学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「伊藤律のコックスほど漕ぎやすかったことはない」(by 某オリンピック選手)

2018-12-28 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月28日(金)12時33分31秒

杉浦明平「伊藤律」の続きです。(p188以下)

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 しかしそのころ、一高ではクラス対抗のボート競争が春秋二回おこなわれたが、一年一学期のとき体の小さい伊藤はコックスをつとめて優勝した。そのときボートを漕いだ選手の中にずっとボートをつづけてオリンピックに出場したものがいたが、後で「伊藤律のコックスほど漕ぎやすかったことはない」と述懐していたところから判断すれば、伊藤には集団を巧妙に操縦する才能があったにちがいない。
 それはともかく、彼は一学期の末ごろから姿を消して、ときたましか教室に姿を見せなくなり、やがて停学、さいごに退学処分をうけたけれど、わたしの同級生は続々赤化していった。わたしも伊藤に神秘的な畏敬の念を抱いていた。だから伊藤が地下にもぐってからまで、毎月彼のために五十銭ずつカンパを出していた。同級生のだれかがそっと集金にくるのであった。とくに中心となっていたのは平沢道雄だった。平沢はこのあいだまで法政大学経済部長をしていた宇佐美誠次郎たちの仲間で、東大卒業後日銀に入ったが、赤としてつかまり、その後フィリピンで戦死したが、たいへんな秀才だった。わたしは彼と仲がよかったので、かれの誕生日に高輪の平沢邸(彼の父は会社社長だった)に招待されたことがある。同級生七、八人いっしょだったが、わたしをのぞけばいずれも秘密読書会のメンバーだった。だからわたしをのぞいて、全員がその後、同時にあるいは別々に、警察に検挙される運命をもった(しかし戦死したもの以外は、今では銀行取締役、大学教授、全農連指導者などになっている)。それはともかく、みんながごちそうを食べてトランプでも遊ぼうとしているところへ、伊藤律が突然姿をあらわした。そしてソヴェトはスターリンの下にゆるがしがたい勢力となり、もう十年もたたぬうちに日本にも新しい社会ができるのだという話をした。わたしは感激して耳を傾けた。
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平沢道雄の名前は丸山眞男のエッセイでも見かけたことがありますが、「丸山眞男手帖の会」サイトによると、

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平沢道雄(ひらさわ・みちお 1916-45) 一高を経て一九三八年東大経済学部卒。大内兵衛のゼミに属した。助手に採用されたが、その後滝川事件反対運動に参加したことで警察に勾留された。平賀粛学の犠牲となる。大内の紹介で日本銀行に入り、国際局に勤務。一九四一年五月治安維持法違反(日本共産党再建準備委員会東大関係)で起訴され、四二年三月懲役三年の実刑判決。徴兵されフィリピン・ルソン島で戦死。一九三八年五月頃よりマルクス『資本論』の読書会(隅谷三喜男、遠藤湘吉ら)に顧問格で参加している。雑誌『東大春秋』『図書評論』などは滝川事件後発刊され、それに参加した学生たちの編集・執筆の中心となった。

http://www.maruyama-techo.jp/techo/correction/50/index.html
http://www.maruyama-techo.jp/techo/index.html

という人物だそうですね。
ただ、1916年生まれで伊藤律・杉浦明平と一高の同級生、つまり14歳で一高入学ということはあり得ず、この点は誤記ではないかと思われます。
また、少し検索してみたところ、「本と奇妙な煙」というブログによれば、伊東祐吏氏の『丸山眞男の敗北』(講談社選書メチエ、2016)に、

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また当時、戸谷とともに二大秀才と言われ、一高時代にすでにマルクス『資本論』をドイツ語で読破したとの逸話をもつ平沢道雄も、フィリピンのレイテ島で戦死した。(略)丸山は「資本論」の分からないところはすべて年下の平沢に聞きにいったという。だが、彼もまた思想問題で大学から停学処分を受けており、そのせいで研究室に残ることが叶わず、(略)日本銀行に就職したのちも、大学時代の処分を再び咎められてクビになるなど、国家体制と思想問題に人生を翻弄された秀才のひとりである。

https://kingfish.hatenablog.com/entry/20161120

という記述があるそうです。
また、同書には、

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[留置場で一緒になった戸谷敏之は]東京府立第一中学校を首席で卒業して一高に進んだ正真正銘の秀才である。しかし、このときの思想問題で卒業取り消し処分を受け、すでに合格していた東大の経済学部への入学の道は閉ざされた。そこで戸谷は、法政大学の予科を経て大学に進学し、卒業後は渋沢敬三が主宰するアチック・ミューゼアム(日本常民文化研究所)でさらに研究を進める。大学時代には指導教官の大塚久雄と互角にわたりあい、アチックでも八面六臂の活躍を見せた。だが(略)フィリピンの山岳地帯で無念の戦死を遂げた。大塚久雄は彼の復員を信じて、東大にポストを空けて待っていたという。大日本帝国によって人生を大きく狂わされた戸谷は、まさに典型的な悲運の天才と言えよう。
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という記述もあるそうで、伊藤律と戸谷敏之の関係を考える上で参考になるかもしれないので、後で確認してみるつもりです。
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「伊藤君、つまらんですか。教科書に使ったら、どんな傑作でもつまらんですよ」(by 竹山道雄)

