「撰集資料」の続きです。(p139)
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一方、持明院統・京極派の催しからの撰入は、二条派歌人も出詠した公的な会に限られているようである。9・10は純粋な京極派の歌合で、二条派の撰集が採用したのは珍しいが、実兼・俊光が出詠しているからであろう(両人は元亨頃大覚寺統にも近かった)。武家の入集もさほど多くはなく、関東歌壇には関心が薄いようである。恐らく撰者の手許にも資料がなかったのであろう。但し17住吉社三十六首は宗宣の在京中の勧進であろうが、本集によれば洞院実泰や花山院家定のような貴顕も動員した催しであった事が判明する。
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僅か三つの「関東歌壇関係者による行事」、即ち、
3、△正応五年(一二九二)北条貞時勧進三島社十首 一首
15、△延慶以前将軍久明親王家歌会 一首
17、△正和元年(一三一二)以前北条宗宣勧進住吉社三十六首 八首
の内、「延慶以前将軍久明親王家歌会」の歌は、
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式部卿親王家にて人々題さくりて哥よみ
侍りける時 平時綱
366 □〔うヵ〕つろはぬ色にてしりぬよゝをへてひさしかるへきそのゝくれ竹
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というもので(p62)、「式部卿親王」が第八代将軍・久明親王です。
「作者略伝・索引」によれば、歌人としての久明親王は、
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久明(式部卿親王) 建治二年(一二七六)九月十一日~嘉暦三年(一三二八)十月十四日、五十三歳(将軍執権次第)。後深草院皇子。一品式部卿。正応二年十一月征夷大将軍、延慶元年七月解任。上京。歌を好み将軍時和歌所を設置(夫木抄)、冷泉為相女を後室とす。新後撰以下に二二首。拾遺風躰、柳風、続現葉作者。5首〔五〇、二九六、七二九、七八四、七九一〕
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という人物です。(p183)
久明親王(1276-1328)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%98%8E%E8%A6%AA%E7%8E%8B
平時綱は武将・政治家としては無名ですが、「作者略伝・索引」によれば、
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時綱(平) 生没年未詳。五位美濃守。北条(佐介)時員男。『玉葉』に一首。2首〔三三九、三六六〕
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とのことです。(p179)、
平時綱の366番の歌には「式部卿親王家にて人々題さくりて哥よみ侍りける時」とあるだけで年次は明記されていませんが、小川氏が「延慶以前」とされているように、これは将軍在任中に鎌倉で行われた歌会であることが明らかですね。
さて、問題の「正応五年(一二九二)北条貞時勧進三島社十首」と三番目の「正和元年(一三一二)以前北条宗宣勧進住吉社三十六首」は北条一族が主催する勧進和歌として類似するので、後者は前者の性格を窺う史料として興味深いですね。
そこで、その参加者と撰歌を見てみます。
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平宗宣朝臣すゝめ侍ける住吉社の三十〔六脱〕首
哥の中に 左大臣
30 ふかき夜の涙やくもるさはひめの霞の袖にやとる月かけ
【詞書略】 左大臣
96 □〔なヵ〕みかくるはまなのはしもうきぬ成たかしの山の五月雨の比
【詞書略】 左大臣
200 [ ]のした葉の秋風にひとりある人や月をみるらん
【詞書略】 前右大臣<家>
279 □〔山ヵ〕影はつもる木の葉のふかけれは雪よりさきに道そたえぬる
【詞書略】
372 □〔住ヵ〕吉の神にまかせておさまれる御代にさかへよしきしま道〔ママ〕
前大納言為世
373 □〔たヵ〕えすなを神そまもらん住吉の松のせ〔本ノマゝ〕ちなるしきしまの道
【詞書略】
422 □〔山ヵ〕河のいはもとこすけこすなみのしたにやついにおもひくちなん
【詞書略】 法印長舜
762 行末のおほつかなさもなかりけり老や身をしる恨なるらん
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「左大臣」は洞院実泰(1270-1327、公守男、従一位左大臣)で、この人は『拾遺現藻和歌集』全体で十四首採られていますが、その中の三首が「北条宗宣勧進住吉社三十六首」からですね。
「前右大臣<家>」は花山院家定(1283-1342、家教男、従一位右大臣)です。
372番は直前の371番に「前中納言有忠」とあるので、372番では名前が省略されています。
有忠(1281-1338、正二位権中納言)は『増鏡』に奇妙な記事がある六条有房の息子で、邦良親王派の中心であり、『増鏡』によれば邦良親王薨去に際して関東で出家した人です。
373番には詞書がありませんが、これは直前の372番に「平宗宣朝臣すゝめ侍ける住吉社の三十六首哥に」とあって、同じ催しの歌なので省略されているからです。
「前大納言為世」は、もちろん二条派の総帥・二条為世(1250-1338、為氏男、正二位権大納言)ですね。
422番も名前が省略されていますが、直前の421番に「法印定為」とあります。
定為(生没年未詳)は為氏男で、為世の兄弟ですね。
「法印長舜」は生没年未詳で、二条派の歌僧です。
以上、六人の略歴を見ると、北条宗宣の勧進といっても、参加者は全て京都の貴族・僧侶ですね。
そもそも住吉社への奉納和歌である上に、北条(大仏)宗宣は永仁五年(1297)七月に六波羅探題南方に就任し、乾元元年(1302)正月まで在京なので、六波羅探題在任中の催しだろうと思われます。
小川剛生氏もそう推定されていますね。(p9)
北条宗宣(1259-1312)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E5%AE%97%E5%AE%A3
