黒田の「中世の国家と天皇」の後に、同じく黒田の「鎌倉幕府論覚書」(初出『日本史研究』70号、1964)を検討してから『承久記』に戻ろうと思っていたのですが、こちらも還暦一歩手前論文であって、執筆当時の学界状況を理解するだけでも若干の時間と手間がかかる上に、それが理解できたとしても今更たいして役に立たない、という感じがしないでもありません。
そこで、権門体制論に深入りした以上、いっそのこと最近の学界事情を俯瞰しておいた方が万事分かりやすように思えてきたので、参考になるテキストがないかを捜したところ、秋山哲雄氏(国士舘大学文学部教授、1972生)の「鎌倉幕府論 中世の特質を明らかにする」(『増補改訂新版 日本中世史入門─論文を書こう』所収、勉誠出版、2021)が良さそうなので、こちらを検討してみます。
この論文は、
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はじめに
戦後の幕府論の登場
権門体制論の登場
多元的国家論からの批判
『日本の中世国家』の登場
二十一世紀の幕府論
幕府論の歴史的背景
幕府を論じる材料
おわりに
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と構成されていますが、「はじめに」は初心者向けなので省略し、「戦後の幕府論の登場」から見て行きます。(p164以下)
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戦後すぐの時期には、京都の古代政権に対して鎌倉幕府を封建政権ととらえ、封建制の成立の中に鎌倉幕府を位置づけようという研究が進められた。封建政権は、いつか古代政権を乗りこえていくという考え方である。これに対して、本格的な幕府論を展開したのが佐藤進一である。佐藤は一九四九年に発表した「幕府論」のなかで、まずは幕府を「将軍を首長として武士と呼ばれる一箇の封建団体が造成したところの政権の主体」と定義する。それまでの幕府論が、幕府の用語を、政権の本拠の政庁であるとか、政権の首長の居所であるなどとしていたことに対する批判である。
これをふまえて佐藤は、頼朝による事実的支配と寿永二年の宣旨による一般行政権の付与とによって、鎌倉幕府が国家的存在となり、さらに守護・地頭の設置によって全国的包括的な警備権という新しい公権を取得したとする。そして後期鎌倉幕府は、対公家的には全国政権への発展として、対内的には著しく専制的になるとしている。後期鎌倉幕府の専制的な体制は、佐藤によって得宗専制と表現された。
佐藤の系譜に位置づけられる石井進は、一九六二年に発表した文章のなかで、幕府は東国に限定された地域権力であり、鎌倉殿を首長とした一箇の軍事政権であると理解して、その成立を一一八〇年(治承四)の末ごろに求めた。そして、東国の在地領主層を軸にその後の幕府政治史を説明している。
本来ならば、鎌倉幕府を論じるには、その成立だけでなく滅亡までの政治史を踏まえなければなるまい。その意味で佐藤・石井の説は、幕府成立のみならず、鎌倉時代全体を見極めようとする広い視野をもつものだと評価できる。しかし、特に鎌倉時代後半の政治史に欠けていたのは、幕府と朝廷との関係であった。そこに登場したのが、黒田俊雄である。
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石井進の「一九六二年に発表した文章」とは『岩波講座日本歴史第5 中世第1』(1962)所収の「鎌倉幕府論」ですね。
次いで、「権門体制論の誕生」に入ります。(p165以下)
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黒田俊雄は一九六四年に発表した「中世の国家と天皇」のなかで権門体制という概念を提唱した。中世の国家は、天皇を中心として公家・寺家・武家などの権門が相互補完的に国家を構成するという概念である。この権門体制論をふまえて鎌倉幕府を論じた黒田は、鎌倉幕府が当時の国家を構成するひとつの権門にすぎないと指摘した。
黒田の一連の研究は、鎌倉幕府論を中世国家論まで高めたという点で大きな意味をもつ。黒田説にしたがえば、幕府は国家を構成する一部局に過ぎない存在となる。幕府に新たな国家を見いだしていたそれまでの研究は、黒田説への反論を余儀なくされた。この後の幕府論は、幕府を国家史のなかにいかに位置づけるかという方向にすすみ、さらには中世国家をどう理解するのかという問題へと広がっていく。
黒田に最初に反論したのは永原慶二であった。「日本中世国家史の一問題」の中で永原は、在地領主制の成長に沿って中世国家の発展段階を説明する自説を展開し、その中に権門体制論は位置づけがたいとする。
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「一九六四年に発表した」とありますが、正しくは1963年ですね。
注(6)には、
(6)黒田俊雄「中世の国家と天皇」(『黒田俊雄著作集』第一巻、法蔵館、一九九四。初出は一九六三)。
と正しく記載されているのに、どうなっているのか。
ま、それはともかく、秋山氏の「鎌倉幕府論を中世国家論まで高めた」という表現は面白いですね。
秋山氏は「鎌倉幕府論」より「中世国家論」の方が高い位置にあると考えておられる訳ですが、これはどのような意味で高いのか。
黒田俊雄も「中世国家論とは、中世史研究全般の成果に立ってその根幹を論ずるものでなければならぬというたいへんなことを意味する」とか「中世国家論は中世史研究の総括の上にそびえ立つがごとき表題をもちながらも」などと言っていましたが、秋山氏も「国家論」は総合的なものであるから価値が高い、とされるのでしょうか。
そもそも秋山氏は「国家」をいかなるものと定義し、「国家の本質」をどのようなものと捉え、「国家論」の対象を何と考えておられるのか。
多くの歴史学研究者の通例に従い、秋山氏も「国家」概念を明確にしないまま、みんなが何となく「国家」と呼んでいるものの周辺を徘徊するだけです。
これは『中世に国家はあったか』(岩波ブックレット、2004)の著者、新田一郎氏と全く同じ姿勢ですね。
『中世に国家はあったか』に学問的価値はあったか?(その1)~(その18)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b528c87e85b851cfa02eb2f51e7142d7
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5da1e4a2c47e38abdd62cc4bafe4231d