投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月17日(土)11時42分40秒
石川健治氏は関口精一氏について、
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「生まれてからの体験と長い市会議員生活のなかで、憲法と地方自治を守り、筋をとおす私なりの任務」を自覚して、本人訴訟としてたったひとりの闘いを開始した、原告・関口精一の想念。「戦後神道指令で一掃されたかとみえた神社神道の儀式の温存復活は地味に陰湿にすすめられてきた」のであり、「その一つである公共建物建設に際しての地鎮祭をとらえて、この風潮の危険性を摘出し、未開拓の憲法判例をつくりあげ、伊勢靖国の闘いに参加しよう─平和運動の一つとして、憲法を暮らしに生かそう」という想いが、彼を内側からつきあげてきた。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0902501af7bc46a2f134585e1b14d912
などと賞賛されるのですが、もちろん批判する人もいますね。
石川氏が「神社サイドからは、そこに関口の党派性を嗅ぎ取ろうとする向きもあった」などと「地味に陰湿に」言及する「政教関係を正す会編『法と宗教』(経済往来社、1972年)259頁以下」を見てみると、これは「政教関係どうあるべきか」というタイトルの座談会の記録で、参加者とその肩書は次の通りです。
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出席者
福井康順(大正大学学長 早稲田大学名誉教授)
小野祖教(国学院大学教授)
相原良一(東京水産大学教授)
新美忠之(皇学館大学教授)
佐伯真光(相模原工業大学助教授)
司会
西田広義(国学院大学講師)
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そしてこの座談会は佐伯真光氏が関口精一氏に行ったインタビューを基礎資料として進められて行きます。
その冒頭を少し紹介してみると、
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病的に神経質・極端な関口理論
西田(司会)津の地鎮祭の問題で昨年五月名古屋高裁の伊藤淳吉裁判長が違憲判決をしたのがきっかけで、にわかにまた宗教と政治の問題が大きな関心をもたれるようになっているのはご承知のとおりですが、実は最近の雑誌「時の課題」(七月号)に、この地鎮祭訴訟のもともとの原告人である関口精一氏に佐伯先生がインタビューされた記録が出ております。(本書二九〇頁に転載)これは、実際に話し合われた全体の三分の一程度しか出されていないということで、その意味では決して十分とはいえないかもしれませんが、とにかく、この問題を起こした関口氏の動機なり基本的考え方が、かなりに理解されると思います。
そこで今日は、このインタビュー記事を手がかりにして、地鎮祭問題も含んで現在ひじょうに混乱しております宗教と政治の問題を、私どもはいったいどう考えて行ったらよいのか、というとして【ママ】ことについてお話合い願えれば幸いだと存じます。最初に「時の課題」のインタビューアーとして関口さんにお会いになった佐伯先生からお話しいただけませんか。
佐伯 私の感想は、あの記事の最後の「インタビューを終えて」という短い感想文にまとめておきました。インタビュー記事をお読み下さるとわかりますように、私はいろいろ政教関係に関する具体的な例をあげて、一々これはどうお考えになりますか、と関口さんにかなりしつこく聞いているのですが、それに対して関口さんは、そうですね、とか何とかいって、それに賛成なのか不賛成なのかわからないような返事をされ、具体的な質問には直接的な答えを避けてしまわれる。そして、最後には、「アメリカのことやクリスチャン内部のことは自分がいまとやかくいう問題ではない、それは信教の自由だから」というように逃げてしまわれる。ところが私は、地鎮祭問題は決して一つの孤立した問題ではなくて、すべての宗教に関連がある問題であって、具体的な諸事実に対する態度を明らかにしないで地鎮祭だけがいけないというのはおかしいじゃないか、という一貫した立場で質問していたわけです。それを、地鎮祭はいけないのだとしながら、それとは矛盾してくる問題が出されると、それには答えない。これがこのインタビューの一つの特徴だといえると思います。
第二に注意していただきたいのは、関口さんは共産党員でして、無神論の立場に立って地鎮祭訴訟を提起されたわけですが、その訴訟を支援している人たち、および弁護士はほとんどすべてキリスト教関係者だということです。このため関口さんは、キリスト教に不利になるようなことには触れようとしないか、あるいは弁護するという姿勢をとっているわけです。この点は、インタビューを冷静に読んでいただければ、誰でも気づくはずです。
