学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

川合康氏「鎌倉幕府研究の現状と課題」を読む。(その4)

2023-03-09 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

私は川合氏の「超権門的性格」論は権門体制論としては論理的に破綻しており、その破綻は承久の乱の戦後処理に最も鮮明に現れていると思いますが、川合氏も承久の乱について若干の説明をされているので、その内容を確認しておきます。(p24以下)

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 承久の乱では、当初幕府は藤原秀康・三浦胤義ら上皇「逆臣」の追討を掲げて軍事行動を起こしているが、乱後に行われた戦後処理は、三上皇の配流、王家領の没官など、まさに上皇そのものを「謀叛人」としてあつかうものであった。王家没官領は幕府が擁立した後高倉法皇に返付されたが、ここで注目すべき点は、伴瀬明美氏や高橋一樹氏が指摘されたように、鎌倉後期になると、旧王家没官領をめぐる所職相論においては、王家内から「関東御口入」を積極的に望む動向があらわれていることである。つまり、承久の乱における幕府の軍事行動は、単に幕府の実力行使としてではなく、軍事権門による一連の「謀叛人」処分として貴族社会においても合意がなされているのである。そして、上皇が「謀叛人」として軍事権門によって処断された事実を合理化・正当化する論理として、天命思想・帝徳批判に基づく後鳥羽「不徳」観が公武両権力に浸透していくことになる。後醍醐の倒幕計画が公武双方で「当今御謀叛」「公家謀叛」と呼ばれ、「謀叛(反)」の語義そのものが明確に変質してしまうのも、右のような鎌倉期の捻れた公武関係を踏まえてはじめて理解しうると思われる。
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うーむ。
この部分、私には川合氏が何を言いたいのか、正直、よく分りません。
幕府に「超権門的性格」があるということは「捻じれた公武関係」と同義で、変に思うかもしれないけれども、そうした捻じれが鎌倉時代の「国家」の現実なのだから、それをそのまま直視せよ、という主張なのでしょうか。
幕府は「権門」、すなわち「国家」の内側の存在であるけれども、同時に「超権門的性格」があり、「国家」の外側の存在でもあって、まさに「メビウスの輪」そのものなのだ、この位相幾何学を理解しない限り幕府は正確に認識できない、という主張なのでしょうか。
ま、私自身は、承久の乱の戦後処理は「二つの国家」を前提とすれば非常に簡単に説明できると思っています。
以前、若干戯画的に書きましたが、西国国家(朝廷)と東国国家(幕府)の「二つの国家」が戦争したと考えれば、その戦後処理は、

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(1)西国国家(朝廷)は敗戦国、東国国家(幕府)は戦勝国で、東国国家は西国国家の法体系に従うことなく、承久の乱の責任者(上皇・天皇を含む)を処罰することができる。
(2)西国国家は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄」し、「戦力は、これを保持しない」、「国の交戦権は、これを認めない」。
(3)西国国家の皇位継承は東国国家の事前の承認を必要とし、東国国家は「不徳」の天皇を廃位することができる。また、東国国家は「不徳」の上皇を流罪に処することができる。
(4)承久の乱の責任者(上皇・天皇を含む)の所領は東国国家が全て没収し、自由に処分することができる。
(5)天皇家の所領は東国国家がいったん全て没収する。しかし、東国国家が希望すればいつでも返還に応じるという条件付きで、天皇家に返却する。
(6)東国国家は西国国家が「講和条約」を誠実に遵守することを監視するため、京都に監視機関(六波羅探題)を設置することができる。
(7)「講和条約」で定められた新しい「国際法秩序」は西国国家の法秩序(律令法の大系)に優越するものであって、この「国際法秩序」を乱すことは「謀叛」となり、上皇・天皇であっても「謀叛」人となり得る。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c6e725c677b4e285b26985d706bf344c

となり、論理的な矛盾は皆無です。
律令法の大系、そして権門体制論では天皇の「謀叛」は説明できませんが、「二つの国家」論では合理的な説明が可能であり、実際に元弘の変では後醍醐は「謀叛人」と認識されたのですから、当時の人々の法意識にも適合することになります。
なお、立教大学教授・佐藤雄基氏は「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」(『史学雑誌』129編10号、2020)の注10で、

