投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月23日(金)22時22分51秒
関口精一氏が生れた八雲町は、
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町名は明治14年に徳川御三家の一つ、尾張徳川家(旧尾張藩)の17代当主徳川慶勝侯が、豊かで平和な理想郷建設を願い、古事記所載の日本最古の和歌である須佐之男命(スサノオノミコト)が読んだ「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」を引いて名付けました。
https://www.town.yakumo.lg.jp/soshiki/seisaku/content0310.html
とのことで、八雲神社も徳川家経由で熱田神宮から祭神を勧請したのだそうですね。
「デジタル八雲町史」によれば、「熱田神宮の分霊を祭っている神社は、全国でも唯一のものであることを誇りとして」おり、「祭神は、熱田大神・天照大神・素盞嗚尊・日本武尊・宮簀媛命・建稲種命であり、さらに昭和9年5月4日には、許可を得て八雲町開拓の始祖と仰ぐ徳川慶勝命を合祭した」のだとか。
http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history/ep13.htm
さて、関口氏の神社がらみのエピソードはもうひとつあります。(p10以下)
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大学(旧北海道帝国大学)は工学部機械科で、卒業したときは日中戦争が泥沼化し太平洋戦争直前でした。東京・蒲田の航空兵器の軍需工場に無理やり就職させられ、戦争末期の一九四四年二月に三重県の津市の工場へ疎開転勤を命じられたんです。こちらへ来てすぐ、会社から伊勢神宮に旅費会社持ちで参拝に行けって言われたんです。必勝祈願ですね。僕はいやだから、断ったんですよ。そんなバカげた参拝なんか意味ないからね。そのときは、何も言われなかったが、彼奴〔あいつ〕は気をつけろって言われていたと思いますよ。月に一回、特高(特別高等警察)が労務課に来てましたから。
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「卒業したときは日中戦争が泥沼化し太平洋戦争直前」とあるので、1938年から40年くらいでしょうか。
関口氏が旧制高校・大学時代に左翼運動をしていたのかは不明ですが、1915年生まれというのは微妙な年代で、旧制高校時代はともかく、大学時代には共産党中央は壊滅しており、組織的な運動はしたくても出来なかったでしょうね。
ま、関口氏はそれなりに立派な会社に入れたようなので、「月に一回、特高(特別高等警察)が労務課に来てました」という思わせぶりな表現はありますが、特段の華々しい活動歴はなかったのでしょうね。
ということで、神社がらみの二つのエピソードはありますが、それほど深刻な内容でもなく、もともと「あらゆる宗教に戦前から懐疑的だった」無神論者の関口氏が、戦前から「国家と宗教が癒着したら、絶対に個人が圧迫されると感じ」ていたかというと、ちょっとどうかな、という感じがします。
「控訴代理人の陳述」には、「控訴人は、昭和19年から今日に至るまで津市に居住する津市民であり、昭和30年津市議会議員に当選し、昭和42年春まで3期12年間特別職地方公務員たる市議会議員の職にあつた」とありますが、関口氏が市会議員となった1955年が共産党にとってどんな時期だったかというと、ちょうどこの年の7月、第6回全国協議会(六全協)が開かれ、武装闘争路線の放棄が決議され、「五〇年問題」の混乱に一応の解決が図られるものの、その後も分派抗争の名残りと除名の嵐が続きます。
日本共産党第6回全国協議会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E7%AC%AC6%E5%9B%9E%E5%85%A8%E5%9B%BD%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A
こうした難しい時期を乗り切っただけでも関口氏は相当のツワモノであり、厳しい抗争の中で独特の政治的カンを育てて、神社は政治運動に使えるな、という確信を得たのでしょうね。
そして、最初は周囲の共産党関係者の理解すら得られなかったものの、
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【前略】先に述べた靖国神社国家護持問題は、関口さんの一審敗訴後あたりから一気に政治問題化し、大きな問題として浮上し、各地で「反靖国」の集会が連日のようにもたれた。そのなかで、関口さんの小さな訴訟が「ミニ靖国訴訟」として俄然、注目を集めるようになった。
自民党衆議院議員が議員立法として靖国神社の国家護持を目的とした法案(靖国神社法案)を提案したのは一九六九年六月三〇日だが、そのころには弁護団は一〇人以上にもふくれ上がった。政教分離訴訟では、草分け的な弁護士として知られる今村嗣夫、小池健治両弁護士もこの年には加わっている。
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という具合に状況は大きく変化して行きます。(p14)
