学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「持明院殿の院宣」を尊氏が得た時期と場所(その2)

2021-04-19 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月19日(月)13時54分57秒

『太平記』によれば、建武三年(1336)二月初旬、尊氏が「今度の京都の合戦に、御方毎度打ち負けぬる事、全く戦ひの咎にあらず。つらつら事の心を案ずるに、ただ尊氏徒らに朝敵なるゆゑなり。されば、いかにもして持明院殿の院宣を申し賜つて、天下を君と君との御争ひになして、合戦を致さばやと思ふなり」と思案して、「薬師丸」に院宣取得を命じて以降、実際に尊氏が三宝院賢俊から「持明院殿の院宣」を得るまでに三ヶ月かかったのだそうです。
この間、『太平記』には多々良浜の合戦を始めとする膨大なエピソードが記されますから、『太平記』を普通に読んでいる読者にとっては、「薬師丸」のことなど殆ど忘れたころにやっと「持明院殿の院宣」が到来するというのんびりした展開です。
これは多々良浜の合戦等の九州での戦争に際して、「持明院殿の院宣」は何の役にも立たなかった、ということでもあります。
他方、『梅松論』によれば、そもそも「持明院殿の院宣」を得ようとの発想は尊氏自身のものではなく、赤松円心の献策によったとされています。
二月十一日の夜更け、円心は尊氏に対し、いったん西国に移動して兵を休めることとともに、

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凡そ合戦には旗を以て本とす。官軍は錦の御旗を先立つ。御方は是に対向の旗無きゆえに朝敵に相似たり。所詮持明院殿は天子の正統にて御座あれば、先代滅亡以後定めて叡慮心よくもあるべからず。急に院宣を申し下されて錦の御旗を先立てらるべきなり。

http://hgonzaemon.g1.xrea.com/baishouron.html

という献策を行ないます。
そして、尊氏らが船に乗って九州に落ちる途中、備後の鞆に着いたところで、

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 かくのごとく定め置れて備後の鞆に御着きある所に、三宝院僧正賢俊、勅使として持明院より院宣を下さる。是に依りて人々勇みあへり。「今は朝敵の義あるべからず」とて、錦の御旗を揚ぐべきよし国々の大将に仰せ遣はされけるこそ目出度けれ。
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という展開となります。
円心の手配は極めて手際よく、尊氏が賢俊から院宣を得たのは二月中ですね。
この後、「建武三年二月廿日長門国赤間の関に波風のわずらひなく御船着き給ふ」とあるので、より正確には二月中旬ということになり、『梅松論』での日程は『太平記』よりも遥かにスピーディーですが、特に無理な展開という訳でもありません。
『太平記』と『梅松論』で尊氏が「持明院殿の院宣」を得た日程を比較すると、『太平記』はどうにも間延びした感じで、『梅松論』の方が自然な流れであり、多くの歴史研究者は『梅松論』を信頼しているようですね。
さて、ここで岩佐氏の記述に戻ると、「太平記によれば尊氏は侍童薬師丸(熊野別当道有)を三草山から京に遣わして、光厳院の院宣を請うた」は、院宣が後伏見院のものか光厳院のものかという別の論点はともかくとして、問題はありません。
しかし、「九州に落ちるが、その途次、光厳院の院宣を得」は、『太平記』ではなく『梅松論』に基づいた記述であり、『太平記』で一貫していません。
そして、より信頼できる『梅松論』によれば、「三草山」は院宣獲得にとって特に意味のある場所ではなく、「「三草山」は尊氏にとっても光厳院にとっても記念すべき地名」ということにはならないですね。

参考:現代語訳『梅松論』(芝蘭堂サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou31.html
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou32.html
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「持明院殿の院宣」を尊氏が得た時期と場所(その1)

2021-04-19 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月19日(月)13時30分58秒

岩佐美代子氏は【補説】で「太平記によれば尊氏は侍童薬師丸(熊野別当道有)を三草山から京に遣わして、光厳院の院宣を請うた。二月十日打出浜合戦、十一日豊島河原合戦に敗れ、十二日海路九州に落ちるが、その途次、光厳院の院宣を得、四月東上して京を恢復、八月十五日光明天皇を践祚せしめた。すなわち「三草山」は尊氏にとっても光厳院にとっても記念すべき地名」と書かれていますが、ここも『太平記』と『梅松論』を混同した変な記述ですね。
まず『太平記』を見ると、西源院本では第十五巻第九節「「薬師丸のこと」に、前節最後の「二月二日、将軍は曾地を立ち、摂津国へぞ越え給ひける」に続いて、次の記述があります。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p457)

