「入集歌人」に入ります。(p135)
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『拾遺現藻和歌集』は、序文より元亨二年(一三二二)三月一日の成立と知られる。公卿歌人の位署と照合しても、これに矛盾を来す例は殆どない。ただし、四月五日に参議を退いた中納言経宣が前参議と表記されているのは成立以前に修訂されたのであろうが、それでも八月十一日に左大臣洞院実泰が辞職した結果生じた三公転任の人事が反映されておらず、九月に没した実超や西園寺実兼が作者となっているので、遅くとも同八月までの最終的完成とみられる。
「現藻」の語は「現存者の詠藻」の意と解され、実際現存歌人対象の集である(なお「拾遺」の意については後述する)。歌人はすべて一八二名(隠名および詞書歌の作者は除く)。内訳は俗人男子九六人、女性三〇人、僧侶五六人。十首以上入集の歌人一九名を上位から示す。
①後宇多院 38首 ②二条為世 32首 ③西園寺実兼 30首 ④定為 27首 ④小倉公雄27首
⑥後醍醐天皇26首 ⑦二条為藤 25首 ⑧三条実重 24首 ⑨鷹司冬平 22首 ⑨邦良親王 22首
⑨小倉実教 22首 ⑫中御門経継 21首 ⑫覚如法親王 21首 ⑭二条道平 16首 ⑮洞院実泰14首
⑯六条有忠 11首 ⑯冷泉為相 11首 ⑱後伏見院 10首 ⑱二条為定 10首
後宇多・後醍醐・邦良の大覚寺統三代が十位以内に入り、第二位の宗匠為世以下、定為・為藤・為定ら二条家一門、その門弟分で大覚寺統に近い廷臣歌人、公雄、実教、経継、有忠らが顔を揃えている。また、久しく朝野に勢威を振るった実兼が三位に在り、冬平、道平、実重、実泰といった、二条家に好意的な権門歌人が家格・歌歴に応じてそつなく採られている。但し、二条派および大覚寺統系の歌人で占められている中で、十八位の後伏見院と十六位の冷泉為相は異彩を放っている。
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この後、「十首未満の歌人について、歌壇内の勢力別に主要歌人と歌数を挙げると次の如くである」として、大覚寺統10名、二条家・二条派22名、持明院統6名、京極派3名、歌道家3名、権門6名、大覚寺統系廷臣15名、僧侶8名、武士8名が列挙されますが、煩瑣なので省略します。
六首入集の「昭慶門院一条」は「二条家・二条派」ですが、四首入集の「昭慶門院二条」はどこにも入っておらず、分類不能ということですね。
ま、それはともかく、続きです。(p136以下)
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現存する二条派歌人と大覚寺統関係者を重視し、持明院統と京極派を冷遇していることが確認できよう。配所に在る為兼は勿論入っていないし、その猶子であった忠兼・為基らも閉め出されている。
この性格は、同じ鎌倉末期に相次いで編まれた二条派の私撰集、『続現葉和歌集』『臨永和歌集』『松花和歌集』と同一である。就中本集成立の翌元亨三年の撰とされる『続現葉集』とは一〇六名の作者が共通している。
しかし、二条家の庶流は為実以外見当たらない。西園寺家でも兼季・道意・覚円、また廷臣では花山院師賢・滋野井実前・源具行などの、一応力量あると目された歌人が入集していない。その事情は不明だが、『続現葉集』が現存十巻で七八五首を数えるのに較べれば、『拾遺現藻和歌集』はかなり小規模であり、必ずしも当時の歌人を網羅しようとした撰集であるとは考えにくい。
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「入集歌人」は以上です。
なお、二条派の私撰集といっても、『臨永和歌集』『松花和歌集』は本当に鎌倉最末期、幕府崩壊の直前に「鎮西歌壇」で生まれたもので、『拾遺現藻和歌集』とは入集歌人の層もかなり違いますね。
四月初めの中間整理(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4c276671befcb6ece6cf1e8589eb0ec
四月初めの中間整理(その14)~(その16)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cbabbcf7e6d0394b5518ea5767d8dcc1
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1aaae9b12e863bbe3cdd79e902fa06f0