2018-12-28 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月28日(金)11時21分31秒

『明平、歌と人に逢う』(筑摩書房、1989)には「伊藤律」というタイトルのエッセイもあります。
これもアララギ派、土屋文明門下の短歌雑誌『放水路』に1966年1月から66年6月の間に載ったエッセイの一つですね。

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 中越可末〔かずえ〕といっても、もう誰も記憶していないだろう。結城哀草果選歌にしばらく載っていた女性で、大沢寺安居会にも出席していたようにおもう(そういえば「短歌新聞」七月号かに大沢寺歌会の写真がのっていたから参照されたい)。しかし地味で目立たぬ存在だった。たぶん、中越さんの郷里が岐阜県中津川か恵那のあたりで、信州の隣だったから出席したのだろう。
 わたしが中越さんと会ったのは、伊藤律の指示によってであった。中越さんは伊藤と同郷で、女子大を出て、田舎で小学校の先生をしていたらしいが、ちょうど、そのころ東京に出てきていたのだろう。
 伊藤律はいまだ消息不明だが、一時は徳田球一のふところ刀として日本共産党で実権をにぎっていた。わたしは戦後は一九四九年一月、共産党に入党したとき代々木の本部で一度伊藤律に会ったきりで、前にも後にもあったことがないし会おうとも思わなかった。というのは彼は中央委員も党内最高の実力者だったから、わたしはそういうえらい人と話をするのがきらいだったので、敬遠することにきめていたのである。しかし、後で暴露されたような女たらしで節操のない人物だとは思わず、苦節十年、革命に青春をささげてきた英雄として尊敬はしていた。
 伊藤律は一高の同級生で、中学四年からの入学組で、せいもわたしと同じくらい低かった。色は青白いが下顎骨が発達しているので顔面が四角形をなして、あまり美男子とも思えなかったのに女性には人気があったらしい。中越さんも弟のように伊藤を愛していたようである。
 伊藤が学校で秀才であったかどうか知らない、というのは彼は入学まもなく左翼運動に入ったらしく、一度も試験を受けていないので一度も成績がつかなかったからである。それでもときどき教室に出てきて、ドイツ留学から帰朝したばかりのドイツ語の竹山道雄教授が、ソフォクレスの「アンチゴーネ」独訳本をテキストにして購読をはじめたとたん、「ああ、つまんねェな」と大きな声でつぶやいたりした。竹山先生はさっと顔色をかえて、「伊藤君、つまらんですか。教科書に使ったら、どんな傑作でもつまらんですよ。よろしい、ソフォクレスはやめます。どうせつまらんなら、次の時間からアイヒェンドルフの『タウゲニヒツ』をやりますから用意してきてください」とパタンと本をとじて出ていってしまった。
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ということで(p186以下)、伊藤律は一高に入学早々、竹山道雄を激怒させていますね。
竹山道雄は1903年生まれなので、伊藤律・杉浦明平らが一高に入学した1930年にはまだ27歳の若さです。
竹山についてはこの掲示板でも何回か好意的に取り上げていますが、新進気鋭のドイツ文学者とはいえ、左翼思想が熱病のように流行していた当時の一高では、竹山も古臭い教養主義の代弁者のように思われていたのかもしれません。
「アイヒェンドルフの『タウゲニヒツ』」は1938年、『愉しき放浪児』のタイトルで岩波文庫から出ていますが、

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アイヒェンドルフ(1788‐1857)の代表作で,ドイツ・ロマン主義文学の白眉ともいうべき佳品.その美しくまとまった巧みな構想とほがらかな抒情的気分とによって,読者は,自由に憧れ旅を愛するこの愉快な放浪児とともに自分もまた1梃のヴァイオリンに生涯を託して神の広い世界へさまよい出で,やがてほほえみかけてくる幸運を待ちながら春の陽に心の窓を開く思いを抱くであろう.

https://www.iwanami.co.jp/book/b247808.html

という内容なので、これを用いた講義はソフォクレスの「アンチゴーネ」よりは面白かったでしょうね。
ま、伊藤は竹山の講義には二度と出席しなかったのかもしれませんが。

竹山道雄(1903-84)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B1%B1%E9%81%93%E9%9B%84
『愉しき放浪児』(「新ヴィッキーの隠れ家」サイト内)
http://sekitanamida.hatenablog.jp/entry/ausdemlebeneinestaugenichts


『偉大なる暗闇 岩元禎と弟子たち』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1cef11eac16b0c7e7faf16b7d215aa98
平川祐弘著『竹山道雄と昭和の時代』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f84af123d6a7256514b434d80254ef63
「先生には複雑な心理学はなかった。政治的な指導もなかった。ただ理想主義一筋だった」(by 竹山道雄)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed97972995a39f43ede99e8143ac49d1
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