私は平岡豊氏のお名前も知らず、「藤原秀康については」は分析が緻密な優れた論文なので、一体何者なのだろう、などと思っていたのですが、国学院大学出身で、森幸夫氏や岡野友彦氏と同世代の方のようですね。
少し検索してみたところ、『史学雑誌』96巻5号(1987)の『一九八六年の歴史学界 回顧と展望』「中世二」は石井進・平岡豊・森幸夫・岡野友彦の四氏が担当されています。
ただ、平岡氏の論文は1990年代で終わっていて、歴史学からは離れてしまった方のようですね。
さて、当初の予定では平岡氏の論文をあまり長々と引用するつもりはなく、より新しい長村祥知氏の「藤原秀康─鎌倉前期の京武者と承久の乱」(平雅行編『公武権力の変容と仏教界』、清文堂出版、2014)などを参照させてもらうつもりだったのですが、分量は平岡論文の方が多く、紹介されている史料も興味深いものが多いですね。
また、この後、慈光寺本への言及が増えるのですが、平岡氏のように古文書・古記録に詳しい、いわば歴史学の王道を行く研究者が慈光寺本を扱う際に感じたであろう困惑が窺える箇所があって、私には特に面白く感じられます。
そこで、このまま平岡論文を参照させてもらおうと思います。
ということで、続きです。(p25以下)
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一方、備中国においても秀康の所領が認められる。某申状案の一部を引用してみよう。
殿上熟食米料所備中国隼嶋保間事、
右、当保者国衙進止本所一円之地、吉備津宮神供并殿上熟食米之料所也、云神税云 勅役
重色異他之処、承久年中依秀康知行、被没収之被補地頭之上者、以往相伝永削其号畢、
(中略)
当保為承久没収地進 公家条顕然事、
右、同状云、本神主秀康知行者、当社領数十箇所事也、而当庄者為領□□□〔主之沙カ〕
汰、運上神供於社家、是則守秀康所務先例故也、当庄為関東御□□□□、雖致社家一同
之沙汰、不妨領主之所務、又神主与秀康者、為同名之処、□□〔熟〕食御教書進 公家
之由、掠申云々、
秀康は備中国一宮である吉備津宮の社領数十箇所を知行しており、神主は秀康の一族であった。吉備津宮領は秀康跡として上野入道日阿(結城朝光)が地頭職と社務職に補任されているので、秀康は少なくとも社務職を有していたということになる。田中稔氏は隼嶋保は「国衙領であるが、一方では後鳥羽院領たる吉備津宮領でもあり、更に又大炊寮にも熟食米をも出している。」と述べられるとともに、秀康が「院へ接近することにより後鳥羽院領の一つ備中国吉備津宮神主職を院より与えられたものと思われる。」とされている。しかしながら、吉備津宮領数十箇所のうちの一つである隼嶋保は「国衙進止」である。諸国の一宮・国分寺が国衙の保護下にあったことは周知のところであり、しかも後鳥羽院政末期に備中国務は秀康の掌握するところであった。つまり、吉備津宮領は、後鳥羽院領というよりも、備中国衙領としての性格が強いのではなかろうか。備中における秀康の所領の展開は、その国衙支配との関連においてとらえるべきであると思われる。
以上、秀康の所領について検討してみたが、それは一在地領主の所領展開といった範囲を大きく越えたものであると言えよう。本拠地とされる河内においても、また大和においても、さらに備中においても然りであり、そのような所領展開を可能にしたものは秀康とその一族による国衙支配であったと言えるのではなかろうか。その背景には、後鳥羽院の特別な思惑があったに違いない。
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ということで、ここから「四 秀康の国衙支配」に入ります。
こちらは最近の研究で進展も見られるようですが、私の知識・能力を超える分野なので、慈光寺本が出てくるところまで、紹介だけでどんどん進むつもりです。(p26以下)
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四 秀康の国衙支配
秀康による国衙支配の様相は『吾妻鏡』承元四年(一二一〇)七月二〇日条に象徴的に表れている。
上総国在庁等有参訴事、是秀康<院北面>去月十七日任当国守、同下旬之比、其使者入部
国務之間、於事背先規致非義、在庁等愁歎之刻、忽起喧嘩、刃傷数輩土民等云々。如相
州・広元朝臣・善信有沙汰、是非関東御計、早可奏達之由、被仰下云々、
目代を派遣しての強引な国務が在庁との対立を引き起こしている。しかもそれが鎌倉幕府の膝下ともいうべき上総での出来事であるのを見ると、西国の国守となったときの国務がいかなるものであったかを想像するのは容易である。
そしてこのような国務の結果は後鳥羽院への経済的な奉仕という形で表れる。すなわち、河内守であったのではないかと思われる建保元年(一二一三)には法勝寺九重塔再建に際して「金堂并廻廊修理造賞」にあずかり、淡路守であった建保五年(一二一七)には仙洞で「一日大般若経供養」を行い、備前守であった建保六年(一二一八)には「高陽院改造賞」によって重任するとともに従四位下に叙されている。
特に承久年間の大内裏造営における秀康の活動は注目される。造営は承久元年(一二一九)七月一三日の源頼茂討滅事件によって大内裏が焼亡したことに対応するもので、小山田義夫氏によれば「王朝政権が独自に、全国の庄公から造営費を徴発して行なった最後の大規模な大内裏造営であった」という。この関連文書は行事所の一員であった右中弁藤原頼実の子経光が日記の料紙として使用したため今日に伝えられており、その中には承久二年(一二二〇)に比定される秀康の書状が二通含まれる。最初に七月二六日付のものを見てみよう。
(端裏)
「[ ]」
率分所年預陳状、謹以給預候了、無指證文被改季□候之間、一旦令言上許
候、去年□八月四日奉国務候、仍無進済候□、但此仰上不及申是非候歟、
秀康恐惶謹言
七月廿六日 備前守秀康
秀康が国務を奉った国は、すでに建保六年(一二一八)に備前守として高陽院の改造を行っていることから、備前以外の国でなければならない。ではその国はどこであろうか。
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段落の途中ですが、少し長くなったので、いったんここで切ります。