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 この時、熊野山の別当四郎法橋道有、未だ童にて御供したりけるを、将軍、呼び寄せ給ひて、忍びやかに宣ひけるは、「今度の京都の合戦に、御方〔みかた〕毎度打ち負けぬる事、全く戦ひの咎にあらず。つらつら事の心を案ずるに、ただ尊氏徒〔いたず〕らに朝敵なるゆゑなり。されば、いかにもして持明院殿の院宣を申し賜つて、天下を君と君との御争ひになして、合戦を致さばやと思ふなり。御辺〔ごへん〕は、日野中納言殿に所縁ありと聞き及べば、これより京に帰つて、院宣を伺ひ申して見よかし」と仰せられければ、薬師丸、「畏まつて承り候ふ」とて、三草山より暇〔いとま〕申して、即ち京へぞ上りける。
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即ち、「持明院殿の院宣」を得ようとする発想は尊氏自身が「つらつら事の心を案」じた結果出て来たもので、尊氏は二月初めに「日野中納言殿(日野資明)に所縁」がある「薬師丸」に命じて院宣を得ようとしますが、「薬師丸」がいつ戻ってきたのかというと、実は「薬師丸」は『太平記』にただ一ヵ所、ここだけに登場する人物です。
では、いつ誰が「持明院殿の院宣」を尊氏にもたらしたのかというと、それは第十六巻第四節「尊氏卿持明院殿の院宣を申し下し上洛の事」に出てきます。(兵藤裕己校注『太平記(三)』、p49以下)

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 さる程に、尊氏卿は、多々良浜の合戦の後、九州の兵一人も残らず付き順〔したが〕ひしかば、靡かぬ草木もなかりけり。【中略】
 かかる処に、赤松入道円心が三男則祐律師、得平因幡守秀光、播州より筑紫へ馳せ参つて、「京都より下されたる敵軍、備前、備中、美作に充満して候ふと云へども、これ皆、城を攻めかねて、機〔き〕疲れ粮〔かて〕尽きたる折節にて候ふ間、大勢にて御上洛候ふとだに承り及び候はば、ひとたまりも怺〔こら〕へじと存じ候ふ。御進発延引候ひて、白旗の城攻め落とされなば、自余の城一日も怺へ候まじ。四ヶ所の用害、敵の城になり候ひなば、何十万騎の御勢候ふとも、御上洛は叶ふまじく候ふ。これ、趙王城を秦の兵に囲まれて、楚の項羽が船を沈め釜甑〔ふそう〕を焼いて、戦ひ負けば、士卒一人も生きて帰らじとせし軍〔いくさ〕に候はずや。天下の成功、ただこの一挙にあるべきものにて候ふものを」と、言〔ことば〕を残さず申しければ、将軍、げにもと思ひ給ひて、「さらば、夜を日に継いで上洛すべし」とて、同じき四月二十六日に、太宰府を打つ立ちて、二十八日の順風に纜〔ともづな〕を解きしかば、五月一日、安芸の厳島に船を寄せて、三日参籠し賜ふ。
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「破釜沈船」エピソードは少し創作っぽいものの、他はそれなりにリアルな描写ですね。
このように、いったん九州まで落ちて、三月の多々良浜の戦いで奇跡的な勝利を得た尊氏が、四月、赤松円心の使者・則祐の説得で上洛を決意し、五月、安芸の厳島に入ったところで、「持明院殿の院宣」を持った「薬師丸」ではない人物がやっと登場します。(p50)

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 その結願の日、三宝院の賢俊僧正、京都より馳せ下り、持明院殿より成されたる院宣をぞ奉られける。将軍尊氏、院宣を拝見し給ひて、「函蓋〔かんかい〕すでに相応して、心中の所願忽ちに叶へり。向後〔きょうこう〕の合戦に於ては、必ず勝つべし」とぞ、喜び給ひける。去んぬる卯月六日、法皇は、持明院殿にて崩御なりしかば、後伏見院とぞ申しける。かの崩御以前に申し下しし院宣なり。
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ということで、尊氏が三草山で「薬師丸」に命じた三ヶ月後にやっと、日野資明の弟である「三宝院の賢俊僧正」が厳島に来て「持明院殿より成されたる院宣」を尊氏に渡したのだそうですが、その間の三月六日に院宣を発した後伏見院が崩御とのことで、ずいぶんのんびりした、ある意味、間の抜けた展開になっています。
なお、史実では後伏見院崩御は四月六日です。

後伏見天皇(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%8C%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%A4%A9%E7%9A%87-65906
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岩佐美代子氏『風雅和歌集全注釈』

