陰気な場面が続いた後、「御所を追放される、祖父隆親と対面」(23)に入ると、後深草院に翻弄されて揺れ動く作者の心情が細かく描かれ、文章が乱れがちになっていますが、もちろんこれは作者が意図的にやっていることです。
後深草院二条は極めて明晰な論理的思考ができる人であり、巻二冒頭の「粥杖事件」など、実際の裁判手続を模したコメディの中で理路整然とした弁論も展開されています。
従って、ここでも御所追放の原因が東二条院にあったことが判明するまでの経緯をダラダラ書かずに、最初にバッと結論を出して、簡潔明瞭に経緯を説明することもできた訳ですが、そんなことをしても面白くもなんともないので、作者は読者の反応を想定して、文章に工夫を凝らしている訳ですね。
さて、この場面の最大の謎は、国文学者が作成する『とはずがたり』年表では、二条の御所追放が弘安六年(1283)初秋の出来事とされているのに、『公卿補任』では四条隆親は四年前、弘安二年(1279)九月六日に死去していることです。
この四年のタイムラグはいったい何なのか。
『とはずがたり』を自伝風小説と考える私の立場からは別にどうでも良いことですが、事実の記録と考える人々にとっては相当に重大な問題となるはずです。
その点、後で改めて検討することにして、とりあえず「有明の月」ストーリーを最後まで追って行くことにします。
祖父隆親と対面した場面の続きです。(p142)
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まことに、このうへを強ひて候ふべきにしあらずなど、なかなか出でて後は思ひ慰むよしはすれども、正〔まさ〕に長き夜の寝ざめは、千声万声の砧の音もわが手枕に言問ふかと悲しく、雲居をわたる雁の涙も、物思ふ宿の萩の上葉をたづねけるかとあやまたれ、明かし暮らして年の末にもなれば、送り迎ふるいとなみも何のいさみにすべきにしあらねば、年ごろの宿願にて、祇園の社に千日籠るべきにてあるを、よろづに障り多くて籠らざりつるを、思ひ立ちて、十一月の二日、初めの卯の日にて、八幡宮御神楽なるに、まづ参りたるに、「神に心を」とよみける人も思ひ出でられて、
いつもただ神に頼みをゆふだすき掛くるかひなき身をぞ恨むる
七日の参籠果てぬれば、やがて祇園に参りぬ。
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「神に心を」は『新古今和歌集』神祇の「八幡宮の権官にて年久しかりけることを恨みて、御神楽の夜参りて榊に結びつけ侍りける」という詞書がついた法印成清の歌で、
榊葉にそのいふかひはなけれども神に心をかけぬまぞなき
というものです。
それほどの名歌とも思えませんが、二条の歌と綺麗に対応はしていますね。
石清水八幡宮に参籠した後、「有明の三回忌、祇園に籠る」(24)場面となり、これが「有明の月」ストーリーのラストです。(p149以下)
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いまは、この世には残る思ひもあるべきにあらねば、「三界の家を出でて、解脱の門〔かど〕に入れ給へ」と申すに、今年は有明の三年〔みとせ〕に当たり給へば、東山の聖のもとにて、七日法華講讃を五種の行に行なはせ奉るに、昼は聴聞に参り、夜は祇園へ参りなどして、結願には、露消え給ひし日なれば、ことさらうち添ゆる鐘も涙もよほす心地して、
折々の鐘のひびきに音〔ね〕を添へて何と憂き世になほ残るらん
ありし赤子、引き隠したるもつつましながら、物思ひの慰めにもとて、年も返りぬれば、走り歩き物言ひなどして、何の憂さもつらさも知らぬも、げに悲し。
さても、兵部卿さへ、憂かりし秋の露に消えにしかば、あはれもなどか深からざらんなりしを、思ひ敢〔あ〕へざりし世のつらさを嘆くひまなさに、思ひわかざりしにや、菅〔すが〕の根の長き日暮らし、紛るることなき行ひのついでに思ひつづくれば、母の名残には一人とどまりしになど、今ぞあはれに覚ゆるは、心のとまるにやと覚ゆる。
やうやうの神垣の花ども盛りにみゆるに、文永のころ天王の御歌とて、
神垣に千本〔ちもと〕のさくら花咲かば植ゑおく人の身も栄へなん
といふ示現ありとて、祇園の社におびたたしく木ども植ゆることありしに、まことに神の託し給ふことにてもあり、またわが身も神恩をかうぶるべき身ならば、枝にも根にもよるべきかはと思ひて、檀那院の公誉僧正、阿弥陀院の別当にておはするに、親源法印といふは大納言の子にて申し通はし侍るに、かの御堂の桜の枝を一つ乞ひて、二月の初午の日、執行権長吏、法印ゑんやうに、紅梅の単文〔ひとへもん〕・薄衣、祝詞〔のと〕の布施に賜びて、祝詞申させて、東の経所の前にささげ侍りしに、縹〔はなだ〕の薄様のふだにてかの枝につけ侍りし。
根なくとも色には出でよ桜花ちぎる心は神ぞ知るらん
この枝をいつきて、花咲きたるをみるにも、心の末はむなしからじと頼もしきに、千部の経をはじめてよみ侍るに、さのみ局ばかりは、さしあひ何かのためも憚りあれば、宝幢院のうしろに二つある庵室〔あんじち〕の東〔ひんがし〕なるを点じて、籠りつつ今年も暮れぬ。
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この後、「北山准后九十賀」の長いエピソードで巻三は終わり、巻四・五では「有明の月」は一切登場しません。
「有明の月」の第二子は手元で育てたそうで、「ありし赤子、引き隠したるもつつましながら、物思ひの慰めにもとて、年も返りぬれば、走り歩き物言ひなどして」と、珍しく母親らしい記述もあるのに、この子についての記述も巻四・五にはありません。
また、「兵部卿さへ、憂かりし秋の露に消えにしかば」とあるので、前年の初秋に二条と対面した四条隆親は、その直後に死んでしまったことになります。
これも何だか唐突な展開です。