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17「□〔たヵ〕のむぞよ…」は『拾遺現藻集』に見られる一首だが、そこでは作者名の記載が無く空白となっていた。撰集類の通例で直前歌の作者記載を承けるとすれば、作者は「昭慶門院二条」ということになる。この人物については、昭慶門院に仕えた女房歌人であるらしいが、詳しいことは分からない。『拾遺現藻集』は元亨二年(一三二二)三月一日の成立であり、当時の現存作者ばかりの詠歌を集めている。三島社十首に出詠が確認できる歌人のうち、為道の二十二歳が勧進者である貞時と並んで最も若く、昭慶門院二条が出詠者の一人であれば、少なくとも彼らと同程度の年齢には達していたはずであろう。主人である昭慶門院が文永七年(一二七〇)の生まれであることから、仮に同年齢として正応五年当時は二十三歳、すると『拾遺現藻集』成立時には五十三歳で生存していた計算になる。彼女を除く他の参加歌人は、いずれも当時の京・鎌倉を代表する歌人たちである。為道以外の面々は、すでに勅撰集への入集をはたして相応の歌歴を重ねていた。次の『新後撰集』で勅撰歌人の列に加わる為道は、御子左家の嫡子であり、若年でこのメンバーに加えられて不思議はない。これに対し、昭慶門院二条は勅撰歌人でもなく、歌歴も不詳、若くして和歌を勧進される必然性に乏しい。三島社十首は、当時、関東に滞在していた人々を中心に勧進されたものと思われることや、男性歌人ばかりの中に女房歌人は彼女ただ一人であることも気にかかる。ただ、「平貞時朝臣すゝめ侍ける三嶋社十首哥に」という詞書を見る限りにおいては、同じ機会の詠作であると認めてよいように思える。先に記した通り、17は『拾遺現藻集』では作者名の記載がなかった。同集は歴史民俗博物館蔵本のみの孤本で、一部に類題集などが竄入したかと思われる痕跡も存し、その本文は必ずしも良質とは言えないようである。現時点では、可能性を指摘するに留めておきたいと思う。
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第二節はこれで終わりです。
小林氏は若干の疑念を抱いておられますが、小川剛生氏が校訂された『拾遺現藻和歌集 本文と研究』(三弥井書店、1996)を見ると、この歌の作者が「昭慶門院二条」であることを疑う理由は特になさそうに思えます。
さて、昭慶門院は、
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1270-1324 鎌倉時代,亀山天皇の皇女。
文永7年生まれ。母は藤原雅平の娘雅子。永仁(えいにん)元年内親王となり,4年院号をあたえられる。後醍醐(ごだいご)天皇の皇子世良(ときよし)親王の養母。亀山天皇から甲斐(かい),越前(えちぜん)などのおおくの荘園を譲与された。元亨(げんこう)4年3月12日死去。55歳。名は憙子(きし)。法名は清浄源。
【デジタル版 日本人名大辞典+Plus】
鎌倉後期の女院。名は喜(憙)子。生年は文永7(1270)年とも。法名は清浄源。亀山院の皇女。後醍醐天皇の皇子世良親王を愛育し,同親王の元服をみた日に没したことが『花園天皇宸記』に記されている。同女院に集積された皇室領は世良親王に伝領された。
(森茂暁)
【朝日日本歴史人物事典】
https://kotobank.jp/word/%E6%98%AD%E6%85%B6%E9%96%80%E9%99%A2-1082159
という女性です。
亀山院皇女の喜子内親王が「昭慶門院」という女院号を得たのは永仁四年(1296)ですから、正応五年(1291)の三島社十首の時点で、問題の女性の女房名が「昭慶門院二条」であったはずはありません。
では、どのような名前だったのか。
その謎を解明するため、今は国文学界の重鎮となられた小川剛生氏の最初の著作、『拾遺現藻和歌集 本文と研究』に向かうこととします。
小川氏は1971年生まれですから、この本を出されたときはまだ二十五歳くらいですが、本当に老成した筆致なので、とても若い大学院生が書いた本とは思えないですね。
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国立歴史民俗博物館蔵『拾遺現藻和歌集』を底本に翻刻した初めての書。巻末に特色・撰者などに関する考察と資料「『拾遺現藻和歌集』の研究」と、作者略伝・索引及び四句索引を付す。
https://www.miyaishoten.co.jp/main/003/3-11/syuigenso.htm
小川剛生
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E5%89%9B%E7%94%9F