投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月11日(日)13時57分12秒
尊氏が鴆毒で直義を毒殺したという『太平記』のエピソード、田中義成・高柳光寿・佐藤進一・佐藤和彦・伊藤喜良・村井章介等の錚々たる歴史学者が信じ込んでいるのですが、中でも興味深いのは永原慶二氏の見解です。
歴史学研究会の重鎮で、容姿端麗、文章も極めて明晰な永原氏の『大系日本の歴史6 内乱と民衆の世紀』(小学館、1988)を読んでみたところ、いくら一般書とはいえ、ずいぶん安っぽい活劇風の文章が続き、永原氏の別の顔を見た感じがしました。
永原慶二氏「尊氏は鎌倉に入り、その月のうちに直義を毒殺して葬り去った」(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ca2ccc6f85cfed88d01dc069dfe90bd
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d6e52e7952139f28d673368f17f89b0b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a22c3f571c22453c54d08f5fd20d160f
南北朝時代を現実に生きた「民衆」に比べると、永原氏を代表とする現代の生真面目な実証主義の歴史研究者たち、特に「科学運動」や「民衆史研究」が大好きな左翼インテリの歴史研究者たちは、『太平記』の作者にとって、どんな作り話にも感動してくれる理想的な読者・聴衆であり、良いカモだったカモしれない、と私は思います。
(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e51727326e03b4432bf1c159dba14ca8
さて、私は『太平記』の征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソードをいずれも創作と考えますが、では、『太平記』が、建武の新政の入口と出口という重要なポイントに、こうした創作エピソードを置いた目的は何か。
私はそれを、建武の新政において後醍醐と尊氏は最初から最後まで対立していた、「公家一統」などというのは出発点から極めて無理の多い体制であって、所詮は短期間で崩壊する運命だったのだ、という歴史観を広めるためだったと考えます。
永原氏は、このような「『太平記』史観」のプロパガンダを最も素直に受け入れた研究者の一人と思われますが、では、このようなプロパガンダにより、どのような歴史の実像が消されてしまったのか。
私が考える建武新政期の実像は永原氏と正反対で、後醍醐と尊氏は最初から全く対立しておらず、後醍醐の独裁どころか実際には後醍醐と尊氏の共同統治といってもよい公武協調体制だった、しかし尊氏は権勢を誇らず、極めて控えめな立場で後醍醐の理想の実現に実務的に尽力していた、というものです。
「建武新政以来二年半にわたってくすぶりつづけてきた」のは、むしろ足利家内部の尊氏派(公武協調派)と直義派(武家独立派)の対立であって、中先代の乱をきっかけに尊氏派が直義派の説得に負けて、足利家が武家独立派で一本化された、と私は考えます。
(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/170f21101bf62fca93341b8fe4239f88
このように考えると、天龍寺の建立なども従来の諸学説より合理的な説明ができるのではないかと思います。
「尊氏がこの寺の建立にかけた情熱は常軌を逸している」(by 亀田俊和氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/57f58c8bb19e2bba62a18017497c8651
そして、私は後醍醐と尊氏の人間関係の核心は和歌の世界に鮮明に現れていると考えているのですが、歌人としての尊氏を検討する前に、後醍醐と尊氏の関係について、呉座勇一氏編『南朝研究の最前線』(洋泉社、2016)に基づき、近時の学説の状況を確認しておきました。
「支離滅裂である」(by 細川重男氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/622f879dac5ef49c38c9d720c9566824
「建武政権が安泰であれば、尊氏は後醍醐の「侍大将」に満足していたのではなかろうか」(by 細川重男氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61b3c1e6855c84111ec08862a7c0327b
呉座氏は「戦前以来の公武対立史観と戦後歴史学の基調である階級闘争史観が結びついて、復古的な公家と進歩的な武家が対立する図式が強調され、「建武政権・南朝は、武士の世という現実を理解せず、武士を冷遇したから滅びた」という評価が浸透した」とされますが、この戦後歴史学のいわば「保守本流」ともいうべきの歴史観は、実は『太平記』の歴史観と瓜二つ、全く同じですね。
従って、戦後歴史学は『太平記』と極めて親和的です。
他方、最近の学説は、これも呉座氏が強調されるように「足利尊氏は建武政権内で厚遇され、後醍醐天皇とも良好な関係を築いており、主体的に武家政権の樹立を志向していたとは考えられない」という認識で概ね一致しているようですが、護良親王の位置づけについてはどうなのか。
私の見るところ、後醍醐と護良との関係については、呉座氏や細川重男氏を含む殆どの研究者が「『太平記』史観」の影響から脱しておらず、脱出の可能性も見えていないように思われます。
「「建武政権・南朝は異常な政権」という思い込みから自由になるべき」(by 呉座勇一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/894b71cf91605248a63c039c58a8f549
「「史料は無いが、可能性はある」という主張は、歴史研究において禁じ手」(by 細川重男氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f8af9d296e77523b21f345d6f27ab22c
