続きです。(p301以下)
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一、常敬寺「親鸞聖人」像の伝来をめぐって
(1)京都・大谷の親鸞廟堂の造営と影像の造立
弘長二年(一二六二)十一月二十八日、齢九十で没した親鸞の遺体はすぐに門弟の手で荼毘に付され、遺骨は鳥部野の北辺に埋葬されたという。そして十年後の文永九年(一二九二)冬、親鸞の墓所は改葬され、大谷の地に親鸞の廟堂を新たに造営することとなった。このことについて永仁三年(一二九五)十月十二日の奥書をもち、親鸞の曽孫・覚如が自ら詞書を記した京都・本願寺所蔵『善信聖人絵』には以下のごとく記されている。
文永九年冬此、東山西麓鳥部野の北、大谷の墳墓をあらためて、同麓より
西、吉水の北辺に遺骨を堀渡て、堂閣を立、影像を安す。
この詞書に対応して描かれる親鸞の廟堂(以下、大谷廟堂と呼ぶ)は、瓦葺の六角円堂で前三方に開閉式の扉が設けられていたが、廟堂内の様子については本願寺本『善信聖人絵』が石塔(笠塔婆)だけを安置するのに対し〔挿図5〕、本願寺本『善信聖人絵』(もしくはその原本)成立の二か月後の同年十二月十三日に作成された旨を覚如が自ら奥書に記す三重・専修寺所蔵『善信聖人親鸞伝絵』では、石塔を中央に安置して、その後方に背屏をもつ椅子に趺坐して合掌する親鸞影像を安置する〔挿図6〕。後者は描き方から考えて影像であったとみるのが穏当であろう。
本願寺本と専修寺本に認められる大谷廟堂内の相違について、司田純道、源豊宗、福山敏男の三氏による異なる解釈が示されているが、ここで前掲の詞書に「文永九年冬此(中略)堂閣を立、影像を安す」とあるものの、同時代の関係文書にみえる廟堂の呼称〔表1〕が、永仁四年(一二九六)七月十七日付「良海沽却于善信上人遺弟中状」以降において、それまでの「御はか」・「御めうたう(廟堂)」から、「御影堂」もしくは「影堂」に変化している事実はやはり無視し難く、すると、三氏の説の中では司田純道氏がこのことに留意しつつ、本願寺本『善信聖人親鸞伝絵』の完成した同年十二月を挟んで、十一月二十八日が親鸞の祥月命日に当たることに着目して、この祥月命日にあわせて大谷廟堂に安置すべく親鸞影像が造立安置されたと解したことは、後述するごとく、大谷廟堂の親鸞影像に該当する可能性が高い常敬寺「親鸞聖人」像が作風の検討から十三世紀末頃の造立と推定できることとも矛盾せず傾聴すべきではなかろうか。
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いったん、ここで切ります。
挿図5と挿図6を実際に見れば一目瞭然なのですが、「東京文化財研究所刊行物リポジトリ」のPDFでも図像は見えないようになっていますね。
要するに西本願寺蔵の『善信聖人絵』には石塔だけ、高田専修寺蔵の『善信聖人親鸞伝絵』には石塔と親鸞像が描かれているのですが、司田純道氏は前者と後者の制作時期のズレの期間に親鸞像が追加されたものと考え、津田氏も司田説に賛成されている訳ですね。
さて、続きです。(p303)
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そして、この廟堂に安置された親鸞像は、次項で述べる「唯善事件」に係わって廟堂敷地の本所であった青蓮院から発給された延慶二年(一三〇九)七月二十六日付「下知状」に「親鸞上人影像遺骨等事(中略)所詮、彼影像者、為門弟顕智等之造立」を明記しており、親鸞晩年の高弟・下野高田の顕智(一二二六~一三一〇)を中心とする東国門徒の造立になるものであった。
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この後、「この合掌する親鸞像ということで想起される」絵画・彫刻の作例についての説明がありますが、省略して「唯善事件」の説明に移ります。
既に『本願寺史』等を用いて何度も繰り返してきた説明と重複しますが、一般的には重視されていなくても、私の立場からはけっこう重要と思える記述があるので、煩を厭わず引用します。(p304以下)
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(2)「唯善事件」の顛末と親鸞影像の鎌倉・常葉の地への鎮座
ところで、かの大谷廟堂の敷地は親鸞の娘・覚信尼(一二二四~一二八三)が文永十一年(一二七四)に後夫・小野宮禅念(?~一二七五)から譲渡されたもので、これを覚信尼は建治三年(一二七七)に親鸞の「はかところ(墓所)」に寄進している。すなわち、そこに建てられた廟堂ともども帰属は親鸞の教えを在地で守る東国の門徒(門弟)中にあった。そして、管理守護する役目(留守職)に覚信尼みずからが当たり、以後も覚信尼の子孫の中で適任者が親鸞の東国門徒中の承認を得て留守職に就任すべきとした。それゆえ、弘安六年(一二八三)十一月、自らの死期を悟った覚信尼は時代の留守職を先夫・日野広綱(?~一二四九頃)との間に生まれた覚恵に譲ることを東国門徒中に申し出て、その了承のもと覚恵がこれを継職するところとなった〔表2〕。
そして、覚恵は永仁四年(一二九六)以前において母・覚信尼と後夫・小野宮禅念との間に生まれた異父弟で常陸奥郡に住む唯善の窮状を見かね、家族ともども呼び寄せて廟堂に同居させている。もとより、覚恵と唯善の二家族が生活をするには廟堂の敷地は手狭であったため、永仁四年(一二九六)七月、常陸奥郡門徒の協力により南隣の土地が購入されて廟堂敷地の拡張がはかられることとなり、これにともない廟堂背後の北側坊舎に居住した覚恵は北殿、南側坊舎に居住した唯善は南殿と称されて、東国門徒の廟堂参拝に際し南北両殿を尋ねることが慣例になったという。
その後、正安三年(一三〇一)頃より唯善の大谷廟堂留守職懇望が表面化し、策謀をめぐらすに及んで、これを快く思わない東国門徒は対抗策を講じ牽制を行った。しかしながら唯善は、徳治三年(一三〇六)には重病で留守職に耐えないことを理由に覚恵から廟堂の鍵を強要するとともに、子息・覚如ともども廟堂敷地から退去させて、ここに唯善の廟堂占拠という事態に発展した。
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ここに書かれたことには目新しい点はひとつもなくて、従来からこうした説明がなされて来たのですが、良く読むと変なところもあります。
唯善の「窮状」を傍観していた「常陸奥郡」の人々は、唯善が京都に戻ると突然親切になって、唯善が居住する為に大谷廟堂の南隣の土地を購入してくれた、というストーリーに矛盾はないのか。
唯善は本当に東国で「窮状」に陥っていたのか。
そのような説明は誰がしているのか。