学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「藤林というインテリ」─「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」を読む。(その2)

2019-08-13 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月13日(火)12時36分16秒

矢内原忠雄『帝国主義研究』への脱線から復帰して、続きです。(p158以下)

-------
 これはちょうど、4月4日の尊属殺重罰規定違憲判決と、4月25日の全農林警職法事件判決が出された時期とも重なっている。石田和外長官の退官は、5月19日に迫っていた。「司法反動」と批判された石田コートの締めくくりとして、日本の最高裁としては史上はじめての違憲判断と、悪名高き「反動的」な判例変更とが、同時に行われようとしていた。
 前者において、判事藤林は、尊属への尊重報恩という立法目的自体は合憲とする多数意見の理由付けに与して、田中二郎らリベラル派の目的違憲論と対抗した。後者については、もともとリベラル派の入江俊郎が主任をつとめる第一小法廷に係属していたのであったが、大法廷に回付するか否かの判断においてキャスティング・ボートを握ったのは、新任の藤林であった。第1小法廷は、3対2でリベラル派が優勢だったが、松田二郎が退任して2対2となっていたのである。藤林が公務員のストライキに対して否定的な考えをもっていたばかりに、全逓東京中郵事件判決以来の判例に反する結論となり(裁判所法10条3号)、全農林警職法事件は、大法廷に回付されることになって(なお入江はまもなく退官)、10数回の合議の末、8対7のスプリット・デシジョンによる歴史的な判例変更へとつながった。いずれにせよ「4年前」は、彼の、彼の最高裁でのキャリアにおいて、節目となる時期であった。
-------

いったんここで切ります。
最高裁判所長官は初代三渕忠彦から田中耕太郎・横田喜三郎・横田正俊と続いて、第五代が石田和外ですね。
自由法曹団などの共産党系の団体からは未だに蛇蝎の如く嫌われている保守的な人物です。
石田和外が1973年に退官すると、その後任は裁判官出身の村上朝一となり、1976年、藤林は村上を継いで第七代長官となります。

石田和外(1903-79)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E5%92%8C%E5%A4%96_(%E8%A3%81%E5%88%A4%E5%AE%98)
村上朝一(1906-87)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%9C%9D%E4%B8%80

-------
 そして同年8月4日の日記には、「清水望氏からいただいた同氏と滝沢信彦氏の共訳にかかるM・R・コンヴィッツ著『信教の自由と良心』という書物を読んだ。さすがアメリカの憲法学者である。聖書についての知識が博く、法律的にも聖書的にも教えられるところが多い。こういう書物は残念ながらわが国では得られない」という記述が現れる。これは津地鎮祭事件判決の真の出生時を告げる日付である可能性がある。
 藤林というインテリは、後述する通り、若い頃から原典主義を叩き込まれた人物である。コンヴィッツを読み上げたその頃は、例年通り信濃追分の別荘で過ごしていたものと推測されるが、それが「自分の関心のある信教の自由の原則にかかわる問題であった」だけに、帰京後は早速に、最高裁図書館所蔵のコンヴィッツの原本やアメリカの政教分離判例にアクセスしたはずである。職務の合間をみて、個人的に「米国の判例や文献などにあたり」始めた。彼は、終生愛読したカール・ヒルティー─このスイス人は憲法学者でもある─の仕事術(Die Kunst des Arbeitens)に倣い、多忙な裁判官業務の傍ら、スキマ時間を有効活用してコツコツと勉強を進めていた。そうした努力が、後に大法廷の視野を太平洋の彼方へと開くのに、大きく寄与したのは間違いない。
-------

M・R・コンヴィッツ著『信教の自由と良心』は原書が1968年に出て、五年後の1973年に邦訳が出版され、藤林は訳者の一人・清水望氏からすぐに献呈を受けた、ということですね。

M.R.コンヴィッツ著『信教の自由と良心』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/70ba50ac0a8e56d528d8f9aa422ef1ac

「津地鎮祭事件判決の真の出生時を告げる日付である可能性がある」「そうした努力が、後に大法廷の視野を太平洋の彼方へと開くのに、大きく寄与したのは間違いない」といった表現は、いかにも石川氏らしいレトリックですね。
ただ、後者あたりになるとあまりに雄大すぎて、いささかコミカルな響きを感じないでもありません。

「憲法学界のルー大柴]
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b8047456bdec08a50af68355f9a745db

