学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その24)─「八幡大菩薩・賀茂・春日、哀ミ納受ヲ垂給ヘ」

2023-03-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

昨日紹介した場面について若干の補足をすると、流布本では贄田三郎・四郎・右近の三人のうち、三郎・四郎は最後の最後まで活躍しますが、慈光寺本では「仁江田三郎父子三騎」は「間野次郎左衛門尉」宗景にあっさり殺されてしまったことになっていますね。

流布本も読んでみる。(その9)─伊賀光季父子の最期
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/462f779be347631f2ac4daa36ac65905

それにしても、慈光寺本では寿王とその烏帽子親で舅でもある佐々木広綱の美談は、「弓矢取」には「道心事」は不要だという「間野次郎左衛門尉」宗景の発言とその勇猛な行動ですっかり霞んでしまっており、この程度で終わらせるのなら、何故にわざわざ五月十四日に佐々木広綱と光季の思わせぶりな酒宴エピソードを置いたのかが不思議に思えてきます。
慈光寺本は五月十四日に広綱・光季の酒宴エピソードを長々と入れたため、翌十五日に光季への後鳥羽院の三度の召喚と総攻撃が重なるという忙しい展開になってしまい、遊女・白拍子の扱いなどを含め、全体的に話の流れがチグハグになっています。
それだけ無理をして広綱・光季の酒宴エピソードを入れたのだから、このエピソードにストーリー展開の上での何か特別な効果を期待しているのかと思ったら、広綱と寿王のやりとりは割とあっさりと終わってしまい、しかも、流布本のように戦場での美談として語られる訳でもありません。
「山城守」ではなく「佐佐木弥太郎判官高重」が寿王の烏帽子親だとする流布本の方が遥かに自然で、遥かに緊張感に溢れたストーリー展開となっており、流布本と比べると慈光寺本のストーリーは何とも後味が悪く、広綱の存在感も非常に希薄になっていますね。
原流布本が慈光寺本に先行すると考える私の立場からすると、何だか流布本の美談を破壊すること自体が慈光寺本作者の目的のような感じがしないでもありません。
ま、それはともかく、続きです。(p321以下)

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 両方ニ死者多〔おほし〕。御方〔みかた〕三十五騎。判官モ痛手負〔おひ〕、今ハ限〔かぎり〕ト思テ、出居ノ内ヘゾ入ニケル。政所ノ太郎ヲ召寄テ、「敵ニ火カケサスナ。此方〔こなた〕ヨリ火カケヨ」ト下知〔げぢ〕セラレケリ。寝殿ノ間ニ火懸タリケレバ、上天〔しやうてん〕ノ雲トゾ焼上〔やきあが〕ル。判官ハ寿王喚ヨセ云ハレケルハ、「光季、今ハ限ト思フ也。自害セヨ」ト有ケレバ、火中ヘ飛入〔とびいり〕、三度マデコソ立帰レ。判官是ヲ見玉ヒ、「寿王ヨ。自害エセズハ、是ヘ立ヨレ。遺言〔ゆいごん〕セン」ト宣玉〔のたま〕ヒケレバ、寿王冠者〔くわんじや〕立寄ケリ。判官膝ニ引懸〔ひきかけ〕、云ハレケルハ、「去年霜月ニ、新院八幡御幸成シ時、大渡〔おほわたり〕ノ橋爪〔はしづめ〕固メテ、御所ノ見参ニ入〔いり〕、「カシコキ冠者ノ眼〔まな〕ザシ哉」ト、叡感ヲ蒙ブリタリシカバ、光季モ嬉シク覚テ、来〔こ〕ンズル秋除目〔あきのぢもく〕ニハ、官〔つかさ〕所望セント思ヒツルニ、今ハ限ノ命コソ心細ケレ」。寿王冠者申ケルハ、「自害ヲエ仕〔つかまつり〕候ハヌニ、父ノ御手〔おんて〕ニカケサセ玉ヘ」ト申ケレバ、判官宣玉ヒケルハ、「命ヲ惜ミ、「鎌倉ヘ落行〔おちゆか〕ン」トゾ云ハント思〔おもひ〕ツルニ」トテ、横サマニ懐キ、刀〔かたな〕ヲ抜出シ、既ニサゝントシケルガ、流ルゝ涙ニ目クレ、刀ノ立所〔たてど〕、更ニ見ヘザリケリ。乍去〔さりながら〕、三刀〔みかたな〕指テ、燃ル炎ノ中ニ投入テ、念仏ヲ申〔まうし〕、「南無帰命頂礼、八幡大菩薩・賀茂・春日、哀〔あはれ〕ミ納受ヲ垂〔たれ〕給ヘ。光季、都ニ留〔とどまり〕テ、十善ノ君ノ御為ニスゴセル罪モナキ者ヲ、宣旨ヲ蒙〔かうぶり〕テ、命ハ君ニ召レヌ。名ヲバ後代〔こうたい〕ニ留置〔とどめおか〕ン」ト宣玉ヒテ、又鎌倉ノ方ヲ三度伏拝〔ふしおが〕ミ、「無〔なか〕ラン後ノ敵、打玉ヘ、大夫殿」トテ、政所ノ太郎手ヲ取チガヘテ、寿王ノ上ニマロビ懸リ、炎ノ底ニ入ニケリ。
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ということで、光季父子は自害します。
流布本と比較すると、流布本ではどちらが火を懸けたのかは書いてありません。
そして、光季に「時こそ能成たれ。自害せよ。云ひつる言に似、構て能振舞へ、寿王」と言われた寿王は切腹しようとしますが、幼いために上手く腹を切ることができず、それを見た光季は、「如何に寿王、火社よけれ。火へ入かし」と言います。
慈光寺本では、寿王が切腹を試みたことは書かれておらず、いきなり火へ飛び込むことになっていますね。
寿王を切る前の光季の言葉も流布本と慈光寺本ではずいぶん違っていて、流布本では「新院八幡御幸」の際に寿王が新院(順徳)から「カシコキ冠者ノ眼ザシ哉」と誉められたなどという思い出話はありません。
そして、流布本では寿王が父と共に討死する覚悟を表明する場面で、

