学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

四月初めの中間整理(その17)

2021-04-17 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月17日(土)11時28分16秒

元弘三年(1333)十二月、後伏見院皇女珣子内親王が中宮となり、立后の屏風に歌人が詠を進めるという雅な行事が行われましたが、これが尊氏の「都の歌壇へのデビュー」です。
このデビュー作が掲載された『新千載集』は尊氏の執奏により撰集が進められた勅撰集で、その完成は尊氏没の翌延文四年(1359)ですから、珣子内親王立后の実に二十六年後です。
『新千載集』は従来の勅撰集とはかなり異質な存在ですが、ぞの特徴をひと言でいえば、『新千載集』は尊氏が歌の世界に造った天龍寺のようなものですね。
そして『新千載集』では尊氏詠が「後醍醐院御製」の直後に排列されています。

(その4)(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5674e4f0410cd34ca880aa604f23257
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e8a9417d6129f8d3aa749ddba5c58766

珣子内親王立后の屏風和歌はなかなか興味深いので、ここで石川論文を離れて、少し丁寧に検討してみました。
尊氏詠が「後醍醐院御製」と同じ場面に置かれたことは、後醍醐の尊氏に対する破格の優遇を可視化しているものと考えてよさそうです。

(その6)(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b7cb58999f6cfb1c349692b774b35aa5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6bae56a59d702d0ba85024e2474e671c

石川論文に戻って、尊氏と二条派、特にその総帥である為世との交流を確認しました。

(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0507909968d110277ebbec09452f5e6c

そして、中先代の乱の直後に行われたと思われる「建武二年内裏千首」の検討に入りました。
この「建武二年内裏千首」は後醍醐と尊氏の関係を考える上で極めて興味深い素材で、従来の歴史学の通説的枠組みと国文学の歌壇史研究がどうにも整合的でないように思えてきます。
歴史的背景に関する石川氏の叙述は概ね佐藤進一説に拠っていますが、多少の誤解もありますね。

(その9)(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7af777a4ef4af1a8f901a142d74daca6
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/70404a6c6ce74f0825a88c6a3bd3be77

ここで石川論文を離れて、「建武二年内裏千首」が行なわれた時期と尊氏の動向の関係を探るために、久しぶりに井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』を見ることにしました。

井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その10)~(その12)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1e5641a8f481ca68ea69e51099d3f706
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b94bd591114821266178563a1ae7d0f4
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0bf06ecacd790d39d7e14f7740533296

井上氏は「建武二年内裏千首」の題が尊氏に与えられた時期について「十月中旬、中院具光が勅使として関東に下るのであるが、それに付して奉ったのであろうか」とされていますが、中院具光の勅使云々は『太平記』には出てこない話です。
『梅松論』には「勅使中院蔵人頭中将具光朝臣」が登場しますが、その派遣時期は不明です。
ちょっと不思議に思って『大日本史料 第六編之二』を見たら、関係記事が十月十五日にありましたが、これは考証と記述の仕方に相当問題がある雑な記事でした。
私は中院具光の発遣は九月初めだろうと考えます。

『大日本史料』建武二年十月十五日条の問題点(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/922a40e05ad18c71fbe1ac76dde7f549
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/98f75d77eb2d51b956fd26d01a2d47a8

さて、「建武二年内裏千首」に寄せられた尊氏詠二首を見ると、この時点での尊氏の精神状態が極めて安定した、清澄とでもいうべき心境にあったことを窺うことができます。
しかし、これでは多くの歴史研究者の認識とのズレが大きくなります。
『太平記』や『梅松論』に描かれた中先代の乱後の尊氏の対応は極めて理解しにくく、多くの歴史研究者は尊氏を支離滅裂、頭のおかしい人とまで評価してきましたが、かかる評価は「建武二年内裏千首」の尊氏詠を素直に眺めた場合の尊氏像と食い違いが生じます。
この食い違いを確認したことが先月までの到達点です。

井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その13)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e5e689d008c3e6a59f3bbcd457b0b45
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四月初めの中間整理(その16)

2021-04-17 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月17日(土)10時43分9秒

ここまで準備して、やっと歌人としての足利尊氏の検討に入りました。
一般的に入手可能な文献の中で、私にとってもっとも参考になったのは石川泰水氏(故人、元群馬県立女子大学教授)の「歌人足利尊氏粗描」(『群馬県立女子大学紀要』32号、2011)という論文ですが、石川論文を検討する前に、予備的知識の確認を兼ねて小川剛生氏の見解(『武士はなぜ歌を詠むか』、角川叢書、2008)を少し見ておきました。

「かれの生涯は悪のパワーがいかにも不足している」(by 小川剛生氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7fcfa9ec73c0ad9ffb8b8e32b3321baa
「このような謙遜は、いっぱしの歌人にこそ許されるであろうから」(by 小川剛生氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e21bf79c1dfb7500af3033d3120fb18d

小川著の関東歌壇関係の記述は省略して、石川論文の検討に入りました。
とにかく尊氏の場合、歌人としてあまりに早熟であることがその一番の特徴ですね。
普通の武家歌人の場合、歌は清水克行氏の言われるところの「心の慰め」程度の存在ですが、尊氏は明らかに異質です。

石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/95d43d153e815377a9b8dfaaa338d686

