学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「有明の月」ストーリーの機能論的分析(その13)

2022-12-13 | 唯善と後深草院二条

祖父の「四条兵部卿」隆親から「局などをきちんと片づけて退出しなさい。夜になったら車を迎えにやろう」という手紙をもらった二条は、事情が分からなくて後深草院の御前に行って、「何事でしょうか」と尋ねても御返事はなく、当時は三位殿と言われていた玄輝門院(洞院実雄女、熈仁親王母、1246-1329)に事情を聞いても「私も知りません」という返事。
そうかといって出ない訳にもいかないので、準備していると、四歳の九月から参上していた御所を出るのは非常につらく、涙にくれていたところ、例の「恨みの人」、即ち「雪の曙」が来て、泣き濡れている二条に「どうしたのです」と尋ねてくれたがつらくて答えられないので、祖父の手紙を見せるも、「雪の曙」も何のことか分からず、誰も合点が行かない、というのが前回引用した部分の内容です。
そして、次のように続きます。(p140以下)

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 おとなしき女房たちなどもとぶらひ仰せらるれども、知りたりけることがなきままには、ただ泣くよりほかのことなくて、暮れゆけば、御所ざまの御けしきなればこそかかるらめに、またさし出でんもおそれある心地すれども、今より後はいかにしてかと思へば、今は限りの御面影も、今一たび見参らせんと思ふばかりに迷ひ出でて、御前に参りたれば、御前には公卿二三人ばかりして、何となき御物語のほどなり。
 練薄物の生絹〔すずし〕の衣に、芒〔すすき〕に葛〔つづら〕を青き糸にて縫物にしたるに、赤色の唐衣を着たりしに、きと御覧じおこせて、「今宵はいかに御出でか」と仰せ言あり。何と申すべき言の葉なくて候ふに、「くる山人のたよりには訪れんとにや。青葛〔あをつづら〕こそ嬉しくもなけれ」とばかり御口ずさみつつ、女院の御方へなりぬるにや、立たせおはしましぬるは、いかでか御恨めしくも思ひ参らせざらん。
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年長の女房たちも言葉をかけてくれるけれども、ただ泣くよりほかにできないまま暮れ方になると、院の意向でこうなっているのだろうから、御前に出るのははばかられるけれども、これが最後かと思うと、もう一度だけお会いしたいと思って迷い出ると、院は公卿ニ、三人と雑談をしていた。
私は練薄物の生絹の衣に、芒に葛を青い糸で刺繍したものを着、赤色の唐衣を着ていたが、院はチラッと横目で見て、「今宵、出て行くのか」という仰せ言。返事もできないまま控えていると、「その模様は、来る手蔓があったらまた参ろうという訳か。青葛は嬉しくもないね」とだけ口ずさみつつ、東二条院の御方へか、御立ちになったのはどうして恨めしく思わずにいられよう。

ということで、衣裳にまで嫌味を言う後深草院は冷酷です。
そして、

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 いかばかり思し召すことなりとも、「隔てあらじ」とこそあまたの年々契り給ひしに、などしもかかるらんと思へば、時のまに世になき身にもなりなばやと、心一つに思ふもかひなくて、車さへ待ちつけたれば、これよりいづ方へも行き隠れなばやと思へども、ことがらもゆかしくて、二条町の兵部卿の宿所へ行きぬ。
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後深草院の対応に絶望した二条は、すぐに出家しようなどと思うものの、とりあえず事情を知りたいので、隆親が用意し、二条の退出を待っていた車に乗って「二条町の兵部卿の宿所」に行きます。
そこで、

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 みづから対面して、
「いつとなき老いの病と思ふ。このほどになりては殊に煩はしく頼みなければ、御身のやう、故大納言もなければ心苦しく、善勝寺ほどの者だになくなりて、さらでも心苦しきに、東二条の院よりかく仰せられたるを、強ひて候はんも憚りありぬべきなり」
とて、文〔ふみ〕を取り出で給ひたるをみれば、
「院の御方奉公して、この御方をばなきがしろに振舞ふが、本意〔ほい〕なく思し召さるるに、すみやかにそれに呼び出だして置け。故典侍大もなければ、そこにはからふべき人なれば」
など、御みづからさまざまに書かせ給ひたる文なり。
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ということで、隆親は東二条院からの手紙を出して、東二条院が隆親に二条を引き取るように命じたことが判明します。
隆親の言葉の中に「善勝寺ほどの者だになくなりて」とあるので、ここで「善勝寺大納言」四条隆顕が既に死んでしまっていることになりますが、これもずいぶん唐突な話です。
隆顕は巻二までは頻繁に登場していましたが、巻二の最後の方、「近衛大殿」エピソードの「酒宴の後、院の黙契で大殿作者と契る」(28)場面で、

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 かねの折敷に、瑠璃の御器にへそ一つ入れて、妹賜はる。 後夜打つほどまでも遊び給ふに、また若菊を立たせらるるに、「相応和尚の破不動」かぞゆるに、「柿の本の紀僧正、一旦の妄執や残りけん」といふわたりをいふ折、善勝寺きと見おこせたれば、我も思ひ合はせらるるふしあれば、あはれにも恐ろしくも覚えて、ただ居たり。のちのちは、人々の声、乱舞にて果てぬ。

http://web.archive.org/web/20150830053437/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-28-innomokkei.htm