尊氏が鴆毒で直義を毒殺したという『太平記』のエピソード、田中義成・高柳光寿・佐藤進一・佐藤和彦・伊藤喜良・村井章介等の錚々たる歴史学者が信じ込んでいるのですが、中でも興味深いのは永原慶二氏の見解です。
歴史学研究会の重鎮で、容姿端麗、文章も極めて明晰な永原氏の『大系日本の歴史6 内乱と民衆の世紀』(小学館、1988)を読んでみたところ、いくら一般書とはいえ、ずいぶん安っぽい活劇風の文章が続き、永原氏の別の顔を見た感じがしました。
永原慶二氏「尊氏は鎌倉に入り、その月のうちに直義を毒殺して葬り去った」(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ca2ccc6f85cfed88d01dc069dfe90bd
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d6e52e7952139f28d673368f17f89b0b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a22c3f571c22453c54d08f5fd20d160f
南北朝時代を現実に生きた「民衆」に比べると、永原氏を代表とする現代の生真面目な実証主義の歴史研究者たち、特に「科学運動」や「民衆史研究」が大好きな左翼インテリの歴史研究者たちは、『太平記』の作者にとって、どんな作り話にも感動してくれる理想的な読者・聴衆であり、良いカモだったカモしれない、と私は思います。
(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e51727326e03b4432bf1c159dba14ca8
さて、私は『太平記』の征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソードをいずれも創作と考えますが、では、『太平記』が、建武の新政の入口と出口という重要なポイントに、こうした創作エピソードを置いた目的は何か。
私はそれを、建武の新政において後醍醐と尊氏は最初から最後まで対立していた、「公家一統」などというのは出発点から極めて無理の多い体制であって、所詮は短期間で崩壊する運命だったのだ、という歴史観を広めるためだったと考えます。
永原氏は、このような「『太平記』史観」のプロパガンダを最も素直に受け入れた研究者の一人と思われますが、では、このようなプロパガンダにより、どのような歴史の実像が消されてしまったのか。
私が考える建武新政期の実像は永原氏と正反対で、後醍醐と尊氏は最初から全く対立しておらず、後醍醐の独裁どころか実際には後醍醐と尊氏の共同統治といってもよい公武協調体制だった、しかし尊氏は権勢を誇らず、極めて控えめな立場で後醍醐の理想の実現に実務的に尽力していた、というものです。
「建武新政以来二年半にわたってくすぶりつづけてきた」のは、むしろ足利家内部の尊氏派(公武協調派)と直義派(武家独立派)の対立であって、中先代の乱をきっかけに尊氏派が直義派の説得に負けて、足利家が武家独立派で一本化された、と私は考えます。
(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/170f21101bf62fca93341b8fe4239f88
このように考えると、天龍寺の建立なども従来の諸学説より合理的な説明ができるのではないかと思います。
「尊氏がこの寺の建立にかけた情熱は常軌を逸している」(by 亀田俊和氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/57f58c8bb19e2bba62a18017497c8651
そして、私は後醍醐と尊氏の人間関係の核心は和歌の世界に鮮明に現れていると考えているのですが、歌人としての尊氏を検討する前に、後醍醐と尊氏の関係について、呉座勇一氏編『南朝研究の最前線』(洋泉社、2016)に基づき、近時の学説の状況を確認しておきました。
「支離滅裂である」(by 細川重男氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/622f879dac5ef49c38c9d720c9566824
「建武政権が安泰であれば、尊氏は後醍醐の「侍大将」に満足していたのではなかろうか」(by 細川重男氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61b3c1e6855c84111ec08862a7c0327b
呉座氏は「戦前以来の公武対立史観と戦後歴史学の基調である階級闘争史観が結びついて、復古的な公家と進歩的な武家が対立する図式が強調され、「建武政権・南朝は、武士の世という現実を理解せず、武士を冷遇したから滅びた」という評価が浸透した」とされますが、この戦後歴史学のいわば「保守本流」ともいうべきの歴史観は、実は『太平記』の歴史観と瓜二つ、全く同じですね。
従って、戦後歴史学は『太平記』と極めて親和的です。
他方、最近の学説は、これも呉座氏が強調されるように「足利尊氏は建武政権内で厚遇され、後醍醐天皇とも良好な関係を築いており、主体的に武家政権の樹立を志向していたとは考えられない」という認識で概ね一致しているようですが、護良親王の位置づけについてはどうなのか。
私の見るところ、後醍醐と護良との関係については、呉座氏や細川重男氏を含む殆どの研究者が「『太平記』史観」の影響から脱しておらず、脱出の可能性も見えていないように思われます。
「「建武政権・南朝は異常な政権」という思い込みから自由になるべき」(by 呉座勇一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/894b71cf91605248a63c039c58a8f549
「「史料は無いが、可能性はある」という主張は、歴史研究において禁じ手」(by 細川重男氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f8af9d296e77523b21f345d6f27ab22c