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 判官嫡子、寿王冠者とて今年十四に成ける。元服して光綱とぞ申ける。判官、是を招て、「汝、今年十四歳にして稚〔いとけ〕なし。軍に逢ん事も如何か可有らん。幼に紛て、案内者の冠者原〔ばら〕七八人相具して落よかし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/12f7a2664bc4296dea94aabcdd4a942f

とあって(『新訂承久記』、p61)、鎌倉へ行く可能性についての丁寧な説明がありますが、慈光寺本の「鎌倉ヘ落行ン」云々はどうにも唐突ですね。
また、光季は「南無帰命頂礼、八幡大菩薩・賀茂・春日、哀ミ納受ヲ垂給ヘ」と祈っていますが、賀茂・春日と並べているので、この「八幡大菩薩」は石清水です。
流布本では「南無帰命頂礼鎌倉八幡大菩薩・若宮三所、権大夫(が)為に、命を王城に捨置ぬ」となっていて、鎌倉の八幡大菩薩に祈っており、こちらの方が「関東の御代官」(p60)、「鎌倉殿の御代官」(p68)である光季にふさわしい感じがします。
更に最後の最後、光季は「政所ノ太郎手ヲ取チガヘテ」火に飛び込みますが、流布本では「政所ノ太郎」は登場せず、また、光季は「腹掻切て、寿王が焼けるに飛加り、打重てぞ焼にける」(p68)とあって、光季は腹を切った後に火に飛び込んでいますね。
流布本と慈光寺本を比較すると、光季父子自害の場面も、総じて流布本の方が簡潔で緊張感に満ちた描写となっており、慈光寺本にはどこかチグハグな感じが否めません。
さて、続きです。(p322以下)

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 去程〔さるほど〕ニ、能登守ハ御所ニ参〔まいり〕、軍〔いくさ〕ノ次第申上ケレバ、十善ノ君モ御尋〔たづね〕有ケリ。秀康奏申ケレバ、「軍ノ為体〔ていたらく〕、詞〔ことば〕モ不及〔およばず〕キブクコソ候ツレ。一千余騎ノ打手ノ御使ト光季ガ卅一騎ノ勢ト、未〔ひつじ〕ノ始ヨリ申〔さる〕ノ終ニ及ブマデニ戦候ツルニ、御方三十五騎被討〔うたれ〕候ヌ。手負〔ておひ〕ハ数モシラズ。アナタニハ恥アル郎等少々被討、或光季父子自害ニテ候」ト奏シケレバ、十善ノ君ノ宣旨ノ成様〔なるやう〕ハ、「然〔しかり〕ト云ヘドモ、哀〔あはれ〕、光季ヲバ御方ニシテ、イケテ置〔おき〕、大将軍ヲサセバヤ」トゾ仰出〔おほせ〕サレケル。
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「未ノ始ヨリ申ノ終ニ及ブマデニ」とのことなので、戦闘は午後一時から五時まで、およそ四時間続いたことになります。
長大な伊賀光季追討エピソードはこれで終りです。

コメント
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