続きです。(p167)
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『日本の中世国家』の登場
一九八三年になると、佐藤進一が再び声を上げる。『日本の中世国家』のなかで佐藤は、律令国家が変質解体し、十二世紀前期に中世国家の祖型である王朝国家が成立した後、十二世紀末の東国に生まれた鎌倉幕府は、王朝国家とは異なる第二の中世国家の型であると主張した。その後は、十三世紀中葉になると二つの国家が相互不干与、自立の関係となって分裂併存の状況が容認されるも、十三世紀末には統一権力の追究へとむかうという筋道を示している。
佐藤進一の『日本の中世国家』に対しては、黒田俊雄、村井章介、上横手雅敬らが書評などの形で次々と批判をおこなった。
一九六〇年代~八〇年代に続いたこれらの論争は、鎌倉幕府を封建制のなかに位置づける戦後の研究をさらに進めて、当初の論争の対象であった鎌倉幕府の成立時期だけでなく、朝廷と幕府の関係、建武政権の意義、室町幕府の性格にまでおよぶ広範囲なものとなっていった。
黒田俊雄が提唱した権門体制論に対して、佐藤進一や石井進の立場は東国国家論とよばれた。東国国家論は、網野のような説を生み出しながら、権門体制論と対立していくことになる。しかし一九九〇年代以降は、どちらの立場に立つにせよ相当の覚悟が必要となったこともあって、この議論に新規に参入する研究者はあまり登場しなくなる。幕府論が国家論にまで展開していったために、いわば空中戦の様相を呈していったこの議論は、説明概念として簡潔な権門体制論がやや優勢のうちに沈静化していった。
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『日本の中世国家』(岩波書店、1983)は私にとって謎の書物で、ここには承久の乱が存在しません。
https://www.iwanami.co.jp/book/b496860.html
もちろん「承久の乱」という語句自体は散発的に登場しますが、承久の乱の意義を論じた部分が全くないんですね。
まあ、佐藤は「はしがき」で、
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【前略】わたくしが本書で述べたい主要な論点は次の三点である。一つ、律令国家解体のあとに生まれた王朝国家こそ中世国家の祖型であり、十三、四世紀の王朝権力なるものは王朝国家の展開形態に外ならぬこと。二つ、十二世紀の末、東国に生まれた鎌倉幕府は、独自の特質をもつ中世国家のもう一つの型であること。三つ、王朝国家と鎌倉幕府とは、相互規定的関係をもって、それぞれの道を切り開いたこと、以上である。【後略】
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と書いているので、既に存在している「西国国家」(「王朝国家」)に遅れて「十二世紀の末」、鎌倉幕府という「東国国家」が生まれている以上、承久の乱は二つの国家の存在そのものには特段の意味をなさない、ということなのかもしれません。
しかし、普通に考えれば、承久の乱で「東国国家」が「西国国家」に圧勝したことにより、「東国国家」自体の支配が一段と強固となったのみならず、「東国国家」の「西国国家」に対する影響力は圧倒的に強化された訳ですから、別に承久の乱の勝利によって「東国国家」が成立したという立場でなくとも、いわばその「国家性」の質的・量的変化について若干の言及があってもよさそうなものですが、『日本の中世国家』には全く存在しません。
この点は本当に不思議であり、佐藤の東国国家論の根本的欠点であろうと私は考えます。
ちなみに、上横手流の権門体制論でも、承久の乱はきちんと論じられていません。
上横手の「鎌倉幕府と公家政権」(初出『岩波講座日本歴史5(中世1)』、1975)は『鎌倉時代政治史研究』、吉川弘文館、1991)に収録されていますが、その構成は、
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1 公家政権下の鎌倉幕府
2 東国の独立国家
3 諸国守護権
4 承久の乱の前提
5 承久の乱の意義
6 得宗専制の成立
7 得宗専制の再評価
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となっていて、「5 承久の乱の意義」も七頁弱と、それなりの分量の記述となっています。
しかし、その内容は、
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承久の乱によって、一体何がどう変わったのかという素朴な疑問に対して、端的に解答した研究は乏しいし、論議もかみあっていない。貫達人の見解は極めて明確である。北条氏嫡流が治天の君の権限を行使するようになり、形式上は朝廷を存続させながら、皇位継承者の決定権、摂関以下公卿の実質的人事権等を確保するに至ったと述べている。逆に黒田俊雄の評価は消極的で冷淡であり、「頼朝が文治以後に獲得した国政上の権限の権門体制内での安定化」に外ならないと述べている。
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と述べた後は、「幕府が荘園領主(貴族・社寺)対在地領主(武士)の対立を調整するに至ったことこそが重要なのである」(p25)として、石清水八幡宮領薪荘と興福寺領大住荘の間の相論について三頁ほど、「治天の君や天皇の選定圏の問題」について二ページほど、そして「承久の乱の勝利にもかかわらず、公家政権に対する不干渉の政策」が続いた「幕府の内情」(p30)がダラダラと書かれているだけで、とても「承久の乱の意義」と言えるようなレベルの記述ではありません。
結局、黒田・上横手の権門体制論、佐藤進一の東国国家論のいずれにおいても承久の乱の意義がきちんと論じられることはなく、研究史の上でポッカリと穴が空いていた訳ですね。