学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

外村展子氏「『沙弥蓮瑜集』の作者と和歌」(その8)

2022-09-30 | 唯善と後深草院二条

続きです。(p39以下)

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 北条貞時は、様々の改革を試み、永仁元年(一二九三。八月五日改元)十月、引付を廃止して、新たに執奏の制を定めた。そのうちの一人に、景綱が起用されている。ここにおいて景綱は完全に復活したのである。翌永仁二年十月、執奏が廃止となり、引付が五番制として復活する。景綱は、北条氏一門以外では唯一頭人に任ぜられ、翌永仁三年四月の寄合で新恩を与えられる(永仁三年記・卯月廿七日)など、貞時に重く用いられ、それは、永仁六年に景綱が亡くなるまで変わらなかった。霜月騒動、平頼綱・助宗父子の滅亡、その後の政治改革は、貞時独裁を実現するための一連の動きで、霜月騒動の結果が、どの程度貞時の意に添ったものであったかは別として、ともかく、貞時独裁への御膳立ての役割を充分に果たしたわけである。そしてこういう機会を決して逃さず、北条氏得宗は、必ず有力御家人を滅ぼしてきたのである。にもかかわらず、宇都宮氏が滅ぼされなかったことには、様々な要因が考えられる。その要因の一つとして、宇都宮家が、関東における和歌の家であるという事実が考えられるのではないだろうか。貞時は『とはずがたり』の正応二年(一二八九)の段によると、将軍の御所よりはるかにきらびやかで、金銀や美しい玉をちりばめた、まるで浄土のような屋敷に住んでいたという。
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段落の途中ですが、いったん、ここで切ります。
国文学の方が書かれているので、政治史的な分析には甘さを感じますが、そこは批判しません。
ただ、『とはずがたり』の引用はかなり変で、外村氏は北条貞時と平頼綱を混同していますね。
当該場面は、

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 何ごとかとてみるに、思ひかけぬことなれども、平入道が御前、御方といふがもとへ東二条院より五つ衣を下し遣されたるが、調ぜられたるままにて縫ひなどもせられぬを、申し合はせんとて、さりがたく申すに、「出家の習ひ苦しからじ。そのうへ誰とも知るまじ。ただ京の人と申したりしばかりなるに」とて、あながちに申されしもむつかしくて、たびたびかなふまじきよしを申ししかども、果ては相模の守の文などいふものさへとり添へて、何かといはれしうヘ、これにては何とも見沙汰する心地にてあるに、安かりぬべきことゆゑ、何かと言はれんもむつかしくて、まかりぬ。
 相模の守の宿所のうちにや、角殿とかやとぞ申しし。御所さまの御しつらひは、常のことなり。これは金銀金玉をちりばめ、光耀鸞鏡を瑩いてとはこれにやとおぼえ、解脱の瓔珞にはあらねども、綾羅錦繍を身にまとひ、几帳の帷子引き物まで、目も輝きあたりも光るさまなり。
 御方とかや出でたり。地は薄青に紫の濃き薄き糸にて、紅葉を大きなる木に織り浮かしたる唐織物の二つ衣に、白き裳を着たり。みめことがら誇りかに、たけ高く大きなり。かくいみじと見ゆるほどに、入道あなたより走りきて、袖短かなる白き直垂姿にて馴れ顔に添ひゐたりしぞ、やつるる心地し侍りし。

http://web.archive.org/web/20150513074937/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-4-hisaakirasinno.htm

というもので、「相模の守の宿所のうち」、北条貞時の屋敷の一画に「角殿」という建物があって、そこに平頼綱とその室(「御方」)が住んでおり、東二条院から平頼綱室に「五つ衣」が贈られてきたものの、その裁ち方が分からないというので二条が呼ばれ、二条が「角殿」を訪ねたところ、派手な衣装を着た大柄な「御方」が登場し、その後に頼綱がチョコマカと走り寄ってきて、袖短かの白い直垂姿で馴れ馴れしそうに「御方」の側に座ったのにはうんざりした、というストーリーです。
豪華な建物の描写はあくまで「角殿」の話であり、もちろん平頼綱の住む「角殿」がそこまで立派なのだから、北条貞時の住む本邸は同様に、あるいは更に立派なのでしょうが、しかしその様子は『とはずがたり』には描かれていません。
さて、続きです。(p39以下)

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生活のすべてが貴族志向であったのか、和歌にものめりこみ、家集こそ残していないが、しばしば歌会等を催し、『新後撰集』以下の勅撰集にニ十五首の入集を果たしている。その勅撰集への入集に関して、

  <玉葉>藤範秀<号小串六郎 右衛門尉>
   撰者大納言為兼卿、適処依有関東之免、<一族家人不可入勅集之由、最勝園禅門被誠之云々>
   被書入于玉葉畢、是無先例歟。以平大納言経親執筆云々。(勅撰作者部類・作者異議)

