学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その2)

2022-09-08 | 唯善と後深草院二条
「入集歌人」に入ります。(p135)

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 『拾遺現藻和歌集』は、序文より元亨二年(一三二二)三月一日の成立と知られる。公卿歌人の位署と照合しても、これに矛盾を来す例は殆どない。ただし、四月五日に参議を退いた中納言経宣が前参議と表記されているのは成立以前に修訂されたのであろうが、それでも八月十一日に左大臣洞院実泰が辞職した結果生じた三公転任の人事が反映されておらず、九月に没した実超や西園寺実兼が作者となっているので、遅くとも同八月までの最終的完成とみられる。
 「現藻」の語は「現存者の詠藻」の意と解され、実際現存歌人対象の集である(なお「拾遺」の意については後述する)。歌人はすべて一八二名(隠名および詞書歌の作者は除く)。内訳は俗人男子九六人、女性三〇人、僧侶五六人。十首以上入集の歌人一九名を上位から示す。

 ①後宇多院 38首 ②二条為世 32首 ③西園寺実兼 30首 ④定為 27首 ④小倉公雄27首
 ⑥後醍醐天皇26首 ⑦二条為藤 25首 ⑧三条実重 24首 ⑨鷹司冬平 22首 ⑨邦良親王 22首
 ⑨小倉実教 22首 ⑫中御門経継 21首 ⑫覚如法親王 21首 ⑭二条道平 16首 ⑮洞院実泰14首
 ⑯六条有忠 11首 ⑯冷泉為相 11首 ⑱後伏見院 10首 ⑱二条為定 10首

 後宇多・後醍醐・邦良の大覚寺統三代が十位以内に入り、第二位の宗匠為世以下、定為・為藤・為定ら二条家一門、その門弟分で大覚寺統に近い廷臣歌人、公雄、実教、経継、有忠らが顔を揃えている。また、久しく朝野に勢威を振るった実兼が三位に在り、冬平、道平、実重、実泰といった、二条家に好意的な権門歌人が家格・歌歴に応じてそつなく採られている。但し、二条派および大覚寺統系の歌人で占められている中で、十八位の後伏見院と十六位の冷泉為相は異彩を放っている。
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この後、「十首未満の歌人について、歌壇内の勢力別に主要歌人と歌数を挙げると次の如くである」として、大覚寺統10名、二条家・二条派22名、持明院統6名、京極派3名、歌道家3名、権門6名、大覚寺統系廷臣15名、僧侶8名、武士8名が列挙されますが、煩瑣なので省略します。
六首入集の「昭慶門院一条」は「二条家・二条派」ですが、四首入集の「昭慶門院二条」はどこにも入っておらず、分類不能ということですね。
ま、それはともかく、続きです。(p136以下)

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現存する二条派歌人と大覚寺統関係者を重視し、持明院統と京極派を冷遇していることが確認できよう。配所に在る為兼は勿論入っていないし、その猶子であった忠兼・為基らも閉め出されている。
 この性格は、同じ鎌倉末期に相次いで編まれた二条派の私撰集、『続現葉和歌集』『臨永和歌集』『松花和歌集』と同一である。就中本集成立の翌元亨三年の撰とされる『続現葉集』とは一〇六名の作者が共通している。
 しかし、二条家の庶流は為実以外見当たらない。西園寺家でも兼季・道意・覚円、また廷臣では花山院師賢・滋野井実前・源具行などの、一応力量あると目された歌人が入集していない。その事情は不明だが、『続現葉集』が現存十巻で七八五首を数えるのに較べれば、『拾遺現藻和歌集』はかなり小規模であり、必ずしも当時の歌人を網羅しようとした撰集であるとは考えにくい。
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「入集歌人」は以上です。
なお、二条派の私撰集といっても、『臨永和歌集』『松花和歌集』は本当に鎌倉最末期、幕府崩壊の直前に「鎮西歌壇」で生まれたもので、『拾遺現藻和歌集』とは入集歌人の層もかなり違いますね。