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

矢内原忠雄『帝国主義研究』

2019-08-13 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月13日(火)10時56分6秒

さっそく脱線しますが、石川論文のエピグラフに付された注1の内容に若干の疑問を抱いた私は、念のためと思って矢内原忠雄『帝国主義研究』(白日書院、1948)の「はしがき」を確認してみました。
1948年当時、矢内原が置かれていた状況を知ることができる記録なので、少し引用してみます。

-------
はしがき

 私は昭和十二年すなはち日華事変の勃発した年の十二月、東京帝国大学教授の職を辞するまで十七年間、植民政策の講義を担当した。その間に私の書いたもので、単行本にまとまつたものは別として、論文集としては昭和二年弘文堂刊『植民政策の新基調』があるだけであつた。然るに終戦後全く私自身の期待と意思とに反して、私は大学の講壇に復帰し、国際経済論を受持つこととなつたが、学生の参考に資すべき私の著書はすべて絶版同様の状態にあつて、講義上甚しく不便を感ずるため、取敢ず旧作の中から選んでこの論文集を編むことにした。
 本書に収めた論文は昭和二年から十二年に至る十年間に執筆したもので、一昔も二昔も前の旧作であることは頗る気のひける次第である。昭和十二年末の辞職以来すでに十年、この間における日本の国際的地位の変化は、天にまで挙げられたカペナウムが陰府にまで落ちた如くであつた。東亜共栄圏の盟主と誇つた国が、連合軍の占領・管理を受けるものとなり、植民地を領有した国が、植民地はもちろん本国周辺の島嶼までも失ひ、海外に発展してゐた国民は無一文になつて引揚げて来た。東京帝国大学の名称は東京大学に変り、植民政策講座はすでに国際経済論の講座に改まつた。すべての国内的及び国際的情勢が全く一変し、急激に変貌しつつある。この中にあつて、十年乃至二十年前の論稿を集めて世に送ることは時代錯誤の感を免れないやうではあるが、それに拘らずこの事を私に実行させるには、また若干の理由がある。
 第一に、最近十年間の日本は、いはば旅路半にして正しき道を失ひ、暗き林の中を彷徨したのであつた。その中を無暗に突き進まうとしたが、己の中から出た一疋の牝狼に圧せられて高きにいたる望みを失ひ、太陽の黙するところへ押しかへされた。すべて道を失うた者は、分岐点まで引き返し、そこにて正しき道を見出さねばならない。日本が正しき道によりて高きにいたるためには、日華事変以前、満州事変以前、否、二・二六事件以前に目をかへして、そこに正道と邪路の分岐点を見出さねばならない。然るとき本書に収められた諸論文が、その分岐点に立てられた小さき路標であることを発見し、再び日本が邪路に陥らず、正道を踏みて国民復興の緒につくための一助ともして頂ければ、私の幸福これに如くものはないのである。【後略】
-------

ということで、エピグラフの「すべて道を失うた者は、分岐点まで引き返し、そこにて正しき道を見出さねばならない」の後に注1の「日本が正しき道によりて高きにいたるためには、日華事変以前、満州事変以前、否、二・二六事件以前に目をかへして、そこに正道と邪路の分岐点を見出さねばならない」が続く訳ですね。
ま、当然の結果であり、何もそんなことまで疑わなくてもよいのでは、と思われた方もいらっしゃるでしょうが、私にとって石川氏は「熊谷三郎直実」な人なので、警戒を怠ることはできないのであります。

「熊谷三郎直実を憚って」の謎
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3c7f6b273f209c017f8f2e9c3ee7c1f5
洋学紳士・淑女の伝言ゲーム
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/307b4efc0106f1e86dbc93aec33a36a4
意外な改変者
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fc7b788d8cc835f0fff35b9087bbdc0d
意外な改変者(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/65b7d43f347c7c9f27381acb5a70dd06
もう一つの『父・尾高朝雄を語る』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5410cd055a72078cfc76d10146bcd005

ところで、石川氏が論文のエピグラフとされた文章の直前、「己の中から出た一疋の牝狼に圧せられて高きにいたる望みを失ひ、太陽の黙するところへ押しかへされた」は、聖書その他のキリスト教の古典に典拠があるような感じがしますが、私もキリスト教関係は無教養なのでよく分かりません。
ご存じの方は教えてください。
まあ、「天にまで挙げられたカペナウムが陰府にまで落ちた如くであつた」くらいは一応理解できるのですが。

カペナウム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9A%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%83%A0

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする