学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

平岡豊氏「藤原秀康について」(その5)

2023-03-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

私は平岡豊氏のお名前も知らず、「藤原秀康については」は分析が緻密な優れた論文なので、一体何者なのだろう、などと思っていたのですが、国学院大学出身で、森幸夫氏や岡野友彦氏と同世代の方のようですね。
少し検索してみたところ、『史学雑誌』96巻5号(1987)の『一九八六年の歴史学界 回顧と展望』「中世二」は石井進・平岡豊・森幸夫・岡野友彦の四氏が担当されています。
ただ、平岡氏の論文は1990年代で終わっていて、歴史学からは離れてしまった方のようですね。
さて、当初の予定では平岡氏の論文をあまり長々と引用するつもりはなく、より新しい長村祥知氏の「藤原秀康─鎌倉前期の京武者と承久の乱」(平雅行編『公武権力の変容と仏教界』、清文堂出版、2014)などを参照させてもらうつもりだったのですが、分量は平岡論文の方が多く、紹介されている史料も興味深いものが多いですね。
また、この後、慈光寺本への言及が増えるのですが、平岡氏のように古文書・古記録に詳しい、いわば歴史学の王道を行く研究者が慈光寺本を扱う際に感じたであろう困惑が窺える箇所があって、私には特に面白く感じられます。
そこで、このまま平岡論文を参照させてもらおうと思います。
ということで、続きです。(p25以下)

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 一方、備中国においても秀康の所領が認められる。某申状案の一部を引用してみよう。

   殿上熟食米料所備中国隼嶋保間事、
  右、当保者国衙進止本所一円之地、吉備津宮神供并殿上熟食米之料所也、云神税云 勅役
  重色異他之処、承久年中依秀康知行、被没収之被補地頭之上者、以往相伝永削其号畢、
  (中略)
  当保為承久没収地進 公家条顕然事、
  右、同状云、本神主秀康知行者、当社領数十箇所事也、而当庄者為領□□□〔主之沙カ〕
  汰、運上神供於社家、是則守秀康所務先例故也、当庄為関東御□□□□、雖致社家一同
  之沙汰、不妨領主之所務、又神主与秀康者、為同名之処、□□〔熟〕食御教書進 公家
  之由、掠申云々、

秀康は備中国一宮である吉備津宮の社領数十箇所を知行しており、神主は秀康の一族であった。吉備津宮領は秀康跡として上野入道日阿(結城朝光)が地頭職と社務職に補任されているので、秀康は少なくとも社務職を有していたということになる。田中稔氏は隼嶋保は「国衙領であるが、一方では後鳥羽院領たる吉備津宮領でもあり、更に又大炊寮にも熟食米をも出している。」と述べられるとともに、秀康が「院へ接近することにより後鳥羽院領の一つ備中国吉備津宮神主職を院より与えられたものと思われる。」とされている。しかしながら、吉備津宮領数十箇所のうちの一つである隼嶋保は「国衙進止」である。諸国の一宮・国分寺が国衙の保護下にあったことは周知のところであり、しかも後鳥羽院政末期に備中国務は秀康の掌握するところであった。つまり、吉備津宮領は、後鳥羽院領というよりも、備中国衙領としての性格が強いのではなかろうか。備中における秀康の所領の展開は、その国衙支配との関連においてとらえるべきであると思われる。
 以上、秀康の所領について検討してみたが、それは一在地領主の所領展開といった範囲を大きく越えたものであると言えよう。本拠地とされる河内においても、また大和においても、さらに備中においても然りであり、そのような所領展開を可能にしたものは秀康とその一族による国衙支配であったと言えるのではなかろうか。その背景には、後鳥羽院の特別な思惑があったに違いない。
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ということで、ここから「四 秀康の国衙支配」に入ります。
こちらは最近の研究で進展も見られるようですが、私の知識・能力を超える分野なので、慈光寺本が出てくるところまで、紹介だけでどんどん進むつもりです。(p26以下)

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   四 秀康の国衙支配

 秀康による国衙支配の様相は『吾妻鏡』承元四年(一二一〇)七月二〇日条に象徴的に表れている。

  上総国在庁等有参訴事、是秀康<院北面>去月十七日任当国守、同下旬之比、其使者入部
  国務之間、於事背先規致非義、在庁等愁歎之刻、忽起喧嘩、刃傷数輩土民等云々。如相
  州・広元朝臣・善信有沙汰、是非関東御計、早可奏達之由、被仰下云々、