石川氏は「この時代、既に東国にも和歌に代表される都の文化が十分に浸透していた事は言うを俟たないが、それにしても十代半ばにして都の勅撰集撰者のもとに詠草を送る早熟さには驚きを禁じ難い」とされています。
尊氏が「十代半ばにして単に抒情の発露として和歌という手段を選んでいたに留まら」ず、「十代半ばにして勅撰集歌人となる栄誉を欲していた」「そういう野心を東国の地で育んでいた」ことは重要ですね。
もちろん、この「野心」を政治的野心に直結させることはできませんが、尊氏の視野が若年から極めて広かったことは注目してよいと考えます。
上杉家からは京都の最新情報が頻繁に寄せられたでしょうし、赤橋登子の姉妹、正親町公蔭の正室・赤橋種子からも京都情報が到来したはずです。
また、登子の兄・鎮西探題の赤橋英時と「平守時朝臣女」からは九州、そして海外情報ももたらされたはずですね。
尊氏のみならず、登子も視野の広い、極めて知的な女性だったと私は想像します。

(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/83edabc3dd73379e3c1ff52f775a36ad

『臨永集』の尊氏の三首は紹介済みですが、『松花集』の尊氏詠二首も紹介しておきました。
『松花集』は、『新編国歌大観 第6巻 私撰集編 2』(角川書店、1988)の福田秀一・今西祐一郎氏の解題によれば、「撰者は未詳だが、おそらく浄弁(当時九州在住か)が関与しているであろう。作者の官位表記から、元徳三年(一三三一)夏秋頃、臨永和歌集と同時期の成立と推定されている」という歌集です。
しかし、全く同時期に浄弁が『臨永集』と『松花集』という「鎮西探題歌壇」を中心とする私撰集を二つ編むというのも少し変な話で、別人の方が自然です。
『松花集』では「同じ心を」という詞書のある歌がなかなか興味深く、私は『松花集』は赤橋英時が編者の可能性も大きいのではなかろうかと思っています。

(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/04da7d29ffd4b8217df1b98e5b6ebbc4
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四月初めの中間整理(その15)

2021-04-17 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月17日(土)09時51分34秒

「平守時朝臣女」は実際には赤橋久時娘・守時養女であり、赤橋登子とは姉妹の関係にあるのではなかろうかという関心から、「鎮西探題歌壇」に戻って、『臨永集』に掲載された「平英時」(赤橋英時)・「平貞宗」(大友貞宗)・「藤原貞経」(少弐貞経)・「源高氏」(足利尊氏)、そして「平守時朝臣女」の歌を実際に確認してみました。
「平守時朝臣女」の歌は平明な二条派風で、しかもあまり若々しい雰囲気ではなく、やはりこの女性は赤橋英時・赤橋登子の姉妹ではないか、という感じがします。
ただ、種子の歌は残っていないようなので、両者の歌風を比較することはできず、結局、「赤橋三姉妹」なのか、それとも種子=「平守時朝臣女」なのかは今後の課題です。

軍書よりも 歌集に悲し 鎮西探題(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/33a2844d936f72223e9031a8676265e7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c67ad23eea2cf42520501814bbcd4bc3

ついでに『太平記』に描かれた鎮西探題崩壊の過程も少し見ておきました。
元弘三年(1333)三月には少弐貞経・大友貞宗に裏切られた菊池武時が鎮西探題側に誅殺されますが、死に臨んだ菊池武時が「古里に今夜ばかりの命とも知らでや人のわれを待つらん」という歌を詠んだエピソードは「袖ヶ浦の別れ」として古来『太平記』でも屈指の名場面とされてきました。
ただ、菊池武時は歌人ではなかったようで『臨永集』にも登場しておらず、この歌は『太平記』の創作のようですね。

『太平記』に描かれた鎮西探題・赤橋英時の最期(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/744791400c717309a7ad7812b9744b66
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/72be48ea101ce58dfed89bf4991db12e

結局、鎮西探題崩壊の過程で『太平記』に魅力的な武人として描かれているのは菊池武時・武重父子だけで、大友貞宗と少弐貞経・頼尚父子は散々です。
ここだけ読むと、『難太平記』の「この記の作者は宮方深重の者にて」という表現もけっこう説得力があるように思えます。

(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0070c27456467a947a42b9914df9c636

さて、ここで尊氏周辺のそれぞれに個性的な「新しい女」たちをまとめておきました。
このような「新しい女」たちが尊氏周辺に集中しているように見えるのは果たして偶然なのか。
私はそれは決して偶然ではなく、尊氏そして直義は単なる血統エリートではなく、安達・金沢・赤橋・上杉という鎌倉の「特権的支配層」の中でも最も知的なグループが集中した地点に生まれた知的エリートであって、恵まれた教育環境の中で新しい時代を切り拓く準備を十分に重ねた上で歴史の表舞台に登場した存在だと考えます。

尊氏周辺の「新しい女」たち(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8a7cd1f8dd39a682a958c4a884b266c1
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f4e978a0ffdad8e70040c906f49a6e8f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d065c447bda97b338d818447a5e07572

そして尊氏周辺の「新しい女」たちを検討することで、私の想定する尊氏像が清水克行氏の描く「八方美人で投げ出し屋」とは全く異なることも、より明確になりました。
清水氏が描いた「薄明のなかの青春」は大半が単なる妄想であろうと私は考えています。

「薄明のなかの青春」との比較
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f46cb25a9ded0de5ed0cd6a7f854c40
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする