学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「有明の月」ストーリーの機能論的分析(その7)

2022-12-07 | 唯善と後深草院二条

それでは巻三、「院、有明の月と作者の対話を聞く」(1)の冒頭から見て行きます。

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 世の中いと煩はしきやうになりゆくにつけても、いつまで同じながめをとのみ味気なければ、山のあなたの住まひのみ願はしけれども、心に任せぬなど思ふも、なほ捨て難きにこそと、我ながら身を恨み寝の夢にさへ、遠ざかり奉るべきことのみえつるも、いかに違へんと思ふもかひなくて、二月も半ばになれば、大方の花もやうやう気色づきて、梅が香匂ふ風おとづれたるも飽かぬ心地して、いつよりも心細さも悲しさもかこつ方なき。

http://web.archive.org/web/20120516171846/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-1-ariake.htm

次田氏の解説にあるように、「世の中いと煩はしきやうになりゆくにつけても」は『源氏物語』須磨の巻の冒頭「世の中いと煩はしく、はしたなきことのみまされば……」を踏まえています。
三角洋一氏が「作品の内部では年次の空白はなく、巻二巻末の翌年、建治四年(弘安元年。一二七八)と見られるが、年立て上問題があり、いちおう弘安四年、作者二四歳と考えておく」(『新日本古典文学大系 50 とはずがたり・たまきはる』、岩波書店、1994、p115)と書かれているように、話の流れは巻二の巻末と綺麗につながっていますが、年表を作ってみると弘安四年(1281)と考えざるを得ない、という奇妙な現象が起きます。
さて、「そのころ今御所と申すは、遊義門院いまだ姫宮におはしまししころの御ことなり。御悩み煩はしくて、ほど経給ひける御祈りに、如法愛染王行はるべきこと申させ給ふ」ということで、「有明の月」は姈子内親王(遊義門院、1270-1307)の病気治療の祈祷のために御所に呼ばれます。
そして、後深草院と「有明の月」が「いつよりものどやかなる御物語」をする席に二条もいますが、姫宮の容態がよろしくない、との連絡があったので、後深草院が様子を見に行きます。
そこで「有明の月」が泣きながら二条にあれこれ言うのを、いつの間にか戻ってきた後深草院が盗み聞きし、二人の関係を知ります。
「院に有明との秘密を告白、院の述懐」(2)に入ると、後深草院は「姫宮が重病なのに何をやっとるのだ」などと「有明の月」に怒ることも、二条を非難することもなく、それどころか、「さやうの勤めの折からは、悪しかるべきに似たれども、我深く思ふ子細あり。苦しかるまじきことなり」などと言って、積極的に「有明の月」との関係を続けるように二条を促します。
この際、後深草院は「わが新枕は故典侍大にしも習ひたりしかば、とにかくに人知れず覚えしを(わたしの新枕はおまえの母(故大納言典侍)から教えてもらったので、とにかくにも人知れず思いを寄せていたが)」などと言ったりします。

http://web.archive.org/web/20120514093104/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-2-kokuhaku.htm

そして、「院、二人の仲をはからう、有明と契る」(3)の場面では、重病の姫宮のための祈祷の最中にもかかわらず、後深草院は「御修法の心ぎたなさ」など気に懸けず、二条が連日連夜「有明の月」と関係を持つことを推奨します。

http://web.archive.org/web/20110129153447/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-3-futarinonaka.htm

ついで「院、懐妊を予言する」(4)で、二条は「有明の月」の子を妊娠します。

http://web.archive.org/web/20110129160217/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-4-kaininwoyogen.htm

「雪の曙来訪の夜の火事」(5)で、二条の最初の愛人「雪の曙」との縁が薄れて行くことが描かれた後、「院、懐妊を有明に告げようと計画」(6)で、「真言の御談義」のために御所に来た「有明の月」に対し、後深草院は二条が「有明の月」の子を宿したことを伝えます。

http://web.archive.org/web/20061006210121/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-6-shingondanngi.htm

「院、有明を許す、有明感謝」(7)に入ると、後深草院の二条に対する発言の中に、

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過ぎぬる春の頃より、ただには侍らず見ゆるにつけて、ありし夢の事、ただのことならず覚えて、御契りのほどもゆかしく、見しむば玉の夢をも思ひ合せんために、三月になるまで待ちくらして侍るも、なほざりならず、推しはかり給へ。かつは伊勢・石清水・賀茂・春日、国を守る神々の擁護に洩れ侍らん。御心のへだてあるべからず。かかればとて、我つゆも変る心なし。

http://web.archive.org/web/20061006205621/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-7-ariakewoyurusu.htm

などとありますが、ここでの神々の列挙は「有明の月」の(外形だけの)起請文を連想させます。
また、後深草院が引用する「有明の月」の発言として、

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『この仰せのうへは、残りあるべきに侍らず。まことに前業の所感こそ口惜しく侍れ。 かくまでの仰せ、今生一世の御恩にあらず。世々生々に忘れ奉るべきにあらず。かかる悪縁にあひける恨み忍びがたく、三年過行に思ひ絶えなんと思ふ。念誦・持経の祈念にもこれよりほかのこと侍らで、せめて思ひのあまりに、誓ひを起して、巻書をかの人のもとへ送り遣はしなどせしかども、この心なほやまずして、また廻りあふ小車の、憂しと思はぬ身を恨み侍るに、さやうに著きふしさへ侍るなれば、若宮を一所わたし参らせて、我は深き山に籠りゐて、濃き墨染の袂になりて侍らん。なほし年ごろの御志も浅からざりつれども、この一ふしのうれしさは、多生の喜びにて侍る』
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などとありますが、次田氏は「三年過行」について「語釈」で「未詳。これを「三年過ぎ行くに」と読んで、種々の解もある」(p64)とされています。
ここは『とはずがたり』の年表を作ったりしている国文学者にとっては本当に難解で悩ましい箇所ですが、日下力氏は『中世尼僧 愛の果てに 『とはずがたり』の世界』(角川選書、2012)において、

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【前略】ストーリーをすなおにたどれば、ここは二人の出会いからまる三年目、絶交した時から数えたとすれば足掛け三年、どちらにしても「三年過ぎ」たことになる。事実を超えて、ものがたろうとしている叙述姿勢の表れと理解すべきであろう。
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と言われており(p125)、この意見に私も賛成です。
ただ、日下力氏は、全体としては『とはずがたり』を事実の記録とされているので、局所的な「事実を超えて、ものがたろうとしている叙述姿勢」との整合性をどのように取られているのか、私にはちょっと理解し難いところがあります。

コメント
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