とある記事から、貞時(最勝園禅門)が、かなり重大な事柄であると考えていたことがわかる。
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段落の途中ですが、ここで再び切ります。
外村氏が『勅撰作者部類』を引用される意図がちょっと分かりにくいと思いますが、この「作者異議」エピソードについては、井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期 改訂新版』に解説があります。
ただ、井上氏の解説(p198)も快刀乱麻とはいえず、若干分かりにくいところがあるのですが、私なりに整理してみると次の通りです。
まず、問題となった小串範秀(?-1339)は雪村友梅に禅宗を学び、早歌「曹源宗」の作者(雲岩居士)であり、公家に出入りして琵琶の伝授を承けるなど著名な文化人でしたが、北条(常葉)範貞の「家人」であって家格が高いとはいえません。
そこで、北条貞時が「一族家人」は勅撰集には入れてはいけない、と言ったのに対し、範秀の歌をどうしても『玉葉集』に入れたいと考えた為兼があれこれ工作して、結局「関東之免」を得た、という話のようです。
従って、貞時が和歌を好み、勅撰集入集を重視していたという話とはズレがあるので、ここでの引用の仕方は些か不親切なように思われます。

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外村展子氏「『沙弥蓮瑜集』の作者と和歌」(その7)

2022-09-30 | 唯善と後深草院二条

今年の五月から六月にかけて、 小川剛生氏の「京極為兼と公家政権─土佐配流事件を中心に─」(『文学』4巻6号、2003)という論文を素材として、京極為兼について色々考えてみました。

小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その1)~(その22)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/19c179315a06cf09305cda3654717d96
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5a8215de654c4a849ea52c374d9bf658

その過程で善空事件も細かく検討してみて、私は善空事件と浅原事件の関連について、若干の考察を試みました。
もちろん私も数年間ダラダラ続いた善空事件と、騒動自体は正応三年(1290)三月十日の僅か一日で終わった浅原事件との間に何らかの因果関係があるとは考えていません。
ただ、浅原事件は善空事件の奇妙な曖昧さを解明するヒントになるのではないかと思います。
私見では、そもそも平頼綱政権は一枚岩ではなく、反安達泰盛の一点で結びついた北条一門(中心はおそらく連署の大仏宣時)と平頼綱以下の得宗被官の連合体と想定します。
そして平頼綱が露骨に朝廷との接近を図ったため、京都では平頼綱派の影響力が強く、これが善空上人の活動の温床となったと想定します。
更に、正応三年(1290)三月の浅原事件の発生までは、六波羅から鎌倉へ伝わる情報は平頼綱派に偏り、朝廷が鎌倉の意向として受け取った情報も、実際には平頼綱派によって歪められた情報になっていたと想定します。
ところが、浅原事件の結果、真相究明と責任追及のために京都と鎌倉の情報交換が活発化し、その副産物として、従来、鎌倉が得ていた京都情報が必ずしも正確ではなく、平頼綱派により歪められていたことが得宗の北条貞時、そして連署の大仏宣時を中心とする反頼綱派に伝わったと想定します。
他方、朝廷からすれば、従来、善空上人等の意向が鎌倉の意向だと思って我慢していたのに、どうもそうでもないらしい、ということが分かってきたと想定します。
以上、想定を重ねてみましたが、平頼綱政権が一枚岩ではないという最初の想定は、古くは山川智応氏の「武蔵守宣時の人物事蹟位地権力と其の信仰」(『日蓮上人研究』所収、新潮社、1931)、最近では細川重男氏の「飯沼大夫判官資宗─「平頼綱政権」の再検討」(『鎌倉北条氏の神話と歴史』、2007)などでも言われていることであり、まあ、確実だろうと思います。
そして以降の想定も、善空事件の奇妙に曖昧な推移と、平禅門の乱に至る過程をそれなりに合理的に説明できる推論なのではなかろうかと考えます。

善空事件に関する森幸夫説への若干の疑問(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d49541827aac69a5ad6a0deb7587e605
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d614408ec9caa4bb1bba137d93ec590c

このように考えると、浅原事件への対応のために派遣された「東使」二人が果たした役割は、三年後の平禅門の乱につながるもので、歴史的に非常に重要なものだったことになります。
また、浅原事件と平禅門の乱(1293)の間に催された「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」に宇都宮景綱が参加したことは、景綱が浅原事件の対応で北条貞時の信頼を得たことを示しているように思われます。
さて、外村論文に戻って、続きです。(p38以下)

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その後は、正応四年八月十五夜の将軍家(久明親王)和歌御会に参加(沙弥蓮瑜集・275)し、正応五年に催された平貞時朝臣三嶋社十首歌にも加わっている(同・33 79 150 237 385 493)。その翌年、安達一族を滅ぼした平頼綱・助宗父子が、貞時により、あっけなく討たれる。

 合戦以前平左衛門宗綱令参云々。父子違逆意上者、不可蒙御不審之由、種々申之間、以安東
 新左衛門尉重綱問答、其後宇津宮入道預了。(親玄僧正日記・正応六年四月二十二日)

頼綱の嫡子宗綱が、合戦の前に貞時のもとに参じ、逆意のないことを弁明したので、景綱(宇津宮入道)に預けたという(その後佐渡に流された)。この小規模な合戦で平頼綱はじめ百人足らずが死に、頼綱の独裁政治の時代が終り、かわって、二十四歳の青年得宗貞時による独裁政治がはじまるのである。
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平禅門の乱で、合戦の前に出頭した平頼綱の長男・宗綱は安東重綱の尋問を受けた後、景綱に預けられますが、これも貞時の景綱に対する信頼の深さを反映しているのではないかと思われます。

平宗綱(生没年未詳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%97%E7%B6%B1

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