学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その3)

2022-09-09 | 唯善と後深草院二条
「撰集資料」に入ります。(p137以下)

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 『拾遺現藻和歌集』の編纂の方針を探る一助として、本集が採歌した、歌会・歌合・定数歌等の催しを、左の【年表一】に掲げた。
【年表一】
 <凡例>
(1)名称は集中の詞書の表記に準じ、年代順に配列した。私的な定数歌などは省いた。
(2)同じ場所での時期的に近接した催しと推定されるものは、一群に示した。
(3)詞書に明記されていなくとも、証本や他文献との題の一致によって年次が判明する催しはこれを冠して示した。
(4)単に「内裏歌合に」等とのみあって、同一の催しか判然としない場合には*を付した。
(5)〇は大覚寺統・二条派主催の、×は持明院統・京極派主催の、△は関東歌壇関係者による行事。

1、 文永二年(一二六五)白川殿七百首          一首
2、〇弘安百首                      九首
3、△正応五年(一二九二)北条貞時勧進三島社十首     一首
4、×永仁元年(一二九三)八月十五日夜内裏五首      一首
5、〇同年八月十五日夜後宇多院十首            二首
6、〇永仁四年仙洞(後宇多院)歌合            一首
7、〇永仁五年仙洞(後宇多院)歌合            一首
8、〇永仁六年亀山殿五首歌合               三首
9、×乾元二年(一三〇三)閏四月伏見院五十番歌合     二首
10、×同年五月伏見院三十番歌合              三首
11、〇嘉元百首                     九七首
12、×嘉元元年(一三〇三)伏見院三十首         一〇首
13、〇嘉元四年後二条院三十首              二〇首
14、〇嘉元年間後二条院歌合                一首
15、△延慶以前将軍久明親王家歌会             一首
16、×延慶三年(一三一〇)八月十五日夜内裏十五首     一首
17、△正和元年(一三一二)以前北条宗宣勧進住吉社三十六首 八首
18、〇覚助家五十首                   二〇首
19、〇文保以前尊治家歌会                 一首  
20、〇文保百首                    一七二首
21、〇文保二年(一三一八)八月常磐井殿探題詩歌会     三首
22、〇元亨元年(一三二一)九月二十五日亀山殿五首    一一首
23、〇同年十月昭慶門院(=世良親王家)三首歌合      三首
24、〇同年亀山殿二首                   二首
25、〇元亨二年亀山殿千首                三〇首
26、〇亀山殿暮秋二十首                  二首
27、〇後宇多院法門五十首                 一首
28、×八月十五日夜後伏見院十首              一首
29、〇元亨元年八月十五日夜内裏歌合            四首
30、〇内裏三首                      一首
31*、〇内裏歌合                      四首
32、〇元亨元年八月十五日夜邦良家歌合           五首
33*、〇邦良家歌合                     三首
34、〇邦良家三首                     三首
35、〇邦良家三十首                    一首
36+、〇邦良家歌会                     二首
37、〇邦良家探題歌会                   一首
38、〇忠房家七百首                    二首
39、〇忠房家七首                     三首
40、〇忠房家歌合                     一首
41、〇邦省家五十首                    七首
42、 西園寺実兼家十首                  三首
43、 花山院家定家歌合                  一首
44、〇元応元年(一三一九)六月小倉公雄勧進北野社三首   一首
45、〇元応二年秋二条為世勧進玉津嶋社歌合         四首
46、〇元亨二年為世家探題千首               一首
47、 元応二年十一月桓守勧進日吉社三首歌合        一首     
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いったん、ここで切ります。
〇×△の記号別に数えると、

 〇 34
 × 6
 △ 3
 無 4

となっており、「大覚寺統・二条派主催」が72.3%と圧倒的多数ですね。
「昭慶門院二条」が登場する「北条貞時勧進三島社十首」は僅か三つの「関東歌壇関係者による行事」の一つで、他は、

