学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その7)

2022-09-13 | 唯善と後深草院二条

『増鏡』作者が世良親王のように特段の業績を残さないまま早世してしまった人物について極めて高い評価をしている点、『増鏡』作者と当該人物の間に何か特別な関係があったことを窺わせますが、再改説後の小川剛生説を含む通説が『増鏡』作者とする二条良基(1320-88)の場合、世良親王との特別な関係は窺えないようですね。

小川剛生「『増鏡』の問題」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25bff1410b6473592b94072dc69d40b4
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8dd111d27c6978b428f696122434f45c
二条良基を離れて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/91ecab544e96e7299adab407b4b94ca6

さて、「特色」の続きです。(p141)

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元亨頃には、後宇多・邦良と後醍醐の関係は既に円滑を欠いていた(花園院宸記 正中元年六月廿五日条)。従って「御なからい、うはべはいとよけれどもまねやかならぬ」(増鏡<春の別れ>)と噂された、後醍醐と邦良の贈答が二組も見える(二六・七、三二一・二)のは意味深長である。経継が「後二条院宸筆の御記」を見て道我に送った哀傷詠に、後宇多が返歌した贈答(七七九・八〇)があり、源親教・教時父子、藤原敦季など、歌人としてあまり聞こえるところがない後二条・邦良の側近の詠も採られている等、後二条系皇族とその関係者に比較的厚い印象も受ける。
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『増鏡』巻十四「春の別れ」の冒頭、正中元年(1324)に後宇多院が重病となって後醍醐が見舞った後、邦良親王行啓の場面となりますが、そこに「御なからい、うはべはいとよけれどもまねやかならぬ」という表現が出てきます。
即ち、

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 そののち御孫の春宮行啓あり。世をしろしめさむ時の御心づかひなど、いま少し細やかに聞えしらせ給ふ。宮は先帝の御かはりにも、いかで心の限りつかうまつらん、とあらまし思されつるに、あかず口惜しうて、いたうしほたれさせ給ふ。
 御門の御なからひ、うはべはいとよけれど、まめやかならぬを、いと心苦しと思さるれど、言に出で給ふべきならねば、ただ大方につけて、よにあるべきことども、又このごろ少し世に恨みあるやうなる人々の、わが御心にはあはれと思さるるなどあまたあるをぞ、御心のままなる世にもなりなん時は、かならず御用意あるべくなど聞え給ひける。中御門の大納言経継、六条の中納言有忠、右衛門督教定・左衛門佐俊顕など聞えし人々の事にやありけん。
 その夜はとまり給へるも知ろしめさで、夜うちふけて、少しおどろかせ給ひて「春宮はいつ返り給ひぬるぞ」とのたまふに、うち声づくりて近く参り給へれば、「いまだおはしましけるな」とて、いとらうたしと思されたる御気色あはれなり。大方の気色、院の内のかいしめりたるありさまなど、よろづ思しめぐらすに、いとかなしきこと多かれば、宮、うち泣き給ひぬ。
 心細ういみじとのみ思さるるに、正中元年六月廿五日つひに隠れさせ給ひぬ。御年五十八にぞならせ給ひける。後宇多院と申すなるべし。
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とのことで(井上宗雄『増鏡(下)全訳注』、p122以下)、邦良親王派の「中御門の大納言経継、六条の中納言有忠、右衛門督教定・左衛門佐俊顕など聞えし人々」は後醍醐天皇に冷遇されていた訳ですね。
後宇多院はそれを心配しており、邦良親王の世になったら必ず引き立ててやれよと遺言したそうですが、二年後の嘉暦元年(1226)、邦良親王も亡くなってしまいます。
『増鏡』では邦良親王薨去の記事も長大ですね。(同、p142以下)

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 月日程なく移り行きて、嘉暦元年になりぬ。弥生の初めつ方より、春宮例ならずおはしまして、日々に重らせ給ふ。さまざまの御修法ども初め、御祈りなにやかやと、伊勢にも御使奉らせ給へど、甲斐なくて三月廿日つひにいとあさましくならせ給ひぬ。
 宮のうち火を消ちたる心地して惑ひあへり。御めのとの対の君といふ人、夜昼御かたはらさらずさぶらひなれたるに、いみじき心まどひ、まことにをさめがたげなり。限りと見え給ふ御顔にさし寄りて、「かく残りなき身を御覧じ捨てては、えおはしましやらじ。今ひとたび、御声なりとも聞せさせ給ひて、いづ方へも御供に率ておはしましてよ」と声も惜しまず泣き入り給へるさま、いとあはれなり。
 すべて宮の内とよみ悲しぶさま、いはん方無し。【後略】
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ということで、周囲の嘆きの場面が延々と続きます。
そして、

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 有忠の中納言、先坊の御使ひにて東に下りにし、いつしかと思ふさまならん事をのみ待ち聞こえつつ、践祚の御使ひの宮こに参らんと同じやうに上らんとて、いまだかしこにものせられつるに、かくあやなきことの出で来ぬれば、いみじともさらなり。三月つごもりやがて頭おろす。心の内さこそはと悲し。
  大方の春の別れのほかに又我が世つきぬるけふの暮かな
 宮こにも、前の大納言経継、四条三位隆久、山の井の少将敦季、五辻少将長俊、公風の少将、左衛門佐俊顕など、みな頭おろしぬ。女房には、御息所の御方、対の君、帥君、兵衛督、内侍の君など、すべて男・女三十余人、さま変はりてけり。【後略】
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という具合いに、三十数名が出家という事態となります。(同、p147)
中でも、幕府への工作のために鎌倉にいた六条有忠は鎌倉で出家しますが、その時に有忠が詠んだ歌が『増鏡』巻十四の巻名「春の別れ」となります。
ところで、小川氏は「源親教・教時父子、藤原敦季など、歌人としてあまり聞こえるところがない後二条・邦良の側近」と書かれていますが、「作者略伝・索引」によれば、源親教(生没年未詳、源資平男、従三位非参議)は邦良親王薨去の嘉暦元年ではなく、嘉暦三年に出家とのことなので(p177)、「側近」とまで言えるのか、若干の疑問も感じます。
教時については、小川氏自身が「邦良親王の近臣か」とされていますね。(p182)
ま、そんな細かなことはともかく、『増鏡』に邦良親王派の代表として挙げられている「中御門の大納言経継、六条の中納言有忠、右衛門督教定・左衛門佐俊顕など聞えし人々」は、中御門俊顕を除き、いずれも『拾遺現藻和歌集』に採歌されていて、中御門経継(1257-?)は二十一首、六条有忠(1281-1338)は十一首、山科教定(1271-1330)は三首ですね。

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