という具合いに、白拍子が歌う今様の一節、「柿の本の紀僧正、一旦の妄執や残りけん」から「有明の月」を連想して、二条を「きと見おこせ」たのを最後として、巻三に入ると全く登場しませんが、ここで既に死んでしまっていることが明かされます。

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「有明の月」ストーリーの機能論的分析(その12)

2022-12-13 | 唯善と後深草院二条

「有明の月」ストーリーに戻って、「男子を生む、子への愛情、身辺寂寥」(22)の続きです。
「有明の月」が死去した翌年の八月二十日、東山で「有明の月」の第二子を出産した二条は、乳母もつけずに暫くその子を手許で育てますが、十月の初めくらいからまた御所に出仕することになったのだそうです。(次田香澄『とはずがたり(下)全訳注』、p134以下)

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 しばしも手をはなたんことは名残惜しくて、四十日あまりにや、自らもてあつかひ侍りしに、山崎といふところより、さりぬべき人を語らひ寄せてのちも、ただゆかを並べて臥せ侍りしかば、いとど御所さまのまじろひもものうき心地して、冬にもなりぬるを、さのみもいかにと召しあれば、十月の初めつ方よりまたさし出でつつ、年もかへりぬ。
 今年は元三に候ふにつけても、あはれなることのみ数知らず、何ごとを悪しとも承ることはなけれども、何とやらん御心の隔てある心地すれば、世の中もいとどものうく心細きに、今は昔ともいひぬべき人のみぞ、「恨みは末も」とて、絶えず言問ふ人にてはありける。
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御所に出仕はしてみたものの、年が明けても明るい気分にはなれず、後深草院との間も隔てが出来てしまったような感じだが、「今は昔ともいひぬべき人」、「雪の曙」だけは「恨みは末も」などと言いつつも絶えず訪ねてきてくれた、とのことですが、「恨みは末も」は『千載集』恋四の俊恵の歌、「思ひかねなほ恋路にぞかへりぬる恨みは末もとおほらざりけり」から採っています。
次田氏の訳によれば、「恨み合って別れたはずだったが、忘れかねてまた元にもどってしまう。愛情とは筋の通らないものだ」という意味で、この場面にぴったりの歌ですね。

俊恵(水垣久氏「やまとうた」より)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syune.html

陰気な場面は更に続きます。(p135)

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 二月のころは、彼岸の御説法、両院嵯峨殿の御所にてあるにも、去年〔こぞ〕の御面影身をはなれず、あぢきなきままには、生身二伝の釈迦と申せば、「唯我一人の誓ひあやまたず、迷ひ給ふらん道のしるべし給へ」とのみぞ思ひつづけ侍りし。

  恋ひしのぶ袖の涙や大井川あふせありせば身をや捨てまし

 とにかくに思ふもあぢきなく、世のみ恨めしければ、底の水屑〔みくづ〕となりやしなましと思ひつつ、何となき古反故などとりしたたむるほどに、さても二葉なるみどり児の行く末を、われさへ捨てなば誰かはあはれをも掛けんと思ふにぞ、道のほだしはこれにやと思ひつづけられて、面影もいつしか恋ひしく侍りし。

  たづぬべき人もなぎさに生ひそめし松はいかなる契りなるらん

還御ののちあからさまに出でてみ侍れば、殊のほかに大人びれて、物語りゑみ笑ひなどするをみるにも、あはれなることのみ多ければ、なかなかなる心地して、参り侍りつつ秋の初めになるに、
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ということで、「去年の御面影」は「有明の月」のことですね。
ただし、「有明の月」は二年前の十一月に死去しているので、「去年の御面影」はちょうど一年前の二月十五日、東山の法華講讃の際に登場した「有明の月」の亡霊のことです。

「有明の月」ストーリーの機能論的分析(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4942b4bc0e50da080eca4eaaf07c3cac

そして、ここから巻三のクライマックス、「御所を追放される、祖父隆親と対面」(23)の場面となります。(p139以下)

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 四条兵部卿のもとより、「局〔つぼね〕など、あからさまならずしたためて出でよ。夜さり迎へにやるべし」といふ文あり。心得ず覚えて、御所へ持ちて参りて、「かく申して候。何ごとぞ」と申せば、ともかくも御返事なし。何とあることとも覚えで、玄輝門院、三位殿と申す御ころのことにや、
「何とあることどもの候やらん。かく候ふを、御所にて案内し候へども、御返事候はぬ」
と申せば、「われも知らず」とてあり。
 さればとて、出でじといふべきにあらねば、出でなんとするしたためをするに、四つといひける九月のころより参り初めて、ときどきの里居のほどだにこころもとなく覚えつる御所のうち、今日や限りと思へば、よろづの草木も目とどまらぬもなく、涙にくれて侍るに、折ふし恨みの人参る音して、「下のほどか」といはるるも、あはれに悲しければ、ちとさし出でたるに、泣き濡らしたる袖の色もよそにしるかりけるにや、「いかなることぞ」など尋ねらるるも、問ふにつらさとかや覚えて、物も言はれねば、今朝の文とり出でて、「これが心細くて」とばかりにて、こなたへ入れて泣きゐたるに、「されば何としたることぞ」と誰も心得ず。
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途中ですが、いったんここで切ります。

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