学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

杉浦明平「文圃堂の人々」

2018-12-27 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月27日(木)23時09分57秒

杉浦明平の『明平、歌と人に逢う』(筑摩書房、1989)に「文圃堂の人々」という六回シリーズのエッセイがあって、その第一回に明石博隆が出てきますね。(p238以下)

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文圃堂の人々(一)

 大学正門と一高前(今の農学部前)のあいだ、やや正門寄りに二間間口の文圃堂という古本屋が開店したのは、昭和八年から九年かであった。【中略】
 文圃堂という新しい古本屋ができたので、さっそく見にゆくと、むっつりした大きな男が座っていてじろりとにらんだので、わたしは並んでいる本棚もよく見ないで逃げだすように出てしまった。その店には三、四人の店員がかわるがわる座っていたが、どれも人相がよくなく、店に入ってゆくのが気おくれするのだった。毎日一回は、本郷通りに並んだ十数軒の古本屋をのぞくのがつねであったのに、文圃堂だけはたいてい素通りすることにしていた。
 ところが、ある日、薄暗い店の奥から「おおい、明平くん」と呼びとめる声がした。そこにはわたしより一級下で、丸山真男や立原道造と同級生だった、明石博隆君が座っていた。明石君は寮の食堂や教室の往きかえりに出あうと、目礼する程度の関係にすぎなかったが、一目見ると左翼だなとわかるような鋭い目付き(後でわかったところでは、かなり強い近視なのに眼鏡をかけず、見るとき目を据えるせいであった)が印象に残っていた。伊藤律の組織したグループに属していて、検挙されたうわさをきいていた。
「退学になってなぁ」と、着流しに手入れしないバラバラの髪が眼の所まで落ちてくるのをかきあげながら、アッハッハとわらった。これも後できいたところによると、逮捕された伊藤律が保釈と引換えに自白したため、明石君たちのグループ十数人が一せいに検挙されてしまったのだそうだ。転向を肯じないで退校処分をうけた数名のうち、明石君は郷里の神戸にちょっともどっただけで、再起をはかって上京して、どういう関係でか、この文圃堂に勤めることになった。新学年になったら、どこか学校に入りたいといっていた。
 翌年の三月、わたしは神戸にもどった明石君の代りに、東京物理学校に入学願書をとどけにいったことをおもいだす。物理学校は無試験で全員入学させたうえ、成績のわるいものは片っぱしから落第させるので有名な学校だった。事務室の窓口から書類と写真を提出すると、事務員は紺がすりの着物を着て、バサバサのこわそうな髪を伸ばして、目をひそめている明石君をじっと見ていたが、「ハァ、この人アカですな」と一言の下にいってのけたのである。
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明石は1914年(大正3)生まれ、1933年(昭和8)一高中退(放校)で、「文圃堂という古本屋が開店したのは、昭和八年から九年かであった」のであれば、中退になったその年か翌年あたりのことになりますね。
文圃堂の経営者は野々上慶一で、古本屋以外に出版業も手掛け、宮沢賢治の最初の全集を出したので有名な人だそうですね。
多数の著書があるようですが、私は一冊も読んだことがありません。
ウィキペディア情報では「1931年に早稲田大学専門部政経科を中退、同年春に父の出資で本郷の東大前に古本屋・文圃堂を開業」とありますが、開業時期については杉浦の情報とは若干のずれがありますね。

野々上慶一(1909-2004)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E3%80%85%E4%B8%8A%E6%85%B6%E4%B8%80

ま、それはともかく、文圃堂がどのような雰囲気の店だったかというと、

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 それはともかく、明石君がいることがわかってから、わたしは文圃堂に出入りするようになった。
 主人の野々上慶一氏というより慶ちゃんは、広島の松本組の息子だった。松本組の長男は、後に外務次官やソヴエト大使になる松本俊一氏、次男は東大助教授、三男は呉市長で現参議院議員という秀才一家だけれど、慶ちゃんは反逆児で、母方の家を継ぎ、早稲田大学に入ったけれど、左翼運動に関係して追い出されたという話だった。からだは大きくないが、同じ長髪でも明石君とちがって色が白く、ギロリと目玉をむいて入ってくる客をにらみつける。たいていの客は、慶ちゃんににらまれると足がすくんでしまうようだった。その慶ちゃんは、学校をほうり出されてぶらぶらしていても仕方ないと、おやじさんから金を出してもらって本郷通りに古本屋をひらき、同時に出版にも野心を抱いていた。そのために幾人かを雇ったのだが、どれもみんな変わっていた。
 その一人、大きな体の北さんは、いつも店番というより読書をしていた。客が何かたずねると、おこったように「知りません」と答えるだけだし、値引きを交渉すると「できません」とぶっきらぼうに一言いうだけだった。北さんも、プロ文学運動崩れで、『唯物論研究』という雑誌だの、リャザノフだのをいつも読んでいた。そして夜は外国語学校の夜学に勤勉に通って、ロシア語を習っていた。わたしたちが明石君としゃべっていても、ふりかえりもしないで、勉強している。北さんはその後外務省嘱託になったが、今では福井研介という本名にもどって、ソヴェトの児童文学や教育学の研究者として知られている。
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ということで、かなり怪しい店ですね。
明石の「東京外語専修科露語部終了」という学歴は、あるいは福井研介の影響を受けたためかもしれません。
東京物理学校(現・東京理科大学)の方は入学しなかったのか、入学して落第したのかは分かりませんが、少なくとも卒業はしていないようですね。

福井研介(1908-2000)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E4%BA%95%E7%A0%94%E4%BB%8B

文圃堂にはいろんな人物が入って来たそうですが、「いずれもプロレタリア文学運動やプロ演劇運動、あるいはプロ美術の関係者」で、「明石君や北さんをべつとして、みんな運動の崩壊によって人間的にも歪みの強い奇怪な連中」であり、「ひどく卑下したかと思うと、ちょっとしたことばに侮辱を感じていきりたつ自尊心を秘めている、ドストエフスキー的な人物たちであった」とのことです。(p241)
以上、面白いので長々と引用してしまいましたが、当面の関心の点から重要なのは、「これも後できいたところによると、逮捕された伊藤律が保釈と引換えに自白したため、明石君たちのグループ十数人が一せいに検挙されてしまったのだそうだ」という記述ですね。
誰から聞いたかを明記している訳ではありませんが、まあ、文章の流れから言えば明石から聞いたということなのでしょうね。
なお、「文圃堂の人々」の執筆時期ですが、多数のエッセイとひとまとめに(以上63・1~66・6「放水路」)と雑に記録されています。(p260)
伊藤律が中国に渡ってから十年以上経った頃のことで、もちろん杉浦はじめ誰も伊藤律の置かれていた状況を知る由もなかった時期ですね。
コメント
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