2021-04-19 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月19日(月)09時54分59秒

「今むかふ方は明石の浦ながらまだはれやらぬわが思ひかな」が『源氏物語』を踏まえ、尊氏が自身を光源氏に模した一種の演劇的精神に基づく歌であろうことは私には自明なのですが、石川氏のみならず、岩佐美代子氏もその点を指摘されてはいないですね。
「風雅和歌集 巻第九 旅歌」所収のこの歌は、岩佐氏の大著『風雅和歌集全注釈』上中下全三巻では中巻(風間書房、2003)に出ています。(p24以下)

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      世の中さはがしく侍りけるころ、みくさの山をとおりておほくら谷といふ
      ところにて
                       前大納言尊氏
933  いまむかふかたはあかしの浦ながらまだはれやらぬわがおもひかな

【詞書】 世間が騒乱の中にありました頃、三草山を通って、大蔵谷という所で詠みました歌。
【通釈】 今、これから向う方角の海岸は、「明石の浦」という名だが、まだその名のように明るく晴れ晴れするというわけにはいかない、私の心中の思いだなあ。
【語釈】 〇世の中さはがしく……─延元元(建武三)年(一三三六)正月、鎌倉から京に進攻し、一旦後醍醐天皇方を破った尊氏が、北畠顕家らに追い落とされた動乱。〇みくさの山……─二月二日尊氏京を落ち、兵庫に逃れる。三草山は兵庫県加東郡多可郡の境界をなす高原地、大蔵谷は明石市。〇かた─「方」と表記する本も多いが、「浦」と対応するものとして「潟」をかけたと解してみた。如何。〇あかしのうら─播磨の歌枕、明石浦。兵庫県明石市の瀬戸内海沿岸。「明かし」をかけ、「晴れやらぬ」と対比する。
【校異】 〇みくさの山─「の」欠(章・流)
【補説】 太平記によれば尊氏は侍童薬師丸(熊野別当道有)を三草山から京に遣わして、光厳院の院宣を請うた。二月十日打出浜合戦、十一日豊島河原合戦に敗れ、十二日海路九州に落ちるが、その途次、光厳院の院宣を得、四月東上して京を恢復、八月十五日光明天皇を践祚せしめた。すなわち「三草山」は尊氏にとっても光厳院にとっても記念すべき地名、しかし本詠詠出の時期には前途暗澹として、まさに「まだ晴れやらぬ」心境であったであろう。
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加東市観光協会サイトによれば、

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三草山は標高423.9m、1184年源義経が平資盛を夜半に襲撃した“三草山合戦”で有名な山。現在は、畑・三草・鹿野と3ヶ所の登山道がつき、山頂には京都北野天満宮から勧請した三草山神社があります。山頂からは。明石海峡大橋や淡路島が一望できます。

https://www.kato-kanko.jp/2017/03/mikusayama/

とのことですが、その位置は現在の明石市中心部のほぼ真北、直線距離で30㎞以上離れた場所ですね。
海岸線を移動しているならともかく、明石の遥か北方の山の中から南方を望んでいる訳ですから、「「浦」と対応するものとして「潟」をかけたと解してみた。如何」と問われれば、その解釈はかなり不自然で、まあ駄目でしょう、と答えることになろうかと思います。
ま、そんな細かいことはともかくとして、石川氏の表現を借りれば、岩佐氏は尊氏が「さぞや沈痛の思いであったろうと推測」するだけで、「この一首に思い詰めた深刻さが欠如する気がする」とは思わず、「内容はさておき、詠みぶりにどこか飄々としたものを感じてしまう」こともなく、「絶望的状況の中で詠まれたこの和歌の飄逸ぶり」を感じることもなく、佐藤進一流の「精神的分析ではなかなか説明しにくい、また別の尊氏像が垣間見えるように思われる」こともなさそうですね。
石川氏は「こうした傾向が彼の和歌乃至和歌活動に多く看取されるとは言い難いが、尊氏にとっての和歌というものの意味を考える際に稿者には気になってならない」とされますが、私が共感する石川氏のこの心境は、岩佐氏にはまったく無縁のようです。
うーむ。
私にとって岩佐氏は、多くの国文学者の中で井上宗雄氏と並んで本当に畏敬すべき特別な存在なのですが、この歌の解釈に限っては、あまり賛同できる部分がありません。

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『笠間注釈叢刊 風雅和歌集全注釈』

最善本である京都女子大学図書館所蔵、谷山文庫「風雅和歌集」を底本として、通釈・語釈・参考・校異・出典・補説・作者で編成。著者の60年にわたる京極派研究が結実。上巻は真名序・仮名序から巻八まで。
http://shop.kasamashoin.jp/bd/isbn/9784305300348/
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