関口精一氏が生れた八雲町は、
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町名は明治14年に徳川御三家の一つ、尾張徳川家(旧尾張藩)の17代当主徳川慶勝侯が、豊かで平和な理想郷建設を願い、古事記所載の日本最古の和歌である須佐之男命(スサノオノミコト)が読んだ「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」を引いて名付けました。
https://www.town.yakumo.lg.jp/soshiki/seisaku/content0310.html
とのことで、八雲神社も徳川家経由で熱田神宮から祭神を勧請したのだそうですね。
「デジタル八雲町史」によれば、「熱田神宮の分霊を祭っている神社は、全国でも唯一のものであることを誇りとして」おり、「祭神は、熱田大神・天照大神・素盞嗚尊・日本武尊・宮簀媛命・建稲種命であり、さらに昭和9年5月4日には、許可を得て八雲町開拓の始祖と仰ぐ徳川慶勝命を合祭した」のだとか。
http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history/ep13.htm
さて、関口氏の神社がらみのエピソードはもうひとつあります。(p10以下)
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大学(旧北海道帝国大学)は工学部機械科で、卒業したときは日中戦争が泥沼化し太平洋戦争直前でした。東京・蒲田の航空兵器の軍需工場に無理やり就職させられ、戦争末期の一九四四年二月に三重県の津市の工場へ疎開転勤を命じられたんです。こちらへ来てすぐ、会社から伊勢神宮に旅費会社持ちで参拝に行けって言われたんです。必勝祈願ですね。僕はいやだから、断ったんですよ。そんなバカげた参拝なんか意味ないからね。そのときは、何も言われなかったが、彼奴〔あいつ〕は気をつけろって言われていたと思いますよ。月に一回、特高(特別高等警察)が労務課に来てましたから。
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「卒業したときは日中戦争が泥沼化し太平洋戦争直前」とあるので、1938年から40年くらいでしょうか。
関口氏が旧制高校・大学時代に左翼運動をしていたのかは不明ですが、1915年生まれというのは微妙な年代で、旧制高校時代はともかく、大学時代には共産党中央は壊滅しており、組織的な運動はしたくても出来なかったでしょうね。
ま、関口氏はそれなりに立派な会社に入れたようなので、「月に一回、特高(特別高等警察)が労務課に来てました」という思わせぶりな表現はありますが、特段の華々しい活動歴はなかったのでしょうね。
ということで、神社がらみの二つのエピソードはありますが、それほど深刻な内容でもなく、もともと「あらゆる宗教に戦前から懐疑的だった」無神論者の関口氏が、戦前から「国家と宗教が癒着したら、絶対に個人が圧迫されると感じ」ていたかというと、ちょっとどうかな、という感じがします。
「控訴代理人の陳述」には、「控訴人は、昭和19年から今日に至るまで津市に居住する津市民であり、昭和30年津市議会議員に当選し、昭和42年春まで3期12年間特別職地方公務員たる市議会議員の職にあつた」とありますが、関口氏が市会議員となった1955年が共産党にとってどんな時期だったかというと、ちょうどこの年の7月、第6回全国協議会(六全協)が開かれ、武装闘争路線の放棄が決議され、「五〇年問題」の混乱に一応の解決が図られるものの、その後も分派抗争の名残りと除名の嵐が続きます。
日本共産党第6回全国協議会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E7%AC%AC6%E5%9B%9E%E5%85%A8%E5%9B%BD%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A
こうした難しい時期を乗り切っただけでも関口氏は相当のツワモノであり、厳しい抗争の中で独特の政治的カンを育てて、神社は政治運動に使えるな、という確信を得たのでしょうね。
そして、最初は周囲の共産党関係者の理解すら得られなかったものの、
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【前略】先に述べた靖国神社国家護持問題は、関口さんの一審敗訴後あたりから一気に政治問題化し、大きな問題として浮上し、各地で「反靖国」の集会が連日のようにもたれた。そのなかで、関口さんの小さな訴訟が「ミニ靖国訴訟」として俄然、注目を集めるようになった。
自民党衆議院議員が議員立法として靖国神社の国家護持を目的とした法案(靖国神社法案)を提案したのは一九六九年六月三〇日だが、そのころには弁護団は一〇人以上にもふくれ上がった。政教分離訴訟では、草分け的な弁護士として知られる今村嗣夫、小池健治両弁護士もこの年には加わっている。
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という具合に状況は大きく変化して行きます。(p14)