学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その11)

2021-04-18 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月18日(日)11時27分3秒

※追記(2022年9月2日)
タイトルが「石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その11) 」となっていますが、全十七回の中間整理の直前の記事を同名にしていたので、正しくは「石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その12) 」とすべきでした。
後続の投稿のタイトルも順次(その13)(その14)とすべきでしたが、修正すると他のページからのリンクに混乱が生じる恐れがあるので、そのままとします。
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昨年九月に『太平記』に取り組み始めて以降、三百近い投稿をしたので、自分でも「あれはどこに書いたっけ」といった状態だったのですが、全十七回の中間整理を終えて、いろいろすっきりしました。
さて、中間整理の直前、3月31日の投稿は次のものです。

井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その13)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e5e689d008c3e6a59f3bbcd457b0b45

ここでは『太平記』と『梅松論』に依拠する多くの歴史研究者の尊氏像と、「建武二年内裏千首」に寄せられた尊氏詠二首から窺える尊氏像が食い違うことを指摘しました。
そして、もう一つ、この時期の尊氏の精神状態を伺わせる極めて興味深い歌があることに触れました。
それは『風雅和歌集』九三三ですが、石川泰水氏の「歌人足利尊氏粗描」からこの歌に関係する箇所を見て行きたいと思います。
石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その10)で紹介した、

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 だがこの後間もなく、結局両者は決裂した。尊氏の、合戦の功労者に勝手に恩賞を与えるといった行動が後醍醐天皇の堪忍袋の緒を切らせ、十一月、遂に尊氏討伐の命が下る。都から下された新田義貞・尊良親王らによる討伐軍を打破した尊氏・直義軍は西に向かって侵攻、翌一三三六年正月には入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山への退去を余儀なくされた。だが奥州から北畠顕家率いる援軍が到着したのを機に、戦局は一変する。楠木正成・新田義貞の軍にも敗れた足利軍は、西下して九州で軍勢の立て直しを図ることになる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/70404a6c6ce74f0825a88c6a3bd3be77

に続く部分です。(p16)

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      世の中さわがしく侍りけるころ、三草の山をとほりて大蔵
      谷といふ所にて
                       前大納言尊氏
  今むかふ方は明石の浦ながらまだはれやらぬわが思ひかな
                        (風雅九三三)

 「大蔵谷」は明石の北東の地。二月十・十一日の西宮打出浜や豊島河原での戦に敗れ、大蔵谷から明石の浦に向かう、敗走の道中での詠という事になる。「明石」に「明し」を響かせるのは常套的手法。「明し」を連想させる「明石」に向かいながらも、「明し」とは程遠い暗澹たる気分だ、とその時の心境を詠んだ歌だが、詞書に大蔵谷の地名が明記されている事から察するに、大蔵谷の「くら」の音が「暗し」に通じる事に発想を得たものではなかったかと想像したい。
 官軍に敗れ敗走する朝敵の将、それがこの時の尊氏の立場である。『太平記』が伝えるようにこれ以前に持明院統の錦の御旗を得るための使いを出立させていたとしても、まだ思惑通りに事態が進む確証もない。九州まで西下しても、今の己の立場ではどれだけの軍勢を召集できるか不安もあっただろう。さぞや沈痛の思いであったろうと推測されるのだが、この一首に思い詰めた深刻さが欠如する気がするのは稿者だけであろうか。内容はさておき、詠みぶりにどこか飄々としたものを感じてしまう。尊氏はカリスマ性を備え武士達の信望を集めた人物であったのだろうが、他方、鎌倉で天皇からの追討令を受けたショックで隠棲しようとする気弱さ、繊細さも持ち合わせていたらしい。その両面性、気分や行動の振幅の大きさから彼の躁鬱的気質が指摘されたりもするのだが、しかし絶望的状況の中で詠まれたこの和歌の飄逸ぶりに、そうした精神的分析ではなかなか説明しにくい、また別の尊氏像が垣間見えるように思われる。こうした傾向が彼の和歌乃至和歌活動に多く看取されるとは言い難いが、尊氏にとっての和歌というものの意味を考える際に稿者には気になってならないのである。
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「その両面性、気分や行動の振幅の大きさから彼の躁鬱的気質が指摘されたりもするのだが」に付された注(8)には、

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佐藤進一氏『日本の歴史九 南北朝の動乱』(中央公論社、昭和四〇)が尊氏の性格の多様性をそう指摘し、例えば近年の峰岸純夫氏『足利尊氏と直義 京の夢、鎌倉の夢』(吉川弘文館、平成二一・六)もそれに従っている。
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とあります。
さて、「この一首に思い詰めた深刻さが欠如する気がするのは稿者だけ」ではなく、私もそう思いますし、私も「内容はさておき、詠みぶりにどこか飄々としたものを感じてしま」います。
石川氏の言われる「絶望的状況の中で詠まれたこの和歌の飄逸ぶり」は、言い換えると、必死に敗走する尊氏をどこかの高いところから眺めているもう一人の尊氏がいて、「なかなか大変だね」と他人事のように笑っているような感じでしょうか。
また、石川氏は指摘されていませんが、明石という地名からは『源氏物語』も連想されて、尊氏は自身を明石に向かう光源氏に模して楽しんでいるような感じも受けます。

須磨 (源氏物語)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E7%A3%A8_(%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E)
明石 (源氏物語)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3_(%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E)
コメント
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