巻三の「法輪寺に籠る、嵯峨殿より院の使」(11)以降の大井殿(嵯峨殿)を舞台とする「亀山院も変態だったエピソード」(仮称)は、今年の大学入学共通テストに出題された巻一の前斎宮エピソードとよく似ていますね。
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/57e58b7370dd7fe00d9ab34771bb673c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1a43f3431b2e673810afef0dbbe331a
私は何となく前斎宮は巻一で出番が終わったと思っていたのですが、「両院の傍らに宿直、亀山院の贈物」(13)には「按察使の二品のもとに御わたりありし前の斎宮」も登場するので、作者も巻一の前斎宮エピソードを充分に意識していることが窺えます。
次田香澄氏が作成した年表によれば、巻一の前斎宮エピソードは文永十一年(1274)十一月の出来事であり、巻三の「亀山院も変態だったエピソード」(仮称)は弘安四年(1281)十月の出来事で、七年を隔てていますが、何だか同じような人々が同じような場所で同じようなことをやっているようなデジャブ感、というか焼き直し感もあって、「まことに異常で猟奇的ですらある」(次田氏、p95)というには今一つ盛り上がりに欠ける印象もあります。
ただ、文永十一年と弘安四年といえば、それぞれ文永の役、弘安の役とぴったり重なりますので、史実として後深草院・亀山院がこのような行動を取っていたとすれば、元寇という国家の危機に何をやっとるんじゃ、という話になって、当時の宮廷社会が本当に退廃していたと評価されても無理はないことになります。
さて、暫く「有明の月」の出番がありませんでしたが、「東二条院より大宮院への恨みの文」(14)で大宮院経由での東二条院のイヤミに疲れた二条は「四条大宮なる乳母がもとへ」行くと、直ぐに「有明の月」が手紙を送ってきて、「程近きところに、御あいていする稚児のもとへ入ら給ひて(程近い所で、有明の御寵愛の稚児の家においでになって)」とのことで、二条はその稚児の家に出向きますが、そんな密会を何度も重ねていると世間の噂になるだろう、我ながらあさましいなどと思ったりもします。
そして、間もなく後深草院もやって来て、「有明の月」の子を妊娠している二条に対し、出産後の対処について、あれこれ細かい話をします。
この「乳母の家に有明・院の来訪」(15)の場面において、
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かかるほどに、十月の末になれば、常よりも心地も悩ましくわづらはしければ、心細く悲しきに、御所よりの御沙汰にて、兵部卿その沙汰したるも、つゆのわが身のおきどころいかがと思ひたるに、いといたう更くるほどに、忍びたる車の音して門たたく。
という具合いに後深草院の訪問は「十月の末」と設定されています。
なお、出産の「沙汰」をした「兵部卿」は二条の祖父・四条隆親であり、『公卿補任』によれば、隆親は弘安二年(1279)九月六日に死去していますが、この場面では存命と扱われています。
この後、「有明の男子を生む」(16)場面となり、「有明の月」は二条の出産に立ち会います。
「有明の月」は仁和寺御室らしく設定されている高僧なので、その男児の出産を世間に披露する訳にも行かず、後深草院の指示に従って、その子はどこかに連れていかれますが、死産として扱ったので世間の噂も立ち消えになったのだそうです。
「有明の最後の訪問、鴛鴦の夢」(17)の場面で、男児の出産は十一月六日のことだったと明記されます。
そして「有明の月」は「十三日の夜ふくるほどに」再び訪れ、世間で「かたはらやみ」という病気が流行し、多くの人が死んでいるので、「いつかわが身もなき人数にと、心細きままに、思ひ立ちつる」などと不安に口にしつつ、
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「形は世々に変るとも、あひ見ることだに絶えせずは、いかなる上品上生の台にも、共に住まずは物憂かるべきに、いかなる藁屋のとこなりとも、もろ共にだにあらばと思ふ」など、夜もすがらまどろまず語らひ明かし給ふほどに、明け過ぎにけり。
とのことで、出産一週間後の二条と関係を持ちますが、結果的にこれが二条との最後の関係となり、「有明の死と形見、作者の悲嘆」(18)の場面で、十一月二十五日に死んでしまったことが記されます。
何とも慌ただしい怒涛の展開ですが、この後、二条は最後の夜に「有明の月」の第二子を妊娠したことに気付きます。
医学的な見地からは出産一週間後に再び妊娠することはあり得ないそうですが、とにかく二条は妊娠します。