目代を派遣しての強引な国務が在庁との対立を引き起こしている。しかもそれが鎌倉幕府の膝下ともいうべき上総での出来事であるのを見ると、西国の国守となったときの国務がいかなるものであったかを想像するのは容易である。
 そしてこのような国務の結果は後鳥羽院への経済的な奉仕という形で表れる。すなわち、河内守であったのではないかと思われる建保元年(一二一三)には法勝寺九重塔再建に際して「金堂并廻廊修理造賞」にあずかり、淡路守であった建保五年(一二一七)には仙洞で「一日大般若経供養」を行い、備前守であった建保六年(一二一八)には「高陽院改造賞」によって重任するとともに従四位下に叙されている。
 特に承久年間の大内裏造営における秀康の活動は注目される。造営は承久元年(一二一九)七月一三日の源頼茂討滅事件によって大内裏が焼亡したことに対応するもので、小山田義夫氏によれば「王朝政権が独自に、全国の庄公から造営費を徴発して行なった最後の大規模な大内裏造営であった」という。この関連文書は行事所の一員であった右中弁藤原頼実の子経光が日記の料紙として使用したため今日に伝えられており、その中には承久二年(一二二〇)に比定される秀康の書状が二通含まれる。最初に七月二六日付のものを見てみよう。

    (端裏)
  「[      ]」
  率分所年預陳状、謹以給預候了、無指證文被改季□候之間、一旦令言上許
  候、去年□八月四日奉国務候、仍無進済候□、但此仰上不及申是非候歟、
  秀康恐惶謹言
     七月廿六日        備前守秀康

秀康が国務を奉った国は、すでに建保六年(一二一八)に備前守として高陽院の改造を行っていることから、備前以外の国でなければならない。ではその国はどこであろうか。
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段落の途中ですが、少し長くなったので、いったんここで切ります。

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平岡豊氏「藤原秀康について」(その4)

2023-03-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

平岡豊氏の論文も今から三十二年前のものなので、あるいは「本郷申可郷地頭長江八郎左衛門尉」についても何らかの研究の進展があるのかもしれません。
何か御存知の方は御教示願いたく。

さて、「三 秀康の所領」で昨日引用した部分の続きには秀能に関する若干の記述があります。
所領関係は国文学者の田渕句美子氏の論文には出て来ないので、こちらも参考として引用しておきます。(p23以下)

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 そして、この甲可領におそらくは接する形で讃良庄が存在する。田中稔氏は、安達景盛が承久三年(一二二一)一二月に讃良庄預所地頭職に補任されたことから、讃良庄を承久没収地の一つと認定され、一歩進んで浄謙俊文氏は秀康が讃良庄預所職であったと考えられるとされ、宮川満氏は秀康の所領とされている。これらは可能性のある見解と思われるが、秀康ないしその一族は讃良庄の預所職ないし下司職を保有していたということになろうか。当時の本所は不明であるが、田中氏は八条院領の一つである歓喜光院領と推定されている。正治二年(一二〇〇)には既に立庄されて一部の所職(領家職か)は藤原氏御子左流に伝えられている。
 さらに甲可郷の東部には、やはりおそらくは接して、田原庄があった。これは安貞二年(一二二八)の七条院処分目録案に見える庄園であり、秀能が七条院に伺候していた祗候していたことからして、秀康に関係のあった庄園である可能性は充分にあろう。丹生谷哲一氏は秀康が逃亡した讃良が、具体的には田原庄を指すとの説を紹介されているのである。
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「田中稔氏は……讃良庄を承久没収地のの一つと認定され」に付された注(49)には「「金剛三昧院文書」承久三年一二月二二日付関東下知状案(『鎌倉遺文』二八九八)」とあります。
また、浄謙俊文氏の見解は『大東市史』、宮川満氏と丹生谷哲一氏の見解は『大阪府史 三』ですね。
なお、私は「承久合戦慈光寺本妄信研究者交名」(仮称)を鋭意作成中ですが、今のところ丹生谷哲一氏(大阪教育大学名誉教授、1935生)が一番最初に載せるべき人ではなかろうかと思っています。

「関係史料が皆無に近い」長江荘は本当に実在したのか?(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/af58023942711f54b112cc074308b3ad

ま、それはともかく、続きです。(p24)

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 以上のように讃良郡には秀康の所領であった甲可郷、秀康に関係した所領であったのではないかと思われる讃良庄・田原庄があり、隣の茨田郡には伊香賀郷があった。秀康は甲可郷を中核とする所領群においては、強力な支配を展開していた。このような大規模な所領の展開は、村上源氏との関係を背景として考えることができるとともに、秀康の一族が河内守を歴任したという点からも説明が付けられよう。前節で見たように、秀忠は河内守に任官したと伝えられ、秀康は建暦(一二一一~一二)の頃に河内守であり、秀能は承久三年(一二二一)初め頃に河内守であった。伊香賀郷が国衙領であったことを考えれば、これら三人の河内守任官が所領の拡大に寄与したことは間違いない。
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「秀能は承久三年(一二二一)初め頃に河内守であった」に付された注(58)には「注(13)と同じ」とあって、これは「別表 秀康一族の官位」のことです。
「別表 秀康一族の官位」は煩瑣なので引用はしませんでしたが、改めて秀能の分だけ引用してみると、

