投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月19日(水)11時41分25秒
内田力氏は注31において、「なお、網野はつぎの文献で宇野脩平とともに左翼運動に入った人物として伊藤律に言及している。網野『歴史としての戦後史学』一八三頁」と書いていますが、これは「戦後の日本常民文化研究所と文書整理」という講演録で、初出は神奈川大学日本常民文化研究所編『歴史と民俗』13号、1996年9月ですね。
全体の構成は、
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はじめに
一 漁村資料の蒐集・整理事業の発足
二 宇野脩平氏について
三 月島分室の発足
四 月島分室での仕事
五 事業の行き詰まりと月島分室の解体
六 放置された借用文書
七 借用文書の一部の返却作業
八 三田の日本常民文化研究所
九 研究所の大学への移行をめぐって
むすび
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となっていて、問題の部分は「二 宇野脩平氏について」の冒頭です。
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宇野脩平さんは、一九一三年(大正二)に和歌山県の粉河の大きな造酢業の家で生まれました。「酢家のナカボン」といわれていたそうですが、秀才の誉れが高かったようです。実際、大変頭の切れる方だと思いますけれども、一九三一年に一高に入学します。その当時の同級生には丸山真男、堀米庸三、猪野謙二、寺田透、杉浦明平、塙作楽、明石博隆という錚々たるメンバーがいたわけですが、その翌年、宇野さんは一年上級の伊藤律氏(共産党の幹部で最近亡くなりました。この方も宇野氏の同窓です)や戸谷敏之氏(すぐれた近世史家で、のちにやはり日本常民文化研究所の所員になりますが、フィリピンで戦死されました)とともに左翼運動に入り、当時、一高に組織された日本共産青年同盟(共青といいます)のキャップになったと聞いています。伊藤律氏よりもむしろ宇野さんのほうが、一高の運動の中では地位が高かったと聞いたことがあります。ところが、その十一月に宇野さんが逮捕されて、翌一九三三年に一高を除籍されます。退学ではなく放校処分を受けたわけです。それから一九三四年まで獄につながれておりまして、病を負うとともに、上申書を書いて転向を誓って刑務所から出てくることになります。
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内田氏の書き方は何やら思わせぶりな感じがしたので、網野の伊藤律に対する特別な感情を窺わせる記述でもあるのかと期待しましたが、そんなものは一切ありませんね。
仮に内田氏の言うように、「伊藤の除名が日本に伝えられた時点で、共産党内において網野の進退が窮まったことは想像に難くない」のだったら、伊藤律について、もう少し何か書きようがあると思いますが、「伊藤律氏よりもむしろ宇野さんのほうが、一高の運動の中では地位が高かったと聞いたことがあります」という具合に、単に宇野の比較の対象であり、しかも宇野の方が共産党活動の面で伊藤より有能だったと示唆しているような感じもします。
うーむ。
おそらく内田氏は網野が伊藤律に言及した資料を探して膨大な文献を渉猟したものの、発見できたのはこれだけだったのでしょうね。
ちなみに、日本共産党は、1955年の中央委員会常任幹部会発表の「伊藤律について」において、伊藤の処分理由の一つとして、
一九三三年、伊藤律は大崎署に検挙された。当時、伊藤律は第一高等学校の学生で共産青年同盟の事務局長をしていた。伊藤律は警視庁特高課長の宮下弘の取調べを受け、完全に屈服し、共青中央の組織を売り渡して釈放された。
ことを挙げています(渡部富哉『偽りの烙印─伊藤律・スパイ説の崩壊』、p120)。
そして、杉浦明平の小説『三とせの春は過ぎやすし』(河出書房新社、1974)には伊藤律と戸谷敏之をモデルとする人物が登場しており、ルポライターの上之郷利昭は、「伊藤律はなぜ生きていたか」(『月刊宝石』1980年12月号)において、戸谷敏之の検挙が伊藤律の情報提供によるとの噂があり、これが「仲間を売ったユダ」として疑われた初めてのケースだったと書いているそうです。
ただ、これらを否定する渡部富哉の主張は、私には説得的に思われます。(渡部、上掲書)
宇野脩平(1913-69)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%87%8E%E8%84%A9%E5%B9%B3
戸谷敏之(1912-45)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E8%B0%B7%E6%95%8F%E4%B9%8B
杉浦明平(1913-2001)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%B5%A6%E6%98%8E%E5%B9%B3