そこで、関口氏はいったいどういう立場で地鎮祭訴訟をおこしたのかという動機ですが、要するにそれは神社神道に対する憎しみということなのですね。神社神道をやっつけるための手段としてこの訴訟をおこした。そして、この訴訟を支援してくれるものがあれば、たとえ共産主義・無神論の立場に反するものであっても、手を握ろうという態度をとっている。これが果たして政教関係のあり方をまじめに考える立場といえるのだろうか、私は甚だ疑問に思います。
そのいちばん良い例は、私が、政教分離をどこまで厳密にするかは国によっていろいろ違う、ということを欧米諸国の例を挙げて指摘しながら、「関口さんは日本の政教分離の壁を現実にはどこに設けたらよいと考えておられるのか」と聞きますと、「それは政治的な力関係だ」というんですね。「信教自由・政教分離の問題を力でもって解釈するという考え方には賛成できない」と私がかさねて聞いても、その意見をどこまでも固執する。このインタビューを注意深く読んでいただくと、そういう関口さんの考え方─神社神道への憎しみと、それを力関係だけで押し切ろうという考えでこの訴訟を起こされているのだということが、浮き上がってくるのではないかと思います。
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といった具合です。
先に引用した石川氏の関口評には「憲法」という表現が三回出てきますが、関口氏を「内側からつきあげてきた」のが「平和運動の一つとして、憲法を暮らしに生かそうという想い」なのか、それとも「神社神道に対する憎しみ」なのかは、立場によって見方が異なってきますね。
私がインタビューを読んだ印象としては、1915年生まれの古参の共産党員である関口氏は、政治的に利用できそうなものは何でも利用しようとする貪欲なマキャベリストで、煮ても焼いても喰えない古狸、といった感じですね。
そして、私にとって一番興味深いのは、「関口さんは共産党員でして、無神論の立場に立って地鎮祭訴訟を提起されたわけですが、その訴訟を支援している人たち、および弁護士はほとんどすべてキリスト教関係者だという」点です。
日本において、キリスト教と共産主義がかなり親和的であり、両者の「習合」が幅広く見られるのは何故なのか、というのは私の以前からの問題意識の一つです。
「鵜飼信成とジョー小出」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9657bdf226e23d1e87dc905efa4276c
「彼の容貌は野坂参三と酷似」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/be7bde0dedbd37b2a7437f60b48c66ee
石川健治氏は関口精一氏について、
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「生まれてからの体験と長い市会議員生活のなかで、憲法と地方自治を守り、筋をとおす私なりの任務」を自覚して、本人訴訟としてたったひとりの闘いを開始した、原告・関口精一の想念。「戦後神道指令で一掃されたかとみえた神社神道の儀式の温存復活は地味に陰湿にすすめられてきた」のであり、「その一つである公共建物建設に際しての地鎮祭をとらえて、この風潮の危険性を摘出し、未開拓の憲法判例をつくりあげ、伊勢靖国の闘いに参加しよう─平和運動の一つとして、憲法を暮らしに生かそう」という想いが、彼を内側からつきあげてきた。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0902501af7bc46a2f134585e1b14d912
などと賞賛されるのですが、もちろん批判する人もいますね。
石川氏が「神社サイドからは、そこに関口の党派性を嗅ぎ取ろうとする向きもあった」などと「地味に陰湿に」言及する「政教関係を正す会編『法と宗教』(経済往来社、1972年)259頁以下」を見てみると、これは「政教関係どうあるべきか」というタイトルの座談会の記録で、参加者とその肩書は次の通りです。
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出席者
福井康順(大正大学学長 早稲田大学名誉教授)
小野祖教(国学院大学教授)
相原良一(東京水産大学教授)
新美忠之(皇学館大学教授)
佐伯真光(相模原工業大学助教授)
司会
西田広義(国学院大学講師)
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そしてこの座談会は佐伯真光氏が関口精一氏に行ったインタビューを基礎資料として進められて行きます。
その冒頭を少し紹介してみると、
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病的に神経質・極端な関口理論