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正六位上  「影供歌合」建仁元(一二〇一)・8・3等
左兵衛少尉  同右
左衛門少尉 「北野宮歌合」元久元(一二〇四)・11・11等
任主馬首  『明月記』元久2(一二〇五)・1・30等
任検非違使尉 『尊卑分脈』承元4(一二一〇)・12・22
叙従五位下 『明月記』建保元(一二一三)・4・26 
      (行事検非違使賞、使如元)
任出羽守  『東宝記』建保4(一二一六)・2・29等
      (搦進盗人賞、使如元)
叙従五位上 『如願法師集』建保5(一二一七)12・8
      (行幸行事賞)
河内守   「道助法親王家五十首和歌」
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とあります。
そして(注13)には、

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「道助法親王家五十首和歌」は建保六年(一二一八)に行われた和歌会の記録らしいが、参加者の官位は承久二年(一二二〇)から翌年にかけての頃のものであることが『公卿補任』等によって確かめられる。上限は承久二年一二月一八日(藤原雅経の任参議)、下限は翌年四月二〇日(藤原実氏の止春宮権大夫)であり、秀能が河内守であったのもその頃ということになろう。なお秀能の叙従五位下の記事は「季能」となっているが誤記と考えた。
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とあります。
承久三年四月二〇日は順徳天皇が懐成親王(仲恭天皇)に譲位した日ですから、承久の乱の直前であり、秀能は承久の乱勃発の時点で河内守であったと考えてよさそうですね。
さて、本文に戻って続きです。(p24以下)

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 そして彼ら一族の勢力は隣国大和においても卓越したものがあった。秀宗が大和守でもあったと伝えられるとともに、山辺郡井上庄は秀能の所領であった。正応元年(一二八八)の井上庄領主寺僧等陳状案の一節に、

  件庄領者本卅六町也、而本領主長縁<太輔公>知行之時、聊雖有相論子細、任道理彼
  子息氏女蒙御成敗、無相違数年之間令領掌畢、仍甲乙地主等、自彼氏女之手所売買
  相伝也、而其内有因縁十町令相伝秀能方之処、承久大乱之時、自関東被没収彼所帯
  之刻、井上庄十町地頭矢田八郎二郎分配給畢、而彼地頭十町之外、甲乙領掌之地類
  無故悉令点定之間、氏女并地主等申開子細之間、在相伝之道理、十町之外、可令停
  止地頭濫妨之由、蒙御成敗、

とある。井上庄三六町のうち秀能跡は一〇町にすぎないという主張であるが、井上庄は興福寺一乗院領と認められるので、秀能と興福寺の関係の一端が窺える。
 また鳥羽上皇の勅願によって建てられた永久寺の置文には「阿弥陀仏元者嵯峨大覚寺古仏也、(中略)、而当国勇士秀能奉迎之、欲建堂舎、爰去承久天下逆乱時、秀能蒙余殃被没収家産之間、不遂素願空送星霜」とあって、大和国の御願寺と秀能の密接な関係が知られる。この永久寺は興福寺一乗院の系列寺院であったらしい。
 さらに、承久の乱に敗れた秀康・秀澄兄弟が南都に潜んでいるとの情報をつかんだ北条時房は、使者を派遣して探索にあたらせたが、衆徒が蜂起して使者を殺戮したので、数千騎の軍勢を差し向けて圧力をかけ、秀康の後見を差し出させており、また東大寺の子院の別当であった類暁は秀康の子息を十数年にわたって匿っていた。
 すなわち、秀康の一族の勢力は、興福寺・東大寺などの勢力と提携して、大和国に浸透していたと見てよいであろう。
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永久寺は神仏分離・廃仏毀釈で有名な内山永久寺のことですが、秀能との関係は後でもう一度触れる予定です。
また、「北条時房は……数千騎の軍勢を差し向けて圧力をかけ、秀康の後見を差し出させており」は『吾妻鏡』承久三年十月十二日条に出ています。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-10a.htm

「東大寺の子院の別当であった類暁は秀康の子息を十数年にわたって匿っていた」は『吾妻鏡』嘉禎四年(暦仁元)十月四日条が典拠です。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma32-10.htm

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