学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

秋山哲雄氏「鎌倉幕府論 中世の特質を明らかにする」を読む。(その1)

2023-03-03 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

黒田の「中世の国家と天皇」の後に、同じく黒田の「鎌倉幕府論覚書」(初出『日本史研究』70号、1964)を検討してから『承久記』に戻ろうと思っていたのですが、こちらも還暦一歩手前論文であって、執筆当時の学界状況を理解するだけでも若干の時間と手間がかかる上に、それが理解できたとしても今更たいして役に立たない、という感じがしないでもありません。
そこで、権門体制論に深入りした以上、いっそのこと最近の学界事情を俯瞰しておいた方が万事分かりやすように思えてきたので、参考になるテキストがないかを捜したところ、秋山哲雄氏(国士舘大学文学部教授、1972生)の「鎌倉幕府論 中世の特質を明らかにする」(『増補改訂新版 日本中世史入門─論文を書こう』所収、勉誠出版、2021)が良さそうなので、こちらを検討してみます。
この論文は、

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はじめに
戦後の幕府論の登場
権門体制論の登場
多元的国家論からの批判
『日本の中世国家』の登場
二十一世紀の幕府論
幕府論の歴史的背景
幕府を論じる材料
おわりに
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と構成されていますが、「はじめに」は初心者向けなので省略し、「戦後の幕府論の登場」から見て行きます。(p164以下)

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 戦後すぐの時期には、京都の古代政権に対して鎌倉幕府を封建政権ととらえ、封建制の成立の中に鎌倉幕府を位置づけようという研究が進められた。封建政権は、いつか古代政権を乗りこえていくという考え方である。これに対して、本格的な幕府論を展開したのが佐藤進一である。佐藤は一九四九年に発表した「幕府論」のなかで、まずは幕府を「将軍を首長として武士と呼ばれる一箇の封建団体が造成したところの政権の主体」と定義する。それまでの幕府論が、幕府の用語を、政権の本拠の政庁であるとか、政権の首長の居所であるなどとしていたことに対する批判である。
 これをふまえて佐藤は、頼朝による事実的支配と寿永二年の宣旨による一般行政権の付与とによって、鎌倉幕府が国家的存在となり、さらに守護・地頭の設置によって全国的包括的な警備権という新しい公権を取得したとする。そして後期鎌倉幕府は、対公家的には全国政権への発展として、対内的には著しく専制的になるとしている。後期鎌倉幕府の専制的な体制は、佐藤によって得宗専制と表現された。
 佐藤の系譜に位置づけられる石井進は、一九六二年に発表した文章のなかで、幕府は東国に限定された地域権力であり、鎌倉殿を首長とした一箇の軍事政権であると理解して、その成立を一一八〇年(治承四)の末ごろに求めた。そして、東国の在地領主層を軸にその後の幕府政治史を説明している。
 本来ならば、鎌倉幕府を論じるには、その成立だけでなく滅亡までの政治史を踏まえなければなるまい。その意味で佐藤・石井の説は、幕府成立のみならず、鎌倉時代全体を見極めようとする広い視野をもつものだと評価できる。しかし、特に鎌倉時代後半の政治史に欠けていたのは、幕府と朝廷との関係であった。そこに登場したのが、黒田俊雄である。
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石井進の「一九六二年に発表した文章」とは『岩波講座日本歴史第5  中世第1』(1962)所収の「鎌倉幕府論」ですね。
次いで、「権門体制論の誕生」に入ります。(p165以下)

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 黒田俊雄は一九六四年に発表した「中世の国家と天皇」のなかで権門体制という概念を提唱した。中世の国家は、天皇を中心として公家・寺家・武家などの権門が相互補完的に国家を構成するという概念である。この権門体制論をふまえて鎌倉幕府を論じた黒田は、鎌倉幕府が当時の国家を構成するひとつの権門にすぎないと指摘した。
 黒田の一連の研究は、鎌倉幕府論を中世国家論まで高めたという点で大きな意味をもつ。黒田説にしたがえば、幕府は国家を構成する一部局に過ぎない存在となる。幕府に新たな国家を見いだしていたそれまでの研究は、黒田説への反論を余儀なくされた。この後の幕府論は、幕府を国家史のなかにいかに位置づけるかという方向にすすみ、さらには中世国家をどう理解するのかという問題へと広がっていく。
 黒田に最初に反論したのは永原慶二であった。「日本中世国家史の一問題」の中で永原は、在地領主制の成長に沿って中世国家の発展段階を説明する自説を展開し、その中に権門体制論は位置づけがたいとする。
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「一九六四年に発表した」とありますが、正しくは1963年ですね。
注(6)には、