15、△延慶以前将軍久明親王家歌会             一首
17、△正和元年(一三一二)以前北条宗宣勧進住吉社三十六首 八首

となっています。
また、採歌の多いものから並べ直してみると、上位十位は、

20、〇文保百首 172
11、〇嘉元百首 97
25、〇元亨二年亀山殿千首 30
13、〇嘉元四年間後二条院歌合 20
18、〇覚助家五十首 20
22、〇元亨元年(一三二一)九月二十五日亀山殿五首 11
12、×嘉元元年(一三〇三)伏見院三十首 10
2、 〇弘安百首 9
17、△正和元年(一三一二)以前北条宗宣勧進住吉社三十六首 8
41、〇邦省家五十首 7

ということで、文保百首・嘉元百首を合計すると269首もあり、上位十位の合計で384首ですね。
なお、いかなる催しに際しての歌か分からないものも多数ありますので、【年表一】の47項目の歌数を全部合計しても456首であり、全826首の55.2%程度ですね。
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訂正とお詫び:「長沼宗秀」について

2022-09-09 | 唯善と後深草院二条
前回投稿で、

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なお、武士8名の中に「長沼宗秀」とありますが、これは長井宗秀の誤りでしょうね。
長井宗秀は京極派に近かった人です。

長井宗秀は京極派歌人か?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d121582dfb441a2befb6af471f2e3403
京極為兼と長井宗秀・貞秀父子の関係(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7189df37b63ed5d3821a7689d7bf839
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/886594037a40d49eab659a2a02cd9998
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5697e3ed6a90b97f784f8323bb11fdb3

小川氏は長井宗秀と相性が悪いのか、最近の論文でも変なミスをしていますね。

小川剛生氏「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c114810da4f82a93cdff488a3efd2c68
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と書いてしまいましたが、私の全くの勘違いだったので削除しました。
そもそも『拾遺現藻和歌集』に登場する「長沼宗秀」は藤原姓なので、大江姓の「長井宗秀」のはずがありません。
小川著の「作者略伝・索引」によれば、

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宗秀(藤原) 生没年未詳。長沼宗泰男。五位。正安元年十二月六日将軍家政所下文にて亡父の所領地頭職を安堵され(園城寺文書 鎌倉遺文二〇三一三号)この時左衛門尉。正和元年四月十四日譲状執筆(武蔵長沼宗雄氏文書 鎌倉遺文二四五九一号)、時に前淡路守。元徳元年(一三二九)二月生存(金澤貞顕書状 鎌倉遺文三〇五〇五号)。為道十三回忌詠あり(続千載二〇八九)、新後撰以下一九首。柳風、続現葉、藤葉作者。3首〔六一二、六五四、六七六〕
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とのことで(p186)、何から何まで大江姓の「長井宗秀」と異なります。
この時期の「宗秀」といえば長井宗秀に決まっているだろうという思い込みから、「作者略伝・索引」も実際の入集歌も確認しないまま昨日の投稿をしてしまいました。
お詫びして訂正します。
なお、「藤原宗秀」の入集歌は次の通りです。

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612 □〔うヵ〕らみても猶こそしたへ恋しさのうきにまさるゝ心ならねば

654   たいしらす
   □〔我ヵ〕のみそ心をつくす時鳥またてはたれかはつねきくらし

676 □〔唐ヵ〕衣すそのゝ原の女郎花をのか妻とや鹿の鳴らん
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また、歌人としての「大江宗秀」は次のような人物です。(水垣久氏「やまとうた」サイトより)

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大江宗秀 おおえのむねひで 文永二~嘉暦二(1265-1327)

羽前国長井荘を本拠とする長井氏の出。大江匡房の裔、関東執権広元の玄孫にあたる。宮内権大輔時秀の息子。兄弟に貞広がいる。北条実時の娘を娶り、貞秀をもうける。子孫には歌人が多く出た。
関東評定衆。甲斐守・宮内大輔・掃部頭を歴任し、正五位下に至る。
京極派の武家歌人。正応四年(1291)~永仁四年(1296)頃、京極為兼・冷泉為相らが出詠した歌合に参加している。新後撰集初出。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/munehide.html

武家歌人としては長沼宗秀よりも著名な大江宗秀は『拾遺現藻和歌集』が成立した元弘二年(1322)三月一日時点で存命ですが、おそらく京極派ゆえに採られなかったのだろうと思います。
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