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(10) 現実の最高実力者が鎌倉幕府・得宗であることをもって権門体制論への批判とする類の議論が後を絶たないが、黒田も幕府が「権門政治の主導権」をもつことは認めている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c17a2e0b20ec818c1ab0afd80862eb6f

と書かれていますが、権門体制論では幕府が「権門政治の主導権」を持つことまでは説明できても、幕府が律令法の大系を超えた戦後処理を行なったことは説明できず、承久の乱の結果生じた法秩序の変容も説明できないと思います。

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川合康氏「鎌倉幕府研究の現状と課題」を読む。(その3)

2023-03-09 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。
川合氏は上横手雅敬氏の権門体制論との違いを強調されます。(p23以下)

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 では、鎌倉幕府を全国的な軍事権力としてとらえるならば、それは権門体制論の立場ということになるのであろうか。かつて上横手雅敬氏は、権門体制論の立場から「私的従者を率いる軍事権門が、国家守護を担当する。─これが公家政権下における幕府のあり方である。しかしこのような軍事権門は、鎌倉幕府の成立をまたず、すでに前代に登場していた」と述べられ、鎌倉前期の幕府は院政期の軍事権門(武家の棟梁)の国家的機能と基本的に変化がなかったと主張された。しかし私は、鎌倉幕府権力を、院政期の軍事権門と同質、あるいはその順調な発展形態とは理解していない。鎌倉幕府は、軍事権門として国制に位置づけられながらも、権門としてとらえられない性格を色濃くもっており、平氏を含む院政期の軍事権門とは一線を画する存在であったことに注意したいのである。中世国家をとらえる視角としては権門体制論に近い理解をとっているにもかかわらず、私がこれまで権門体制論を議論の前面に押し出さなかった理由はそこにある。
 従来、鎌倉幕府の自立的性格については、東国国家としての側面を強調するのが一般的であった。例えば、鎌倉幕府には、挙兵以来実力によって築き上げてきた東国国家としての性格と、旧来の王朝国家の軍事・検断上の権門としての性格の二重の性格があったとされる五味文彦氏氏の見解は、その代表的なものであるが、ここで論じたいのは、軍事権力の側面における幕府の超権門的性格についてである。
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ごく普通の言語感覚の持ち主なら、「鎌倉幕府は、軍事権門として国制に位置づけられながらも、権門としてとらえられない性格を色濃くもって」いたならば、それは「権門」ではないのではないか、「超権門的性格」をもつ「権門」とはいったい何なのか、という疑問を抱くと思いますが、川合氏の説明は次のように続きます。(p24以下)

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 鎌倉幕府の全国支配の支柱である荘郷地頭制は、朝廷に対する「謀叛人」の所領を幕府が没官し、地頭職補任の形で没官領を御家人に給与するシステムであるが、これは先にも少し触れたように、挙兵以来頼朝のもとで独自に進められてきた敵方所領没収・没収地給与という反乱軍の軍事体制に起源をもつものであった。一方の平氏軍が、既存の国家秩序のもとで朝廷にかわる没官領給与の主体となりえなかったことを考えれば、鎌倉幕府という新しい軍事権力が、いかに内乱の政治過程と密接に関わって形成された固有の歴史的存在であったのかがよく理解されよう。そしてこの荘郷地頭制の成立によって、鎌倉殿は所領を媒介とした御家人との主従関係を家産の枠を超えて展開できたのであり、またいざとなれば、廟堂粛正や奥州合戦、承久の乱において現実化したように、幕府は朝廷の意向と関係なく、独自に政敵に「謀叛人」のレッテルを貼り、追討・没官領給与を行なうことができたのである。
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うーむ。
「一方の平氏軍が、既存の国家秩序のもとで朝廷にかわる没官領給与の主体となりえなかった」とあるので、川合氏は幕府が「既存の国家秩序」を超えた存在だと認識していることになります。
そして実際に幕府が、「いざとなれば」、「朝廷の意向と関係なく、独自に政敵に「謀叛人」のレッテルを貼り、追討・没官領給与を行なうことができた」ことは、主として川合氏の努力により明らかにされたとはいえ、川合氏の解釈ではなく、歴史的事実です。
つまり、幕府が「既存の朝廷を中心とする国家秩序」を超えた存在であることは歴史的事実です。
とすると、これは権門体制論、すなわち黒田俊雄以来、「一つの国家」を自明の前提とする国家論で説明できるのか。
川合氏が「超権門的性格」をもつ「権門」を認めることは、「一つの国家」の否定であり、即ちそれは川合説が権門体制論の枠内に収まらないことを示しているのではないか。
川合説は「権門体制論」とは両立せず、「二つの国家」を前提としなければ成り立たない議論なのではないか。
まあ、川合氏は「いざとなれば」という限定を付けられるので、幕府は普段は大人しく「朝廷の意向」に従っている「権門」なのだけれども、ときどき「朝廷の意向」に逆らってしまう我儘でお茶目な「権門」なのさ、でもそれはごくごく例外的な話なので、そんなに気にする必要はないのさ、と考えておられるのかもしれません。
ただまあ、その例外が幕府草創期の「廟堂粛正や奥州合戦」にとどまるならまだしも、頼朝の鎌倉入部から四十一年後、奥州合戦から数えても三十二年後の承久の乱まで及んでいいのか。
承久の乱の場合、幕府は「朝廷の意向」に逆らって官軍を撃破し、三上皇・二宮を配流し、約三千か所の荘園を没収した訳ですが、これが単なる例外で済まされるのか。

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川合康氏「鎌倉幕府研究の現状と課題」を読む。(その2)

2023-03-09 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。(p21以下)

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 しかし、かつての「守護地頭論争」が、授権内容の法解釈をめぐって一字一句の解釈を競い、一種の袋小路に陥ってしまったように、こうした視角の徹底化は、鎌倉幕府という新しい権力の形成を公武交渉の政治過程に解消してしまう傾向をもち、幕府の実質的な権力形成の動向が軽視されるという研究状況を生み出すことにもなった。一九五六年に石母田正氏が、「八〇年の頼朝の権力を『私権』とする一般的な見解は、それがまだ朝廷または中央権力によって、政治的にも、法的にも承認されていないことを理由とするのであるが、この見解は中央国家または公家法による『承認』の有無が、『私権』と『公権』をわける基準になっている。この考え方は鎌倉政権の確立過程を、主として『幕府』の─それは多かれ少なかれ公家法との関連をもつ制度である─成立時期の問題に解消する傾向となって、伝統的に強く存在した。九二(建久三)年七月、頼朝が朝廷から征夷大将軍に補任された時をもって幕府の成立とする『武家名目抄』以来の説も、九〇(建久元)年、頼朝が右近衛大将に任官した時にもとめる説も、思想的には同一の根源をもっているといえよう。(略)このような誤った思想は、鎌倉幕府の成立過程、すなわち頼朝の権力の発展の諸段階とそれぞれの特質を明確にするという学問的な研究を阻害してきた点で重要である」と述べられたような状況は、近年まで続いていたと考える。
 私が進めてきた鎌倉幕府成立史研究は、以上のような研究状況を意識して、治承・寿永の内乱と戦争の展開のなかで、幕府権力の実質がいかに形成され、それが平時にいかに定着していったのかという問題を、実態的に明らかにしようとしたものであった。拙著において、ある特定の時点を鎌倉幕府の成立時期として指定しなかった理由も、右のような石母田氏の指摘を念頭に置いていたからであり、例えば、戦時に形成された幕府権力の平時への定着が図られた文治五年(一一八九)奥州合戦を、新しい幕府の成立時期として拙著において主張することよりも、内乱の展開と幕府権力の諸段階の在り方を動態的に考察するという研究姿勢を示す方が、現在の研究段階でははるかに重要であると考えたからである。
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注(3)を見ると、石母田氏の見解の引用は『石母田正著作集 第九巻』12・13頁からで、初出は「鎌倉政権の成立過程について」(『歴史学研究』200号、1956)とのことです。
そして、この後、権門体制論と東国国家論の問題が出てきます。(p22以下)

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 ただし、ここで強調しておきたいのは、公権委譲論的な発想をとらないからといって、朝廷の動向を無視したり、朝廷による反乱権力の「承認」の意義を否定しているわけでは決してないことである。拙著は、鎌倉幕府の成立を、朝廷権力の動向も含めたこの時期の国家機構全体のなかで統一的にとらえようとする一九七〇代以降の研究動向を前提にしており、結果はどうあれ、その発展を目指したものであった。この点、朝廷権力の動向・規定性を重視される西田友広氏が、「もちろん、戦争からの分析によって公権委譲論を相対化し、実力によって成立する幕府像を打ち立てたことは本書の意義として、いくら強調してもしすぎる事はないと思う。しかし、寿永二年以降の幕府は何らかの力で朝廷の力の恩恵を受けているはずであり、それは戦争を遂行する上での政治の産物であろう」と述べられ、朝廷や既存の国家体制との関係を軽視して幕府権力の成立を論じているかのように拙著を評されているが、それは私の本意ではない。
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段落の途中ですが、いったん、ここで切ります。
「拙著は、鎌倉幕府の成立を、朝廷権力の動向も含めたこの時期の国家機構全体のなかで統一的にとらえようとする一九七〇代以降の研究動向を前提にしており」に付された注(4)を見ると、例示されている文献は、