(6)黒田俊雄「中世の国家と天皇」(『黒田俊雄著作集』第一巻、法蔵館、一九九四。初出は一九六三)。

と正しく記載されているのに、どうなっているのか。
ま、それはともかく、秋山氏の「鎌倉幕府論を中世国家論まで高めた」という表現は面白いですね。
秋山氏は「鎌倉幕府論」より「中世国家論」の方が高い位置にあると考えておられる訳ですが、これはどのような意味で高いのか。
黒田俊雄も「中世国家論とは、中世史研究全般の成果に立ってその根幹を論ずるものでなければならぬというたいへんなことを意味する」とか「中世国家論は中世史研究の総括の上にそびえ立つがごとき表題をもちながらも」などと言っていましたが、秋山氏も「国家論」は総合的なものであるから価値が高い、とされるのでしょうか。
そもそも秋山氏は「国家」をいかなるものと定義し、「国家の本質」をどのようなものと捉え、「国家論」の対象を何と考えておられるのか。
多くの歴史学研究者の通例に従い、秋山氏も「国家」概念を明確にしないまま、みんなが何となく「国家」と呼んでいるものの周辺を徘徊するだけです。
これは『中世に国家はあったか』(岩波ブックレット、2004)の著者、新田一郎氏と全く同じ姿勢ですね。

『中世に国家はあったか』に学問的価値はあったか?(その1)~(その18)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b528c87e85b851cfa02eb2f51e7142d7
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5da1e4a2c47e38abdd62cc4bafe4231d

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黒田俊雄「中世の国家と天皇」を読む。(その3)

2023-03-03 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。(p5以下)

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 ところで、以上のような観点から日本中世の国家を把握するためには、当面どのような手続きが必要であろうか。それは第一に、いわゆる公家・武家が国家権力機構のうえにおいて、相互補完的な関係にあった事実を、明らかにすることである。公家と武家とが対立する側面をもっていたことは、いままでに充分すぎるほど強調されてきたことであるが、単純な対立でもそのうえでの妥協的共存でもなく、機構的に相互の依存と補完の関係にあったことを注意しなければ、対立や妥協とみえることの意味も正しく理解できないとおもう。第二に、そのような相互の関係がみられるならば、公家・武家それぞれの階級的性格は、通説のように「古代的」と「封建的」として根本的に対立させられるものと異なり、共通した階級的側面─たとえば、本来の性格は異なるにしても、ともに封建領主階級として、被支配人民に対して共通の立場に立ちうるというような─をもつのでないかということを、当然再考してみる必要がある。本稿は、そのような経済史的分析の場ではないから、そのことに紙幅をさく余裕はないが、中世史研究の現状からいって、一般に「古代的」とされる公家の性格が、果たして古代的といえるものかどうか、まだ明確でないという点を、銘記しておきたいとおもう。第三には、上の二つのことが、わずか一時期の過渡的現象でなく、いわゆる中世の全般にわたって基本的なものとして持続したかどうかが、問題である。もとより、その間に種々の変動があったこと自体は、これもいままでに繰り返し指摘されてきたところで、ことに南北朝内乱期に中世を前後に分かちうるほどの変化がみられたことは、そのかぎり事実である。だが、にもかかわらずその前後を通じて一貫し、しかも古代や近世にみられないものがあったとすれば、それはまさしく日本中世国家の特質を示すものではなかろうか。私は、表面的な現象の追究だけでこと足りるといっているのではなく、特殊具体的な性格を捨象する結果にならないようにと、主張しているのである。
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これで「はじめに─中世国家論の課題─」は全て紹介しました。
黒田は結局、「国家」の定義も「国家の本質」をどのように考えるかも示しませんでしたが、私自身はウェーバーに従って「国家の本質」を「正統的暴力の独占」と考えています。
そして、私のような立場からすると、はたして黒田の「中世の国家と天皇」は「国家論」なのだろうか、という根本的な疑問が生じてきます。
「日本国」という概念は中世にも存在し、例えば『承久記』の流布本では、

