前にも増してマニアックの度合いを高めて行った当掲示板に御付き合い頂き、ありがとうございました。
良いお年をお迎えください。
>美川圭氏の『公卿会議』
気になってはいたのですが、暫くは頭が中世モードに戻りそうもないので、当分は未読のままとなりそうです。
美川氏、鎌倉時代の朝廷に興味を持ったきっかけは橋本義彦氏の論文だそうですね。
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美川:橋本義彦さんという長年宮内庁書陵部につとめておられた学者が「院評定制について」という鎌倉時代の公卿会議についての優れた論文を書かれています。その論文を学部の卒業論文執筆の際に、ひとつひとつ史料を確認しながら熟読して勉強したことがきっかけです。40年ほど前、鎌倉時代の朝廷なんてテーマで卒論を書こうとする学生は皆無でした。指導教授にもけっこう不思議な目で見られました。でも、人がやらないテーマを研究するのは楽しかったです。
橋本氏も亡くなられて三年経ちますね。
橋本義彦(1924-2015)
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
佳いお年を 2018/12/30(日) 13:51:41
小太郎さん
閑話で邪魔ばかりしてましたが、一年間、お世話になりました。
佳いお年をお迎えください。
付記
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2018/10/102510.html
美川圭氏の『公卿会議』を購入したものの、読む気がしません。
将棋界では、羽生九段と竹俣紅の引退が話題になりました。
小太郎さん
閑話で邪魔ばかりしてましたが、一年間、お世話になりました。
佳いお年をお迎えください。
付記
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2018/10/102510.html
美川圭氏の『公卿会議』を購入したものの、読む気がしません。
将棋界では、羽生九段と竹俣紅の引退が話題になりました。