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一方、持明院統・京極派の催しからの撰入は、二条派歌人も出詠した公的な会に限られているようである。9・10は純粋な京極派の歌合で、二条派の撰集が採用したのは珍しいが、実兼・俊光が出詠しているからであろう(両人は元亨頃大覚寺統にも近かった)。武家の入集もさほど多くはなく、関東歌壇には関心が薄いようである。恐らく撰者の手許にも資料がなかったのであろう。但し17住吉社三十六首は宗宣の在京中の勧進であろうが、本集によれば洞院実泰や花山院家定のような貴顕も動員した催しであった事が判明する。
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僅か三つの「関東歌壇関係者による行事」、即ち、
3、△正応五年(一二九二)北条貞時勧進三島社十首 一首
15、△延慶以前将軍久明親王家歌会 一首
17、△正和元年(一三一二)以前北条宗宣勧進住吉社三十六首 八首
の内、「延慶以前将軍久明親王家歌会」の歌は、
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式部卿親王家にて人々題さくりて哥よみ
侍りける時 平時綱
366 □〔うヵ〕つろはぬ色にてしりぬよゝをへてひさしかるへきそのゝくれ竹
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というもので(p62)、「式部卿親王」が第八代将軍・久明親王です。
「作者略伝・索引」によれば、歌人としての久明親王は、
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久明(式部卿親王) 建治二年(一二七六)九月十一日~嘉暦三年(一三二八)十月十四日、五十三歳(将軍執権次第)。後深草院皇子。一品式部卿。正応二年十一月征夷大将軍、延慶元年七月解任。上京。歌を好み将軍時和歌所を設置(夫木抄)、冷泉為相女を後室とす。新後撰以下に二二首。拾遺風躰、柳風、続現葉作者。5首〔五〇、二九六、七二九、七八四、七九一〕
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という人物です。(p183)
久明親王(1276-1328)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%98%8E%E8%A6%AA%E7%8E%8B
平時綱は武将・政治家としては無名ですが、「作者略伝・索引」によれば、
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時綱(平) 生没年未詳。五位美濃守。北条(佐介)時員男。『玉葉』に一首。2首〔三三九、三六六〕
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とのことです。(p179)、
平時綱の366番の歌には「式部卿親王家にて人々題さくりて哥よみ侍りける時」とあるだけで年次は明記されていませんが、小川氏が「延慶以前」とされているように、これは将軍在任中に鎌倉で行われた歌会であることが明らかですね。
さて、問題の「正応五年(一二九二)北条貞時勧進三島社十首」と三番目の「正和元年(一三一二)以前北条宗宣勧進住吉社三十六首」は北条一族が主催する勧進和歌として類似するので、後者は前者の性格を窺う史料として興味深いですね。
そこで、その参加者と撰歌を見てみます。
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平宗宣朝臣すゝめ侍ける住吉社の三十〔六脱〕首
哥の中に 左大臣
30 ふかき夜の涙やくもるさはひめの霞の袖にやとる月かけ
【詞書略】 左大臣
96 □〔なヵ〕みかくるはまなのはしもうきぬ成たかしの山の五月雨の比
【詞書略】 左大臣
200 [ ]のした葉の秋風にひとりある人や月をみるらん
【詞書略】 前右大臣<家>
279 □〔山ヵ〕影はつもる木の葉のふかけれは雪よりさきに道そたえぬる
【詞書略】
372 □〔住ヵ〕吉の神にまかせておさまれる御代にさかへよしきしま道〔ママ〕
前大納言為世
373 □〔たヵ〕えすなを神そまもらん住吉の松のせ〔本ノマゝ〕ちなるしきしまの道
【詞書略】
422 □〔山ヵ〕河のいはもとこすけこすなみのしたにやついにおもひくちなん
【詞書略】 法印長舜
762 行末のおほつかなさもなかりけり老や身をしる恨なるらん
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「左大臣」は洞院実泰(1270-1327、公守男、従一位左大臣)で、この人は『拾遺現藻和歌集』全体で十四首採られていますが、その中の三首が「北条宗宣勧進住吉社三十六首」からですね。
「前右大臣<家>」は花山院家定(1283-1342、家教男、従一位右大臣)です。
372番は直前の371番に「前中納言有忠」とあるので、372番では名前が省略されています。
有忠(1281-1338、正二位権中納言)は『増鏡』に奇妙な記事がある六条有房の息子で、邦良親王派の中心であり、『増鏡』によれば邦良親王薨去に際して関東で出家した人です。
373番には詞書がありませんが、これは直前の372番に「平宗宣朝臣すゝめ侍ける住吉社の三十六首哥に」とあって、同じ催しの歌なので省略されているからです。
「前大納言為世」は、もちろん二条派の総帥・二条為世(1250-1338、為氏男、正二位権大納言)ですね。
422番も名前が省略されていますが、直前の421番に「法印定為」とあります。
定為(生没年未詳)は為氏男で、為世の兄弟ですね。
「法印長舜」は生没年未詳で、二条派の歌僧です。
以上、六人の略歴を見ると、北条宗宣の勧進といっても、参加者は全て京都の貴族・僧侶ですね。
そもそも住吉社への奉納和歌である上に、北条(大仏)宗宣は永仁五年(1297)七月に六波羅探題南方に就任し、乾元元年(1302)正月まで在京なので、六波羅探題在任中の催しだろうと思われます。
小川剛生氏もそう推定されていますね。(p9)
北条宗宣(1259-1312)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E5%AE%97%E5%AE%A3