学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

四月初めの中間整理(その11)

2021-04-13 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月13日(火)21時42分12秒

歌人としての尊氏を検討し始めて「鎮西探題歌壇」まで進みましたが、ここで清水克行氏が『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)で言及されていた『臥雲日件録抜尤〔がうんにっけんろくばつゆう 〕 』享徳四年(1455)正月十九日条に登場する「松岩寺冬三老僧」について検討しました。
私が歌人としての尊氏に拘る理由の一つは、清水著によって矮小化されてしまった尊氏像を修正することにあります。
清水氏が尊氏に関する新史料を発掘された功績は大変なものですが、それと清水氏が導き出した「お調子者でありながらもナイーブ」「八方美人で投げ出し屋」といった尊氏像が正しいかは別問題です。
私は清水氏の尊氏理解は基本的な部分で誤っていると思っていますが、清水氏の誤解の相当部分は『臥雲日件録抜尤』の「松岩寺冬三老僧」エピソードに由来すると思われます。
そこで、そもそもこのエピソードが信頼できるのか、「松岩寺冬三老僧」が誰で、尊氏とどのような関係にあるのかを検討する必要を感じたのですが、清水著には手掛かりはなく、暫く暗中模索状態が続きました。
しかし、いろいろ調べた結果、「松岩寺」は現在は天龍寺の塔頭となっている「松厳院」の前身「松厳寺」で、かつて「鹿苑院末寺」であり、その地は元々「四辻宮之離宮」であって、開基は四辻善成の子の「松蔭和尚」であることが分かりました。
四辻善成は足利義満の大叔父ですから、そのゆかりの寺に尊氏のエピソードが伝えられていることは不自然ではなく、『臥雲日件録抜尤』の「松岩寺冬三老僧」の記事は信頼してよさそうです。

「松岩寺冬三老僧」について
「彼の子息で禅僧となった松蔭常宗は、嵯峨の善成邸に蓬春軒、のちの松厳寺(松岩寺)を開いた」(by 赤坂恒明氏)

さて、この記事によれば「尊氏毎歳々首吉書曰、天下政道、不可有私、次生死根源、早可截断云々」とのことで、尊氏は毎年、年頭の吉書で「天下政道、不可有私」と「生死根源、早可截断」と書いていたそうですが、後者は難解です。
ただ、私はこの表現に一種の自殺願望を見る清水氏の見解にはとうてい従うことはできません。
そこで、清水氏の描く「病める貴公子」としての尊氏像を批判的に検討してみました。

「八方美人で投げ出し屋」考(その1)~(その3)

その過程で問題となったのが尊氏と赤橋登子の婚姻の時期で、清水氏は義詮誕生の元徳二年(1330)をあまり遡らない時期とするのですが、この点については細川重男氏の批判があり、私は細川説が妥当と考えます。

(その4)(その5)

ここで亀田俊和氏の「新説5 観応の擾乱の主要因は足利直冬の処遇問題だった」(『新説の日本史』所収、SB新書、2021)を読んで、直冬について考え直すきっかけを得ました。

「尊氏が庶子の直冬を嫌っていたと書かれているのは、『太平記』だけなのです」(by 亀田俊和氏)

尊氏が庶子の直冬を嫌っていた訳ではないとすると、清水氏が描く尊氏の「薄明のなかの青春」も、ますます奇妙な物語になってきますね。

(その6)

「薄明のなかの青春」の一番の問題は、清水氏が近代的・現代的な家族観・結婚観・「青春」観で中世人を見ている点です。

(その7)

清水氏が「妾腹の二男坊」という表現を繰り返す点も、私は相当に問題だと思います。

「貞顕は、生まれながらの嫡子ではなかったのである」(by 永井晋氏)
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四月初めの中間整理(その10)

2021-04-13 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月13日(火)12時14分41秒

森茂暁氏の『足利尊氏』(角川選書、2017)は、尊氏関係の古文書の分析では最新研究でしょうが、そこに描き出されているのが宣伝文句に言う「これまでになく新しいトータルな尊氏像」かというと、そんなことは全然なくて、むしろ佐藤進一氏が半世紀以上前に描いた古色蒼然たる尊氏像と瓜二つですね。
さて、佐藤氏の「公武水火」論を検討した後、井上宗雄著『中世歌壇史の研究 南北朝期』に戻るべきか、それとも奥州将軍府・鎌倉将軍府をめぐる佐藤氏の「逆手取り」論の検討に進むべきか、ちょっと迷ったのですが、歌人としての尊氏を検討することが、いささか遠回りではあっても『太平記』や『梅松論』などの二次史料によって歪められていない尊氏に近づく最適なルートだろうと考えて、前者の道を進むことにしました。
歴史学の方では歌人としての尊氏は全くといってよいほど研究されていなくて、例えば佐藤和彦門下の早稲田大学出身者が中心となって編まれた『足利尊氏のすべて』(新人物往来社、2008)は、二十五人もの分担執筆者がいながら、誰一人として歌人としての尊氏について論じていません。
佐藤和彦氏自身、尊氏に尋常ならざる興味を持っておられたようですが、歌人としての尊氏に特に関心を持たれた様子はなさそうで、これは佐藤氏の立脚する基本的な歴史観(いわゆる「階級闘争史観」ないし「民衆史観」)の限界を示しているように私には思われます。

全然すべてではない櫻井彦・樋口州男・錦昭江編『足利尊氏のすべて』

ところで、この頃、清水克行氏『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)に出ていた『臥雲日件録抜尤〔がうんにっけんろくばつゆう〕』の享徳四年正月十九日条が気になって、少し調べていたので、