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ccc27cc6ee235a7fdee81021fcdbf7ef
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『拾遺現藻和歌集』は、序文より元亨二年(一三二二)三月一日の成立と知られる。公卿歌人の位署と照合しても、これに矛盾を来す例は殆どない。ただし、四月五日に参議を退いた中納言経宣が前参議と表記されているのは成立以前に修訂されたのであろうが、それでも八月十一日に左大臣洞院実泰が辞職した結果生じた三公転任の人事が反映されておらず、九月に没した実超や西園寺実兼が作者となっているので、遅くとも同八月までの最終的完成とみられる。
「現藻」の語は「現存者の詠藻」の意と解され、実際現存歌人対象の集である(なお「拾遺」の意については後述する)。歌人はすべて一八二名(隠名および詞書歌の作者は除く)。内訳は俗人男子九六人、女性三〇人、僧侶五六人。十首以上入集の歌人一九名を上位から示す。
①後宇多院 38首 ②二条為世 32首 ③西園寺実兼 30首 ④定為 27首 ④小倉公雄27首
⑥後醍醐天皇26首 ⑦二条為藤 25首 ⑧三条実重 24首 ⑨鷹司冬平 22首 ⑨邦良親王 22首
⑨小倉実教 22首 ⑫中御門経継 21首 ⑫覚如法親王 21首 ⑭二条道平 16首 ⑮洞院実泰14首
⑯六条有忠 11首 ⑯冷泉為相 11首 ⑱後伏見院 10首 ⑱二条為定 10首
後宇多・後醍醐・邦良の大覚寺統三代が十位以内に入り、第二位の宗匠為世以下、定為・為藤・為定ら二条家一門、その門弟分で大覚寺統に近い廷臣歌人、公雄、実教、経継、有忠らが顔を揃えている。また、久しく朝野に勢威を振るった実兼が三位に在り、冬平、道平、実重、実泰といった、二条家に好意的な権門歌人が家格・歌歴に応じてそつなく採られている。但し、二条派および大覚寺統系の歌人で占められている中で、十八位の後伏見院と十六位の冷泉為相は異彩を放っている。
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この後、「十首未満の歌人について、歌壇内の勢力別に主要歌人と歌数を挙げると次の如くである」として、大覚寺統10名、二条家・二条派22名、持明院統6名、京極派3名、歌道家3名、権門6名、大覚寺統系廷臣15名、僧侶8名、武士8名が列挙されますが、煩瑣なので省略します。
六首入集の「昭慶門院一条」は「二条家・二条派」ですが、四首入集の「昭慶門院二条」はどこにも入っておらず、分類不能ということですね。
ま、それはともかく、続きです。(p136以下)
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現存する二条派歌人と大覚寺統関係者を重視し、持明院統と京極派を冷遇していることが確認できよう。配所に在る為兼は勿論入っていないし、その猶子であった忠兼・為基らも閉め出されている。
この性格は、同じ鎌倉末期に相次いで編まれた二条派の私撰集、『続現葉和歌集』『臨永和歌集』『松花和歌集』と同一である。就中本集成立の翌元亨三年の撰とされる『続現葉集』とは一〇六名の作者が共通している。
しかし、二条家の庶流は為実以外見当たらない。西園寺家でも兼季・道意・覚円、また廷臣では花山院師賢・滋野井実前・源具行などの、一応力量あると目された歌人が入集していない。その事情は不明だが、『続現葉集』が現存十巻で七八五首を数えるのに較べれば、『拾遺現藻和歌集』はかなり小規模であり、必ずしも当時の歌人を網羅しようとした撰集であるとは考えにくい。
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「入集歌人」は以上です。
なお、二条派の私撰集といっても、『臨永和歌集』『松花和歌集』は本当に鎌倉最末期、幕府崩壊の直前に「鎮西歌壇」で生まれたもので、『拾遺現藻和歌集』とは入集歌人の層もかなり違いますね。
四月初めの中間整理(その10)
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四月初めの中間整理(その14)~(その16)
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