内田力氏は注31において、「なお、網野はつぎの文献で宇野脩平とともに左翼運動に入った人物として伊藤律に言及している。網野『歴史としての戦後史学』一八三頁」と書いていますが、これは「戦後の日本常民文化研究所と文書整理」という講演録で、初出は神奈川大学日本常民文化研究所編『歴史と民俗』13号、1996年9月ですね。
全体の構成は、
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はじめに
一 漁村資料の蒐集・整理事業の発足
二 宇野脩平氏について
三 月島分室の発足
四 月島分室での仕事
五 事業の行き詰まりと月島分室の解体
六 放置された借用文書
七 借用文書の一部の返却作業
八 三田の日本常民文化研究所
九 研究所の大学への移行をめぐって
むすび
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となっていて、問題の部分は「二 宇野脩平氏について」の冒頭です。
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宇野脩平さんは、一九一三年(大正二)に和歌山県の粉河の大きな造酢業の家で生まれました。「酢家のナカボン」といわれていたそうですが、秀才の誉れが高かったようです。実際、大変頭の切れる方だと思いますけれども、一九三一年に一高に入学します。その当時の同級生には丸山真男、堀米庸三、猪野謙二、寺田透、杉浦明平、塙作楽、明石博隆という錚々たるメンバーがいたわけですが、その翌年、宇野さんは一年上級の伊藤律氏(共産党の幹部で最近亡くなりました。この方も宇野氏の同窓です)や戸谷敏之氏(すぐれた近世史家で、のちにやはり日本常民文化研究所の所員になりますが、フィリピンで戦死されました)とともに左翼運動に入り、当時、一高に組織された日本共産青年同盟(共青といいます)のキャップになったと聞いています。伊藤律氏よりもむしろ宇野さんのほうが、一高の運動の中では地位が高かったと聞いたことがあります。ところが、その十一月に宇野さんが逮捕されて、翌一九三三年に一高を除籍されます。退学ではなく放校処分を受けたわけです。それから一九三四年まで獄につながれておりまして、病を負うとともに、上申書を書いて転向を誓って刑務所から出てくることになります。
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内田氏の書き方は何やら思わせぶりな感じがしたので、網野の伊藤律に対する特別な感情を窺わせる記述でもあるのかと期待しましたが、そんなものは一切ありませんね。
仮に内田氏の言うように、「伊藤の除名が日本に伝えられた時点で、共産党内において網野の進退が窮まったことは想像に難くない」のだったら、伊藤律について、もう少し何か書きようがあると思いますが、「伊藤律氏よりもむしろ宇野さんのほうが、一高の運動の中では地位が高かったと聞いたことがあります」という具合に、単に宇野の比較の対象であり、しかも宇野の方が共産党活動の面で伊藤より有能だったと示唆しているような感じもします。
うーむ。
おそらく内田氏は網野が伊藤律に言及した資料を探して膨大な文献を渉猟したものの、発見できたのはこれだけだったのでしょうね。
ちなみに、日本共産党は、1955年の中央委員会常任幹部会発表の「伊藤律について」において、伊藤の処分理由の一つとして、
一九三三年、伊藤律は大崎署に検挙された。当時、伊藤律は第一高等学校の学生で共産青年同盟の事務局長をしていた。伊藤律は警視庁特高課長の宮下弘の取調べを受け、完全に屈服し、共青中央の組織を売り渡して釈放された。
ことを挙げています(渡部富哉『偽りの烙印─伊藤律・スパイ説の崩壊』、p120)。
そして、杉浦明平の小説『三とせの春は過ぎやすし』(河出書房新社、1974)には伊藤律と戸谷敏之をモデルとする人物が登場しており、ルポライターの上之郷利昭は、「伊藤律はなぜ生きていたか」(『月刊宝石』1980年12月号)において、戸谷敏之の検挙が伊藤律の情報提供によるとの噂があり、これが「仲間を売ったユダ」として疑われた初めてのケースだったと書いているそうです。
ただ、これらを否定する渡部富哉の主張は、私には説得的に思われます。(渡部、上掲書)
宇野脩平(1913-69)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%87%8E%E8%84%A9%E5%B9%B3
戸谷敏之(1912-45)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E8%B0%B7%E6%95%8F%E4%B9%8B
杉浦明平(1913-2001)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%B5%A6%E6%98%8E%E5%B9%B3