投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月 4日(日)13時54分34秒
兵藤裕己氏は『難太平記』を極めて重視されていて、『難太平記』の記述から演繹的に『太平記』の成立過程等を論じられるのですが、私はその基本姿勢に疑問を感じています。
清水克行氏も兵藤説の影響を強く受けて、例えば『難太平記』に尊氏が「降参」したという表現があるので「現存する『太平記』では、穏当な内容に修正が施されているらしい」と推測されています。
そこで、本当に今川了俊が見た『太平記』には「降参」の二字があったのかを検討してみたところ、「降参」はあくまで了俊の解釈であって、『太平記』自体には存在しない表現だったろうと私は考えます。
『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2bdfb8e70f1853746d3cf35e2a023377
【中略】
『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その11)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/13d2c7d1d9e4c7c5733b2666510a0273
そして、『太平記』と比較するために『梅松論』についても若干の検討を行いました。
『梅松論』に描かれた尊氏の動向(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/357e20bc15e65222c6224cf0ba351441
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bca455df44a9716d2cc79c7c887e95d7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2a46f158b52f4cd899778e568c07a3c1
更に少し視点を変えて、今川了俊にとって望ましかった『太平記』とはどのようなものかを検討してみました。
今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aece715a762d543f9ca38f837fcc1d9b
【中略】
今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94556ec0daa839bb62c915888e3cb03f
そして、了俊が見た『太平記』は現存の古本系『太平記』とさほど変わらないものだったのではないか、即ち義満が独裁的な権力を振るい始める前に『太平記』は既に完成していて、以後は多少の改訂があった程度ではなかったかと考えました。
今川了俊が見た『太平記』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eecbc14f145040588e7cc0f42154c503
こう考えても『難太平記』の記述と矛盾はしないであろうことを確認するため、今川家関係者が『太平記』の青野原合戦の場面でどのように描かれているかを検討し始めたところ、その過程で尊氏・直義兄弟に鴆毒で毒殺されたという成良親王が極めて奇妙な存在に思えてきたので、成良親王の周辺を少し調べてみました。
西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e2844b23d43cf195bd74cfe1357212ac
【中略】
西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c570eabc77c671779a06556b40320714
そして成良親王が征夷大将軍に任じられた時期について、従来の定説(建武二年八月一日)が誤りではないかと思われたので、この点を更に詳しく調べてみました。
『相顕抄』を読んでみた。(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20125f93d50a0dec649a98e7c2385e70
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/62733682bbcdad95749abf9ad6000666
成良親王についての一応の整理と次の課題
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4bad1ac040c2c8369349a1ddaaeb597d
兵藤裕己氏は『難太平記』を極めて重視されていて、『難太平記』の記述から演繹的に『太平記』の成立過程等を論じられるのですが、私はその基本姿勢に疑問を感じています。
清水克行氏も兵藤説の影響を強く受けて、例えば『難太平記』に尊氏が「降参」したという表現があるので「現存する『太平記』では、穏当な内容に修正が施されているらしい」と推測されています。
そこで、本当に今川了俊が見た『太平記』には「降参」の二字があったのかを検討してみたところ、「降参」はあくまで了俊の解釈であって、『太平記』自体には存在しない表現だったろうと私は考えます。
『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2bdfb8e70f1853746d3cf35e2a023377
【中略】
『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その11)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/13d2c7d1d9e4c7c5733b2666510a0273
そして、『太平記』と比較するために『梅松論』についても若干の検討を行いました。
『梅松論』に描かれた尊氏の動向(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/357e20bc15e65222c6224cf0ba351441
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bca455df44a9716d2cc79c7c887e95d7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2a46f158b52f4cd899778e568c07a3c1
更に少し視点を変えて、今川了俊にとって望ましかった『太平記』とはどのようなものかを検討してみました。
今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aece715a762d543f9ca38f837fcc1d9b
【中略】
今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94556ec0daa839bb62c915888e3cb03f
そして、了俊が見た『太平記』は現存の古本系『太平記』とさほど変わらないものだったのではないか、即ち義満が独裁的な権力を振るい始める前に『太平記』は既に完成していて、以後は多少の改訂があった程度ではなかったかと考えました。
今川了俊が見た『太平記』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eecbc14f145040588e7cc0f42154c503
こう考えても『難太平記』の記述と矛盾はしないであろうことを確認するため、今川家関係者が『太平記』の青野原合戦の場面でどのように描かれているかを検討し始めたところ、その過程で尊氏・直義兄弟に鴆毒で毒殺されたという成良親王が極めて奇妙な存在に思えてきたので、成良親王の周辺を少し調べてみました。
西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e2844b23d43cf195bd74cfe1357212ac
【中略】
西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c570eabc77c671779a06556b40320714
そして成良親王が征夷大将軍に任じられた時期について、従来の定説(建武二年八月一日)が誤りではないかと思われたので、この点を更に詳しく調べてみました。
『相顕抄』を読んでみた。(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20125f93d50a0dec649a98e7c2385e70
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/62733682bbcdad95749abf9ad6000666
成良親王についての一応の整理と次の課題
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4bad1ac040c2c8369349a1ddaaeb597d