緩募:『臥雲日件録抜尤』の尊氏評について

という投稿をしてから、井上著に戻りました。
井上著については(その5)で「第二編 南北朝初期の歌壇」の「第五章 建武新政期の歌壇」の途中まで進んでいましたが、勅撰歌人を目指していた若き日の尊氏、そして尊氏の「北九州歌壇」での活動を確認するために該当箇所に戻りました。
尊氏は二条為冬という歌人と交流があったので、歌壇での為冬・為定の争いに関連して、この点も少し触れておきました。

井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その6)

森茂暁氏は尊氏の勅撰集初入集歌に関して、頓珍漢なことを言われていますね。

(その7)

ついで「北九州歌壇」で生まれたと思われる『臨永集』について概観しました。
「和歌四天王」の一人、浄弁が編んだと思われる私撰集『臨永集』は作者に武家歌人が多いのが特徴で、尊氏も三首入集しています。
なお、私は尊氏が元弘三年(1333)になって初めて大友貞宗と接触したのではなく、「北九州歌壇」の中で、二人が既に交流していた可能性も充分あるのではないかと思っています。

(その8)(その9)

「北九州歌壇」は井上氏の用語ですが、中世九州での文芸活動に詳しい川添昭二氏もこの歌壇(川添氏の用語では「鎮西探題歌壇」)について検討されているので、これも紹介しておきました。

川添昭二氏「鎮西探題歌壇の形成」(その1)(その2)
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四月初めの中間整理(その9)

2021-04-13 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月13日(火)10時46分13秒

従来、護良親王は後醍醐により征夷大将軍を「解任」、すなわち一方的にその地位を剥奪されたと考えられてきましたが、「解任」を裏付ける史料はなく、護良が元弘三年(1333)八月末ころに「将軍宮」といった称号を使わなくなったことが分かっているだけです。
そして、約一年の空白があって、建武元年(1334)十月に護良は逮捕・監禁されます。
「解任」後、直ちに護良が逮捕・監禁されてくれたら二人の関係は非常に分かりやすいのですが、この空白期間はいったい何なのか。
ちなみに白根靖大氏(中央大学教授)などは護良の逮捕・監禁が元弘三年十月のことだと誤解されていますね。

南北朝クラスター向けクイズ
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f646366405cf851acf7b8cf9ee85c1b
南北朝クラスター向けクイズ【解答編】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6d0f6f585a180760d494ad4f9b0c01f

白根氏の錯覚の元をたどると佐藤進一氏の「公武水火の世」論に至るのですが、佐藤氏は『太平記』とともに『梅松論』を妄信していて、『梅松論』の作者を「一人の歴史家」などと呼んでいます。
しかし、『太平記』と同様、『梅松論』もそれほど信頼できる書物ではないばかりか、『太平記』の作者が相当なレベルの知識人であるのに対し、『梅松論』の作者はせいぜいルポルタージュが得意な週刊誌の記者レベルですね。

「一人の歴史家は、この時期を「公武水火の世」と呼んでいる」(by 佐藤進一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8a70d5946e4e7f439c188d24dea7eb54

佐藤氏は『太平記』の「二者択一パターン」エピソードを信じ、かつ『太平記』流布本に従って護良の帰京は六月二十三日とするので、征夷大将軍任官も二十三日となります。
とすると、せっかく征夷大将軍に任官した護良が「解任」されるまでは実質僅か二か月であって、その僅か二か月の間に後醍醐・護良・尊氏間でものすごい政治的闘争があって、結局護良が敗退した、という極めて忙しいスケジュールになってしまいます。

佐藤進一氏が描く濃密スケジュール(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61ce17b3011e58911b01615de3e15c31
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/77c04b04be9f0c36d0f780efee94d1e3
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/786499f16170be4f041762c180b82c23

そして、この僅かな期間に「旧領回復令」や「朝敵所領没収令」といった法令も出されていて、この法令の性格を巡っては佐藤氏と黒田俊雄氏、小川信氏の間で古い論争があります。
私も「旧領回復令」について少し書いていますが、それは後醍醐と護良の人間関係に着目した場合、佐藤説には何とも不自然な感じが漂うといった印象論に過ぎません。
このあたり、旧来の議論の評価は私には荷が重いのですが、美川圭氏の『公卿会議─論戦する宮廷貴族たち』(中公新書、2018)の最後の方に、「旧領回復令」や「朝敵所領没収令」、そして「綸旨万能主義」や雑訴決断所の機能などに関する近時の学説が簡潔に整理されていたので、少し紹介してみました。

美川圭氏『公卿会議─論戦する宮廷貴族たち』(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8e989657e9472e017aebd35c8dd0841e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/932a4ebec574341dd46db74ab4c70443

また、私は吉原弘道説が後続の研究者たちによって基本的に支持され、現在では中先代の乱までは後醍醐と尊氏は決して対立関係にあった訳ではないことが多くの研究者の共通認識となっていると思っているのですが、ただ、九大系の大御所・森茂暁氏は未だに頑固な佐藤進一派ですね。
森氏によれば、建武新政発足の当初から後醍醐・護良・尊氏の三つ巴の緊張状態がずっと続いていて、護良が失脚しても「後醍醐にとっては依然として問題は解決され」ず、「中先代の乱を契機に」、「尊氏と後醍醐との政治路線の食い違い」が「表面化したことはまちがいない」のだそうです。
ただ、森氏のこのような認識は『梅松論』に大きく依存しています。
森氏が一次史料の取り扱いには極めて厳格なのに、『太平記』や『梅松論』のような二次史料に対しては極めて甘いことが私にはどうにも不思議なのですが、この点でも森氏は佐藤氏の正統的な後継者ですね。

「発給文書1500点から見えてくる新しい尊氏像」(by 角川書店)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/47c3a5af51f71a59ad6472f5f65492c1
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