四月初めの中間整理(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4c276671befcb6ece6cf1e8589eb0ec
四月初めの中間整理(その14)~(その16)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cbabbcf7e6d0394b5518ea5767d8dcc1
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1aaae9b12e863bbe3cdd79e902fa06f0
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ccc27cc6ee235a7fdee81021fcdbf7ef
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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その1)

2022-09-08 | 唯善と後深草院二条
それでは「昭慶門院二条」を探究すべく、小川剛生氏の『拾遺現藻和歌集 本文と研究』(三弥井書店、1996)を見て行くことにします。

https://www.miyaishoten.co.jp/main/003/3-11/syuigenso.htm

同書は大きく翻刻と「『拾遺現藻和歌集』の研究」に分かれていますが、まずは概要を把握するため、後者の「はじめに」を引用します。(p131以下)

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 鎌倉時代末期成立の私撰和歌集『拾遺現藻和歌集』は、現在のところ田中穣氏旧蔵、国立歴史民俗博物館現蔵の一本が知られるのみである。既に川瀬一馬氏編『田中教忠蔵書目録』(自家版 昭57・11)に於いて、
  拾遺現藻和歌集   一冊。室町末期寫。巻首端少々損缼。「山科蔵書」朱印記を捺す。裏打、大本。
と紹介されているが、その内容につき言及した文献はこれまでなかったようである。ここでは、書誌・部立・入集歌人・撰集資料・特色・撰者・意義といった基礎的な事項につき順に解説していくことにしたい。
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「書誌」を見ると、室町後期の写本で、「山科蔵書」の朱印が押されていて、これは山科忠言(1762-1833)のものだそうです。
ただ、

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田中本の内には同じ「山科蔵書」の印記を持つ歌書が他にも何点か含まれている。それらは戦国期の同家当主、権大納言言継(一五〇七~七九)の書写にかかるものが多いが、『拾遺現藻和歌集』の筆跡は言継、あるいはその父言綱・息言経らとも異なっており、今の所、忠言以前の伝来は未詳とせざるを得ない。
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とのことです。(p132)
ついで「部立」に入ると、「 『拾遺現藻和歌集』は冒頭に仮名序を置き、全十巻、八二六首から成る。別に詞書に含まれる歌が三首ある。部立と歌数は次のようになっている」(同)とのことで、巻一から順番に、春歌(80首)、夏歌(54)、秋歌(133)、冬歌(78)、賀(32)、離別羇旅(36)、恋歌上(114)、恋歌下(90)、雑歌上(99)、雑歌下(110)だそうです。
そして、

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巻九は雑の四季詠、哀傷・釈教・神祇は巻十に含まれる。底本は破損による判読不能箇所が多く、また誤写誤読も少なからず見受けられるが、内容的に最も問題となるのは巻七恋上の次の歌群であろう(破損は□で示した。〔 〕内は推定、以下同じ)。
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との指摘の後、556~562番の歌が掲出されていて、558~561が「明らかに異質」なので、「別の文献から纔入したものと見るべき」(p133)だそうです。
「平貞時朝臣すゝめ侍ける三嶋社十首哥に」は553番なので、その直後に「別の文献から纔入したものと見るべき」部分があることから、小林一彦氏は、

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先に記した通り、17は『拾遺現藻集』では作者名の記載がなかった。同集は歴史民俗博物館蔵本のみの孤本で、一部に類題集などが竄入したかと思われる痕跡も存し、その本文は必ずしも良質とは言えないようである。現時点では、可能性を指摘するに留めておきたいと思う。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b48d539ba45bd1c2ba1a6516376b834b

と判断されたようですが、556番までの流れは自然なので、553番の作者を552番と同じく「昭慶門院二条」の作品と考えて無理はないと思われます。
この点、後で改めて検討します。
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