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 同年夏の比より、王法尽させ給ひて、民の世となる。故を如何〔いか〕にと尋れば、地頭・領家の相論とぞ承はる。古〔いにし〕へは、下司・庄官と云計〔いふばかり〕にて、地頭は無りしを、鎌倉右大将、朝敵の平家を追討して、其の勧賞〔けんじやう〕に、日本国の惣追捕使に補せられて、国々に守護を置き、郡郷に地頭をすへ、段別兵粮を宛て取るゝ間、領家は地頭をそねみ、地頭は領家をあたとす。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ce17f2c51d4e775757e1a1365739939

とあります。
ただ、中世の史料に出て来る「日本国」は概ね古代律令国家から承継した支配領域の意味であり、「国家の本質」として論じられているような意味での「国家」ではありません。
私は「日本国」の領域内の「正統的暴力の独占」の変化だけを国家論の問題と考えますが、私の立場からは、中世前期の場合、

(1)源平合戦(治承寿永の内乱)と奥州合戦
(2)承久の乱
(3)蒙古襲来
(4)後醍醐天皇による倒幕運動

の四つだけが国家論の課題となります。
戦争であっても、比企氏の乱・和田合戦・宝治合戦・霜月騒動等のような幕府内部の権力争いは「国家論」の対象ではなく、荘園制のような経済的問題も「国家論」の対象ではなく、まして黒田が重視する宗教などはおよそ「国家論」の対象ではありません。
私の立場は、あるいは極端に見えるかもしれませんが、しかし、「幕府そのものがどうなっていたか」、「御家人の経済的基礎となった所領や村落・荘園の性格や変化」、「天皇や貴族の社会的・政治的ないし文化的な諸々の側面」などは「国家論」の範疇外となり、「中世国家論とは、中世史研究全般の成果に立ってその根幹を論ずるものでなければならぬというたいへんなことを意味する」こともなく、従って、「国家論」が諸々の個別テーマに関する「研究に寄生する浮草のような存在」となることも、「理屈の空転におわる恐れ」もありません。
ということで、私はそもそも「中世の国家と天皇」は「国家論」ではないと考えているのですが、しかし、黒田が、

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本稿に課せられているのは、そういう世界史的な規模での理論を直接扱うことではなく、日本の中世といわれる時代に国家がいかなる構造と特質をもっていたかという点を、真正面から問題にすることだと思う。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8fbdf80e525f4f4bd0017a2847b69dca

として論じたことの全てが「浮草」であり「理屈の空転」かというと、そんなことはありません。
私は黒田と異なり、鎌倉時代には朝廷を中心とする「西国国家」と幕府を中心とする「東国国家」の「二つの国家」が存在したと考えるのですが、それぞれの「国家」の中で、「国家」ではなく「社会」が「いかなる構造と特質をもっていたか」を考える上では参考になる議論が多いですね。
私は「一つの国家」を前提としないので「公家・武家が国家権力機構のうえにおいて、相互補完的な関係にあった」とは考えませんが、公家(西国国家)と武家(東国国家)が、戦争はしないという基本的合意の上で、部分的には「相互補完関係」にあったと考えます。
また、「公家・武家それぞれの階級的性格」は、公家が「古代的」、武家が「封建的」として「根本的に対立させられる」訳ではなく、「共通した階級的側面」はあり、「西国国家」と「東国国家」のそれぞれにおいて「ともに封建領主階級として、被支配人民に対して共通の立場に立ちうるというような」こともあったろうと思います。
しかし、「上の二つのこと」すなわち公家・武家の相互補完関係と「共通した階級的側面」が「わずか一時期の過渡的現象でなく、いわゆる中世の全般にわたって基本的なものとして持続したかどうか」については、私は懐疑的です。
これは、鎌倉時代に限っても、

(1)源平合戦(治承寿永の内乱)と奥州合戦
(2)承久の乱
(3)蒙古襲来
(4)後醍醐天皇による倒幕運動

の四つの戦争で区切られた三つの時期ごとに、別々に論ずべき問題だろうと思います。

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