上横手雅敬「建久元年の歴史的意義」(『赤松俊秀教授退官記念 国史論集』1972)
  同  「鎌倉幕府と公家政権」(『岩波講座日本歴史5 中世1』、1975)
杉橋隆夫 「鎌倉初期の公武関係」(『史林』54巻6号、1971)
  同  「鎌倉前期政治権力の諸段階」(『日本史研究』131号、1973)

の四つです。
ここからも川合氏が自説の基礎とする権門体制論は、史的唯物論の臭みが強い黒田理論ではなく、上横手雅敬氏によって蒸留・精製された権門体制論であることが窺えます。
さて、私も西田友広氏の書評を読みましたが、私には西田氏が「朝廷や既存の国家体制との関係を軽視して幕府権力の成立を論じているかのように」川合著を評されているとは思えませんでした。
しかし、川合氏は西田氏の見解をそのように受け止めた上で、古澤直人氏の書評と比較されます。(p23)

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逆に幕府権力の自立性を重視される古澤直人氏が、拙著における荘郷地頭制の理解(頼朝の反乱権力のもとで展開した敵方所領没収・没収地給与が、王朝国家に追認されることによって、荘郷地頭制という新しい没官刑システムが創出されたとする理解)に対して、「氏は東国国家論、権門体制論という国家論とはしばらく距離を置くとしているのだが、ここでの氏の記述はあくまで権門体制論の枠組みに依拠しており、その枠内でのみ成立する議論である。東国国家論の立場に立つならば、王朝の『追認』『最終的確認』にかかわらず、それは国家的制度なのであり、『追認』『最終的確認』は単に外交上の交渉ないしは承認ということになる」と指摘された内容の方が、私の意図を正確に踏まえた批判であるといえよう。鎌倉幕府をとらえる私の立場は、「東国国家論や権門体制論とはしばらく距離を置いて、幕府の全国支配の国家史上の意義を具体的に追究していきたい」と述べたものの、明らかに権門体制論に近く、東国国家論とは大きな隔たりがあるからである。
 私の場合、伊勢や河内など西国の諸地域を主なフィールドにして、鎌倉幕府権力がいかに在地社会に立ち現れてくるかという観点で研究を進めてきたこともあり、幕府成立の国家史的意義を東国社会に限定する東国国家論には強い違和感をもっている。また拙著では源頼朝の権力が東国の反乱軍として形成された点を重視しているが、それは東国国家論の立場からではなく、その段階に形成された頼朝権力の性質が、全国的な軍事権力としての幕府の歴史的特質を規定したと考えるためである。
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川合氏は「幕府成立の国家史的意義を東国社会に限定する東国国家論」と言われますが、幕府成立は西国社会に甚大な影響を与えたので、「西国国家」にとっても「国家史的意義」があると解することは可能であり、むしろその方が自然ではないかと思いますが、川合氏は佐藤進一の東国国家論は「幕府成立の国家史的意義を東国社会に限定する」ものと把握されたようですね。
また、川合氏は「拙著では源頼朝の権力が東国の反乱軍として形成された点を重視しているが、それは東国国家論の立場からではなく」とされるので、この点は上横手雅敬氏とも異なりますね。
上横手氏は、治承四年(1180)十二月に「東国国家」が独立したけれども、「寿永二年十月宣旨が、公家政権による東国の併合条約であったことは、否定できない」(「鎌倉幕府と公家政権」、『鎌倉時代政治史研究』所収、吉川弘文館、1991、p12)とされ、約三年間という短期間ではあるものの「東国国家」が存続した、という立場です。
つまり上横手説は約三年間の短く儚い「東国国家」期を除いた権門体制論ですが、この点は後続の研究者にはあまり支持されていないようですね。

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