西田(司会)津の地鎮祭の問題で昨年五月名古屋高裁の伊藤淳吉裁判長が違憲判決をしたのがきっかけで、にわかにまた宗教と政治の問題が大きな関心をもたれるようになっているのはご承知のとおりですが、実は最近の雑誌「時の課題」(七月号)に、この地鎮祭訴訟のもともとの原告人である関口精一氏に佐伯先生がインタビューされた記録が出ております。(本書二九〇頁に転載)これは、実際に話し合われた全体の三分の一程度しか出されていないということで、その意味では決して十分とはいえないかもしれませんが、とにかく、この問題を起こした関口氏の動機なり基本的考え方が、かなりに理解されると思います。
そこで今日は、このインタビュー記事を手がかりにして、地鎮祭問題も含んで現在ひじょうに混乱しております宗教と政治の問題を、私どもはいったいどう考えて行ったらよいのか、というとして【ママ】ことについてお話合い願えれば幸いだと存じます。最初に「時の課題」のインタビューアーとして関口さんにお会いになった佐伯先生からお話しいただけませんか。
佐伯 私の感想は、あの記事の最後の「インタビューを終えて」という短い感想文にまとめておきました。インタビュー記事をお読み下さるとわかりますように、私はいろいろ政教関係に関する具体的な例をあげて、一々これはどうお考えになりますか、と関口さんにかなりしつこく聞いているのですが、それに対して関口さんは、そうですね、とか何とかいって、それに賛成なのか不賛成なのかわからないような返事をされ、具体的な質問には直接的な答えを避けてしまわれる。そして、最後には、「アメリカのことやクリスチャン内部のことは自分がいまとやかくいう問題ではない、それは信教の自由だから」というように逃げてしまわれる。ところが私は、地鎮祭問題は決して一つの孤立した問題ではなくて、すべての宗教に関連がある問題であって、具体的な諸事実に対する態度を明らかにしないで地鎮祭だけがいけないというのはおかしいじゃないか、という一貫した立場で質問していたわけです。それを、地鎮祭はいけないのだとしながら、それとは矛盾してくる問題が出されると、それには答えない。これがこのインタビューの一つの特徴だといえると思います。
第二に注意していただきたいのは、関口さんは共産党員でして、無神論の立場に立って地鎮祭訴訟を提起されたわけですが、その訴訟を支援している人たち、および弁護士はほとんどすべてキリスト教関係者だということです。このため関口さんは、キリスト教に不利になるようなことには触れようとしないか、あるいは弁護するという姿勢をとっているわけです。この点は、インタビューを冷静に読んでいただければ、誰でも気づくはずです。
そこで、関口氏はいったいどういう立場で地鎮祭訴訟をおこしたのかという動機ですが、要するにそれは神社神道に対する憎しみということなのですね。神社神道をやっつけるための手段としてこの訴訟をおこした。そして、この訴訟を支援してくれるものがあれば、たとえ共産主義・無神論の立場に反するものであっても、手を握ろうという態度をとっている。これが果たして政教関係のあり方をまじめに考える立場といえるのだろうか、私は甚だ疑問に思います。
そのいちばん良い例は、私が、政教分離をどこまで厳密にするかは国によっていろいろ違う、ということを欧米諸国の例を挙げて指摘しながら、「関口さんは日本の政教分離の壁を現実にはどこに設けたらよいと考えておられるのか」と聞きますと、「それは政治的な力関係だ」というんですね。「信教自由・政教分離の問題を力でもって解釈するという考え方には賛成できない」と私がかさねて聞いても、その意見をどこまでも固執する。このインタビューを注意深く読んでいただくと、そういう関口さんの考え方─神社神道への憎しみと、それを力関係だけで押し切ろうという考えでこの訴訟を起こされているのだということが、浮き上がってくるのではないかと思います。
-------
といった具合です。
先に引用した石川氏の関口評には「憲法」という表現が三回出てきますが、関口氏を「内側からつきあげてきた」のが「平和運動の一つとして、憲法を暮らしに生かそうという想い」なのか、それとも「神社神道に対する憎しみ」なのかは、立場によって見方が異なってきますね。
私がインタビューを読んだ印象としては、1915年生まれの古参の共産党員である関口氏は、政治的に利用できそうなものは何でも利用しようとする貪欲なマキャベリストで、煮ても焼いても喰えない古狸、といった感じですね。
そして、私にとって一番興味深いのは、「関口さんは共産党員でして、無神論の立場に立って地鎮祭訴訟を提起されたわけですが、その訴訟を支援している人たち、および弁護士はほとんどすべてキリスト教関係者だという」点です。
日本において、キリスト教と共産主義がかなり親和的であり、両者の「習合」が幅広く見られるのは何故なのか、というのは私の以前からの問題意識の一つです。
「鵜飼信成とジョー小出」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9657bdf226e23d1e87dc905efa4276c
「彼の容貌は野坂参三と酷似」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/be7bde0dedbd37b2a7437f60b48c66ee